教皇ベネディクト十六世の220回目の一般謁見演説 司祭の奉仕職

4月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の220回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「司祭年」の閉幕が近づくにあたって、「司祭の奉仕職」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。謁見には16,000人の信者が参加しました。教皇は前日の4月13日(火)午後、復活祭後滞在していたカステル・ガンドルフォ教皇公邸からバチカンに戻りました。


謁見の終わりに、教皇は、14日朝、地震の被害に遭った中国の被災者のためにイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「わたしの思いは強い地震に見舞われた中国と中国国民に向かいます。この地震は多くの人命を奪い、けが人と甚大な損害を生み出しました。わたしは犠牲者のために祈るとともに、この大きな災害により苦しむすべての人に霊的に寄り添います。神がこのかたがたの苦しみを和らげ、不幸の中で力づけてくださるよう祈り求めます。多くの人々が支援してくださることを願います」。
4月14日午前7時49分(日本時間同日8時49分)、中国西部青海省チベット族自治州玉樹県でマグニチュード7.1の大地震が発生しました。当局によると、この地震で15日未明までに少なくとも589人が死亡し、1万人以上が負傷しました。


 親愛なる友人の皆様。

 わたしたちは復活節を過ごしています。復活節はわたしたちを聖霊降臨に導くとともに、「司祭年」の閉幕式にも導きます。「司祭年」の閉幕式は来る6月9日、10日、11日に開催を予定しています。このときにあたり、叙階された奉仕職というテーマについていくつかの考察を行いたいと思います。そのため、司祭が、与えられた「3つの任務(tria munera)」を果たすことを通じて、頭(かしら)であるキリストに似せて造り変えられるという実り豊かな現実を考察します。「3つの任務(tria munera)」とは、教え、聖化し、統治するという3つの職務です。
 司祭が「頭であるキリストの代理者として(in persona Christi Capitis)」行動するとはどういう意味かを理解するために、また、とくにこの3つの職務を果たすことを通じて、主の代理となるという務めからどのような結果が生じるかを理解するために、まず「代理」ということばが何を意味するかを明らかにしなければなりません。司祭はキリストを代理します。これはどういうことでしょうか。だれかを「代理する」とは何を意味するのでしょうか。通常のことば遣いでは、それは一般に、だれかから委託されて、代わりに出席し、代わりに発言し、行動することです。それは、代理される人が具体的に行動する際に不在だからです。ここでわたしたちは自らに問いかけます。司祭は同じような意味で主を代理するのでしょうか。こたえはこうです。そうではありません。なぜなら、キリストが教会の中に不在であることは決してないからです。教会はキリストの生きたからだだからです。教会の頭は、教会の中にいて働いておられるキリストだからです。キリストが不在であることは決してありません。そればかりか、キリストは、復活の出来事によって、空間と時間の限界にまったく縛られることなしに現存します。わたしたちがこの復活節にこの出来事を特別な形で観想しているとおりです。
 それゆえ、「頭であるキリストの代理者として(in persona Christi Capitis)」、すなわち主の代理として行動する司祭は、不在の人の代わりに行動するのではなく、復活したキリストの身分そのものをもって行動するのです。復活したキリストは、ご自身の現実の力あるわざをもって現存されるからです。キリストは現実に働き、司祭が行いえないことを実現します。すなわち、主を現実に現存させるために、ぶどう酒とパンを聖別すること、そして、罪をゆるすことです。主はこれらのわざを行う人のうちに、ご自身のわざを現存させます。すでに述べた司祭の3つの務め(聖伝は、主の派遣のさまざまなことばから、これを教え、聖化し、統治することだとしました)は、その違いと深い一致のうちに、この力ある代理のわざを具体化したものです。3つの務めは、実際には復活したキリストの行われる3つのわざです。キリストが今日、教会と世界の中で教え、そこから信仰を生み出し、ご自分の民を一つに集め、真理を現存させ、現実に普遍教会の交わりを築きます。キリストが聖化し、導かれるのです。
 今日わたしがお話ししたい第一の務めは「教える任務(munus docendi)」です。教育が本当に急務となっている現代、一人ひとりの司祭の奉仕職を通して具体的な形で果たされる、教会の「教える任務(munus docendi)」は特別に重要なものとなっています。わたしたちは自分の人生の根本的な決断に関しても、さまざまな問いに関しても、大きな混乱を経験しています。世界とは何か。世界はどこから生まれたか。わたしたちはどこへ向かっているのか。よいことを実現するために何をしなければならないか。いかに生きるべきか。本当に大事な価値は何か。これらの問いに関して、多くの対照的な哲学思想が存在します。これらの哲学思想は生まれては消え、そこから、いかに生きるべきかという、根本的な決断に関する混乱を招いています。なぜなら、わたしたちは通常、自分が何から造られ、何のために造られたか、自分がどこに向かって歩むべきかを知らないからです。このような状況の中で、主のことばが実現します。主は飼い主のいない羊のような有様の大勢の群衆をあわれまれたからです(マルコ6・34参照)。主がこのあわれみを示されたのは、荒れ野でご自分について来た何千人もの人々をご覧になったからでした。この人々は、当時のさまざまな思潮の中で、聖書の真の意味が、すなわち、神が何をいおうとしておられるかが分からなくなっていたからです。主はあわれみに心を動かされて、神のことばの意味を解き明かしました。主ご自身が神のことばです。だから主は向かうべき道を示されたのです。司祭の「キリストの代理者として(in persona Christi)」の任務とは、現代の混乱と混迷の中で、神のことばの光を現存させることです。現代世界において、この光とはキリストご自身です。それゆえ、司祭は自分の考えを教えるのではありません。自分が造り出し、発見し、信奉する、何らかの哲学思想を教えるのではありません。司祭は、自分について、自分のために語るのではありません。司祭が語るのは、自分の取り巻きやグループを作るためではないからです。司祭は自分のことや自分の発見したことを語るのではありません。むしろ司祭は、すべての哲学思想が混乱を極める中で、ともにおられるキリストの名で教え、真理を示します。真理とは、キリストご自身であり、キリストのことばであり、キリストの生き方、歩み方です。キリストがご自身について述べられたことは、司祭にも当てはまります。「わたしの教えは、自分の教えではない」(ヨハネ7・16)。これはこういうことです。キリストはご自分を示すのではありません。むしろ、子であるキリストは、御父の声であり、ことばです。司祭も常にこのように語り、かつ行動しなければなりません。「わたしの教えは、自分の教えではありません。わたしが示すのは、わたしの考えや、わたしの好むことではありません。むしろわたしは、キリストの口であり、キリストの心です。そしてわたしは、唯一の共通の教えを示します。この教えは、普遍教会が生み出したものであり、また、永遠のいのちをもたらすからです」。
 司祭は自分の考えを発明し、造り出し、宣言するのではありません。司祭が告げ知らせる教えは自分の教えではなく、キリストの教えです。しかし、だからといって、司祭は中立的であるべきだというわけではありません。たとえば、自分のものとしていない原稿を朗読するだけのスポークスマンのようにです。この場合にもキリストの模範が当てはまります。キリストはこういわれたからです。「わたしは自分から来たのではない。自分のために生きているのでもない。わたしは父から来て、父のために生きているのである」。だから、この深い一致のゆえに、キリストの教えは父の教えであり、キリストご自身が父と一つなのです。司祭は、自分の考えではなく、キリストのことばと、教会の信仰を告げ知らせます。そのため司祭はまた、こういわなければなりません。「わたしはわたしから、わたしのために生きるのではありません。わたしはキリストとともに、キリストから生きています。だから、キリストがわたしたちにいわれたことは、わたしのことばになります。たとえそれがわたしのことばではないとしてもです」。司祭の生活はキリストと一致しなければなりません。そこから、自分のものでないことばが、それが自分のものでないにもかかわらず、深い意味で個人的なことばとなるのです。この点に関して、聖アウグスティヌス(354-430年)は次のように述べています。「わたしたちはいかなる者でしょうか。(キリストの)奉仕者であり、そのしもべです。なぜなら、わたしたちがあなたがたに分かち与えるものは皆、わたしたちのものではなく、キリストの倉庫から取り出したものだからです。わたしたちもまたそれによって生きています。わたしたちもあなたがたと同様にしもべだからです」(『説教集』:Sermones 229/E, 4)。
 司祭は、信仰の真理という教えを示すように招かれています。ですから司祭は、この教えを個人の深い霊的歩みのうちで内面化し、生きなければなりません。こうして司祭は本当に、キリストご自身との深く内的な交わりをもつようになります。司祭は、自分の奉仕職と一致しようとする歩みの中で、主が教えてくださり、教会が伝えてきたすべてのことを、まず自ら信じ、受け入れ、生きようと努めます。聖ヨハネ・マリア・ビアンネが模範的なしかたであかししたとおりです(『「司祭年」開催を告示する手紙』参照)。聖アウグスティヌスはまたこういいます。「わたしたちは皆、同じ愛のうちに一致しながら、わたしたちにとって天上における唯一の師であるかたに耳を傾けます」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 131, 1, 7)。
 ですから、司祭の声が「荒れ野で叫ぶ者の声」(マルコ1・3)のように聞こえることはまれではありません。しかし、司祭の預言的な力はまさに次のことから生まれます。つまり、ある種の支配的な文化やものの考え方と同調することも、同調しうるものとなってもいけません。むしろ、独自の新しい要素を示さなければなりません。この新しい要素は、人間の深い意味でのまことの刷新をもたらすことができるからです。新しい要素とはこれです。キリストは生きているかたです。キリストは近くにおられる神です。この神は世のいのちの中で、世のいのちのために働き、わたしたちに真理を、すなわち生きるすべを与えてくださいます。
 主日と祝祭日の説教の注意深い準備。その際、週日の説教もおろそかにしないこと。信仰教育への努力。学校や高等研究機関。とくに自分の生活という、文字に書かれることのない書物――これらのいずれの場においても、司祭は常に「教師」として、教えます。しかし、自分の真理を押しつけようとする高慢な心で教えてはなりません。むしろ、謙遜で喜びに満ちた確信をもって教えるべきです。教える者は、真理と出会い、真理に捕らえられ、造り変えられた者だからです。だから彼は、真理を告げ知らせずにはおれないのです。実際、だれも司祭職を自分から選ぶことはできません。司祭職は、人生の安定を得、社会的地位を獲得するための道ではないからです。だれも司祭職を自分に与えることもできませんし、自分からそれを求めることもできません。司祭職は主の呼びかけにこたえることです。主のみ心にこたえることです。主のみ心とはこれです。自分の真理ではなく、わたしの真理を告げ知らせる者となりなさい。
 親愛なる兄弟である司祭の皆様。キリスト信者の民は、わたしたちの教えから、教会の本来の教えを聞きたいと願っています。彼らは教会の本来の教えを通して、キリストと新たに出会うことができるからです。そして、キリストは喜びと平和と救いを与えてくださるからです。このことに関連して、聖書、教父の著作、『カトリック教会のカテキズム』は、「教える任務(munus docendi)」を果たす上で不可欠の基準です。それらは、回心と、信仰の歩みと、人間の救いのためになくてはならないものだからです。「司祭叙階とは・・・・真理に浸されることです」(「聖香油のミサ説教(2009年4月9日)」『霊的講話集2009』カトリック中央協議会、2010年、114頁)。この真理とは、伝達し、消化できる、単なる概念あるいは思想体系ではありません。それはキリストというかたです。キリストとともに、キリストによって、キリストのうちに、わたしたちは生きることができます。また、そこから、いうまでもなく、告知は現代的な意味をもち、理解しうるものとなるのです。御子の受肉を通して人となった真理を自覚することによって初めて、宣教の命令は意味をもちます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)。それが真理であるときに初めて、真理はすべての造られたものに向けられます。宣教とは、何かを押しつけるのではなく、自分がそのために造られたものへと心を開かせることです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。主は司祭に偉大な務めをおゆだねになりました。すなわち、主のことばを、人々を救う真理を告げ知らせる者となるという務めです。世にあって主の声となり、人々のまことの善益と、真の信仰の歩みに役立つものをもたらすという務めです(一コリント6・12参照)。聖ヨハネ・マリア・ビアンネがすべての司祭の模範となりますように。彼は、当時の文化と社会の圧力にあらがいながら、霊魂を神へと導くことのできる、偉大な知恵と勇敢な力を備えていました。素朴さと忠実と直接性が彼の説教の本質的な特徴でした。彼の説教は彼の信仰と聖性をそのまま映し出すものでした。キリスト信者の民はその感化を受け、どの時代の本物の教師にもいえるとおり、彼のうちに真理の光を見いだしました。つまるところ、聖ヨハネ・マリア・ビアンネのうちに見いだされたものとは、よい羊飼いの声です。これこそ、司祭のうちに常に見いだすことができなければならないものなのです。

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