教皇ベネディクト十六世の222回目の一般謁見演説 二人のトリノの司祭の聖人―聖レオナルド・ムリアルドと 聖ジュゼッペ・コットレンゴの生涯と活動

4月28日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の222回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「司祭年」の閉幕が近づくにあたって、二人のトリノの司祭の聖人、すなわち聖レオナルド・ムリアルドと聖ジュゼッペ・コットレンゴの生涯と活動について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
教皇は5月2日(日)、10年ぶりに聖骸布が公開されているトリノを訪問し、ミサをささげる予定です。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「司祭年」が終わりに近づいています。そこで、4月の最後の水曜日にあたり、二人の司祭の聖人についてお話ししたいと思います。すなわち、聖レオナルド・ムリアルド(Leonardo Murialdo 1828-1900年)と聖ジュゼッペ・コットレンゴ(Giuseppe Benedetto Cottolengo 1786-1842年)です。この二人は、神への献身と、もっとも貧しい兄弟に対する愛のあかしを、教会の中で、教会のために示した模範です。今年は聖レオナルド・ムリアルドの没後110周年、また列聖40周年を記念します。またわたしたちは、来年、聖ジュゼッペ・コットレンゴの司祭叙階200周年を記念しようとしています。
 ムリアルドは1828年10月26日にトリノで生まれました。トリノは聖ジョヴァンニ・ボスコ(Giovanni Bosco 1815-1888年)が活動し、聖ジュゼッペ・コットレンゴが生まれた町でもあります。トリノは多くの信徒と司祭の聖性の模範によって豊かにされた地です。レオナルドはつつましい家庭の8人目の子どもとして生まれました。幼くして兄とともにサヴォナのエスコラピオス修道会の学校に入り、初等、中等、高等教育を受けました。彼はこの学校で、優れた教師により、しっかりとした信仰教育に根差し、修道的敬虔の実践される宗教的雰囲気の中で教育されました。しかし、青年期に彼は深刻な実存的・精神的危機を体験します。そのため彼は家族のもとに帰り、トリノで勉学を終えることになりました。これは2年間の哲学の勉学を含みます。自身が述べているとおり、「光への回帰」は数か月後、総告白の恵みによって起こりました。この総告白の中で、彼は神の限りないあわれみを再発見したのです。こうして彼は17歳のとき、愛をもって自分を捕らえてくださった神の愛にこたえて、司祭になる決断を行いました。1851年9月20日、彼は司祭に叙階されました。ちょうどこの頃、「守護の天使のオラトリオ」のカテキスタだったドン・ボスコはムリアルドと出会い、彼を高く評価しました。ドン・ボスコはムリアルドを説得して、サン・ルイジ・ア・ポルタ・ヌオヴァの新しい「オラトリオ」の指導者としました。ムリアルドはこの務めを1865年まで果たしました。ムリアルドは同地で最貧困階層の深刻な問題にも触れました。彼は貧しい人々の家々を訪問し、社会的、教育的、使徒的感覚を深めました。そこから彼は後に、青年のためのさまざまな活動のために独立して献身することになります。信仰教育、学校、余暇活動が、「オラトリオ」における彼の教育方法の基盤でした。ドン・ボスコは1858年に教皇福者ピウス九世(在位1846-1878年)と謁見した際にもムリアルドを伴いました。
 1873年、ムリアルドは聖ヨセフ会を創立しました。聖ヨセフ会の使徒職の目的は、最初から、青年の教育、とくにもっとも貧しく見捨てられた青年たちの教育でした。当時のトリノの周辺は、ムリアルドが死ぬまで行った盛んな愛の活動と実践によって特徴づけられます。ムリアルドは1900年3月30日に没しました。
 わたしは、ムリアルドの霊性の中心が、神のあわれみ深い愛への確信だったことを強調したいと思います。神は、つねにいつくしみ深く、忍耐強く、寛大な父です。この父は、ゆるしによって、その偉大で限りないあわれみを示されます。聖レオナルドは、知的次元においてではなく、むしろ実存的に、主との深い出会いを通じて、このことを体験しました。彼はいつも、自分はあわれみ深い神の恵みを受けた者だと考えていました。そのため彼は、主への感謝を喜びのうちに感じ、自分の限界を落ち着いた心で自覚し、悔い改めを熱心に望み、つねに惜しみなく回心に努めました。彼は、自分の人生が神のあわれみ深い愛によって照らされ、導かれ、支えられているばかりか、神の限りないあわれみに満たされ続けていると考えました。『霊的遺言』の中で彼はこう述べます。「ああ主よ、あなたのあわれみがわたしを取り囲みます。・・・・神はどれほどいつも、どこにでもおられることでしょう。それゆえ神は、いつも、どこにおいても愛です。いつも、どこにおいてもあわれみです」。青年時代に体験した危機を思い起こしながら、彼はいいます。「ご覧なさい。いつくしみ深い神が、そのいつくしみと寛大さをどれほど単純なしかたで再び輝かすことを望まれたかを。神は再びわたしの友となることをゆるしてくださったばかりか、わたしをご自分が選び、愛する者として招いてくださいました。神はわたしを司祭職へと招いてくださいました。それも、わたしが神へと立ち帰ったほんの数か月後にです」。聖レオナルドは、神のあわれみによって無償で与えられた司祭召命を、感謝と喜びと愛をもって生きました。彼はこうも述べています。「神がわたしを選んでくださいました。神がわたしを招いてくださいました。そして、神の奉仕者となり、『もう一人のキリスト』となるというほまれと栄光と言い表しえない幸福にまで、力ずくであずからせてくださいました。・・・・わたしの神よ。神がわたしを探してくださったとき、わたしはどこにいたでしょうか。深淵の底です。わたしがこの深淵の底にいたとき、神はわたしを探しに来てくださいました。この深淵の底で、神はご自分の声を聞かせてくださったのです。・・・・」。
 司祭は「あがないのわざを、すなわち、イエス・キリストの偉大なみわざを、世の救い主であるかたのわざを行い続け」なければなりません。この司祭の偉大な使命を強調しながら、聖レオナルドは自らと兄弟である司祭たちに、自分に与えられた秘跡と一致した生活を送る責務を思い起こさせました。神の愛は、神への愛です。これが、聖レオナルドにとって、その聖性への道の力であり、司祭職のおきてであり、貧しい青年に対する使徒職の深い意味であり、祈りの源泉でした。聖レオナルド・ムリアルドは、摂理であるかたへの信頼をもって自らを放棄し、神に触れ、貧しい青年に自らをささげながら、惜しみない心で神のみ心を果たしました。こうして彼は、観想の沈黙と、うむことのない熱心な活動とを、日々の務めを忠実に果たすことと独創的な計画とを、また、困難のときの力と精神の落ち着きとを結びつけたのです。これこそが、神と隣人のために愛のおきてを実践するという、彼の聖性の道です。
 同じ愛の精神をもってムリアルドの40年前に生きたのが、聖ジュゼッペ・ベネデット・コットレンゴです。聖ジュゼッペ・ベネデット・コットレンゴは、自ら名づけた「神の摂理の小さな家」という活動を創立しました。「神の摂理の小さな家」は今では「コットレンゴ」とも呼ばれます。次の日曜日、トリノへの司牧訪問の際、わたしはこの聖人の聖遺物を崇敬し、「小さな家」に住む人々と会う予定です。
 ジュゼッペ・ベネデット・コットレンゴは、1786年5月3日、クネオ県の小さな町ブラで生まれました。12人の子ども(そのうち6人は幼いときに死にました)の長男だった彼は、少年の頃から貧しい人への深い気遣いを示しました。彼は司祭の道を選び、二人の弟もこれに倣いました。コットレンゴが青年期を送ったのは、ナポレオン(1769-1821年)が遠征し、それに続いて宗教と社会の領域で人々が困難に瀕した時代でした。コットレンゴはよい司祭となって多くの回心者を引き寄せ、当時のトリノで、大学生のための黙想会と講話の説教を行いました。彼は説教において際立った成功を収めました。32歳のとき、至聖なる三位一体修道参事会の参事会員に選ばれました。至聖なる三位一体修道参事会は、「聖体(Corpus Domini)教会」の聖務と荘厳な儀式を行うことを任務とする司祭会でした。しかし、彼はこの職務に居心地の悪さを覚えました。神は彼のために特別な使命を用意していました。そして、思いがけない決定的な出会いによって、彼は自分が将来行うべき奉仕職がいかなるものかを悟りました。
 主はわたしたちの歩みの中で、み心に従い、わたしたちにとって本当によいことへとわたしたちを導くために、つねにしるしを示してくださいます。コットレンゴにとって、それは1827年9月2日の日曜日の朝、劇的な形で起こりました。ミラノからトリノに、かつてないほど込み合った駅馬車が到着しました。この駅馬車にはフランス人の家族が乗っていました。その家族には5人の子どもを連れた女性がいましたが、女性は臨月で、高熱を発していました。いくつもの病院を回って断られたのち、この家族は貧しい人のための公営宿舎に泊まりましたが、女性の容態は悪化し、ある人々が司祭を呼びました。不思議な計画により、人々はコットレンゴに出会いました。コットレンゴは沈痛な心で、家族中が悲しむ中で、この若い女性の臨終に付き添いました。この悲しむべき務めを終えた後、彼は心を痛めながら至聖なる聖体のもとに行って、こう祈りました。「わたしの神よ、なぜでしょうか。なぜあなたはわたしが証人となることをお望みになったのでしょうか。あなたはわたしに何をお望みなのでしょうか。何かをしなければなりません」。彼は立ち上がると、すべての鐘を鳴らし、すべてのともしびに火をともし、何ごとかと思って教会に来た人にいいました。「これこそみ恵みのなさったことです。これこそみ恵みのなさったことです」。このときからコットレンゴは変わりました。彼は自分のもてるあらゆる力、とくに財力と組織力を、もっとも貧しい人を助ける活動を生かすために用いたのです。
 コットレンゴは自分の事業のために多数の協力者、ボランティアを動員しました。トリノの周縁部にまで活動を広げるために、彼はある種の村を作りました。この村の中に彼は次々と建物を建て、それらに「信仰の家」、「希望の家」、「愛の家」といった意義深い名をつけました。彼は「家族」の形式を作り出しました。そのために彼は、ボランティア、男性と女性、修道者と信徒を含めた人々の真に固有の意味での共同体を築きました。これらの人々は、自分たちの目の前にある問題にともに立ち向かい、それを解決するために一致しました。「神の摂理の小さな家」のすべての人の仕事はこれです。すなわち、ある人は働き、ある人は祈り、ある人は奉仕し、ある人は教え、ある人は管理したのです。健康な人も、病気の人も、ともに日々の労苦をすべて分かち合いました。やがて特別な必要性と緊急性に応じて、彼は修道会も設立しました。彼は自分の活動に奉仕する司祭の特別な養成のために、自らの神学校を立てることも考えていました。彼はいつも進んで神の摂理に従い、奉仕しました。神の摂理に疑問を抱くことは決してありませんでした。彼はいいます。「わたしは取るに足りない者で、自分では何もできません。しかし、神の摂理はご自分の望むことを確実に知っておられます。わたしはこの神の摂理の望まれることに従うだけです。わたしは『主において(in Domino)』歩みます」。彼はいつも、自分が世話する貧しい人、困窮した人にとって、自分は「神の摂理のために働く者」だといいました。
 彼は小さな町のそばに5つの女子観想修道院と1つの隠遁修道院を設立しました。彼はこれを自分が実現したもっとも重要なことと考えました。それはいわば全活動のために脈打つ「心」とならなければならないものだったからです。コットレンゴは1842年4月30日に没しました。臨終のとき、かれは次のことばを唱えました。「主よ、あわれんでください。主よ、あわれんでください(Misericordia, Domine; Misericordia, Domine)。いつくしみ深く聖なるみ摂理よ。・・・・聖なるおとめよ。今や御身の時です」。当時の新聞が書いているとおり、コットレンゴの全生涯は「深い愛の一日」でした。
 親愛なる友人の皆様。二人の聖なる司祭のいくつかの特徴をご紹介しました。この二人の聖なる司祭は、貧しい人、困窮した人、底辺の人に生涯を完全にささげることによって自らの奉仕職を果たしました。その際、彼らはいつも自分の活動の深い根拠、また、くみ尽くしえない源泉を、神との関係のうちに見いだしました。こうして彼らは神の愛から飲みました。彼らは次のように確信していたからです。キリストと教会に結ばれて生きていなければ、愛のわざを行うことは不可能です。二人の聖なる司祭の執り成しと模範が、神のため、また自分にゆだねられた神の民のために惜しみなく自らをささげる多くの司祭の奉仕職を照らしてくださいますように。そして、喜びと寛大な心をもって神と隣人に自らをささげるすべての人を助けてくださいますように。

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