教皇ベネディクト十六世の223回目の一般謁見演説 司祭と「聖化する任務」

5月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の223回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「司祭年」の閉幕が近づくにあたって、「司祭と『聖化する任務』」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、次の呼びかけを行いました。
「今週の5月3日から、ニューヨークで、第8回核拡散防止条約(NPT)再検討会議が始まりました。核軍縮を一致して確実に進めることは、これに関連する国際的義務の完全で迅速な履行と密接に結びついています。実際、平和は、力の均衡だけでなく、信頼と、自らが引き受けた義務の尊重に基づいています。このような精神に基づいて、わたしは、地上からの完全な核廃絶を目指して、段階的な核軍縮と、核兵器のない地域の創出を行うための取り組みを励まします。最後に、ニューヨークでの会議に参加したすべてのかたがたに勧めます。歴史の制約を乗り越え、平和のための政治的・経済的組織を忍耐強く構築してください。それは、人間の完全な発展と諸国民の真の願いをかなえるためです」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今週の日曜日のトリノへの司牧訪問の折、聖骸布の前で祈りをささげることができ、うれしく思います。わたしは、今回の公開期間中、聖骸布を仰ぎ見ることのできる200万人以上の巡礼者に加わりました。この聖なる布は信仰を深め、キリスト教的信心を強めることができます。なぜならそれは、キリストのみ顔へと、すなわち、十字架につけられて復活したキリストのからだへと歩み、キリスト教のメッセージの中心である過越の神秘を観想するよう駆り立てるからです。親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは、復活して、歴史の中で生き、働いておられるキリストのからだの生きた部分です(ローマ12・5参照)。その際、わたしたち一人ひとりは、主がゆだねようと望まれた職務をもって、自分の任務を果たします。今日の講話では、司祭の特別な務めの考察に戻りたいと思います。伝統的に、司祭の務めは基本的に3つあります。教える務め、聖化する務め、そして統治する務めです。先日の講話で、この3つの使命のうち第一のものについてお話ししました。すなわち、教える務めです。教えるとは、真理を告げ知らせること、キリストのうちに啓示された神を告げ知らせることです。いいかえるなら、それは、人を真理に触れさせ、自分の人生と、現実そのものの本質を知る助けとなるという預言的な務めです。
 今日わたしは皆様とともに、司祭の第二の務めについて簡単に考えてみたいと思います。すなわち、秘跡と教会の礼拝を通じて人々を聖化する務めです。ここでまずわたしたちは自らに問いかけてみなければなりません。「聖」ということばは何を意味するのでしょうか。こたえはこれです。「聖」とは、神の存在がもつ特別な性質です。すなわち、絶対的な意味での真理、善、愛、美、純粋な光のことです。それゆえ、ある人を聖化するとは、その人を神に触れさせることです。神は光であり、真理であり、純粋な愛です。いうまでもなく、神に触れることにより、人は造り変えられます。古代、人々はこう強く考えていました。だれも神を見ることはできません。もし見るなら、ただちに死んでしまいます。真理と光の力があまりにも強いからです。もし人がこの絶対的な流れに触れるなら、その人は生きていることができません。一方で人々はこうも考えました。人はわずかでも神と触れなければ、生きていくことができません。真理と善と愛は人間が存在するための基本的な条件だからです。問題はこれです。神は根本的な存在です。人間はどうすれば、神の存在の偉大さに圧倒されて死ぬことなしに、この神に触れることができるでしょうか。教会の信仰はわたしたちにいいます。神ご自身がご自身に触れさせてくださいます。そして、神に触れることによって、わたしたちは少しずつまことの神の像へと造り変えられるのです。
 こうしてわたしたちはあらためて司祭の「聖化する」務めに戻ってきました。いかなる人も、自分で、すなわち自分の力で、だれかを神と触れさせることはできません。司祭職の恵みの本質的な部分はたまものです。神に触れさせる務めは、たまものなのです。神に触れるということは、神のことばを告げるときに実現します。神のことばにおいて、神の光はわたしたちと出会いに来られるからです。神に触れるということは、特別に深い意味で、秘跡において実現します。人は洗礼においてキリストの死と復活の過越の神秘に浸され、堅信とゆるしの秘跡において強められ、聖体において養われます。聖体は、神の民、キリストのからだ、聖霊の神殿である教会を築きます(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『神の民の牧者』32参照)。それゆえ、わたしたちを聖なるものとするのはキリストご自身です。キリストご自身が、神の領域へとわたしたちを引き寄せるのです。しかし、キリストは限りないあわれみのわざとして、ある人を招きます。それは、ご自分の「そばに置く」(マルコ3・14参照)ためです。そして、叙階の秘跡を通じて、人間的な貧しさにもかかわらず、この聖化の務めにあずかる者、キリストの神秘の分配者、人々がキリストと出会うため、神と人、人と神を仲介するための「橋」とするのです(『司祭の役務と生活に関する教令』5参照)。
 最近の数十年間、司祭の本質と使命において、告知の次元を聖化の次元と切り離して、告知の次元を優先させる傾向が見られます。しばしばこういわれることもあります。単なる秘跡による司牧を乗り越えなければならない。しかし、秘跡による司牧を「乗り越え」ながら、真の意味で司祭の奉仕職を果たすことが可能でしょうか。司祭にとって福音をのべ伝えるとは、本来、何を意味するのでしょうか。いわゆる告知の優先とは、どういうことでしょうか。福音書が語るとおり、イエスはいいます。神の国を告げ知らせることがわたしの宣教の目的です。しかし、宣教は単なる「演説」ではありません。宣教は同時にイエスご自身のわざも含みます。イエスが行ったしるしと奇跡が、神の国がここに現実に到来したことを示します。神の国は要するにイエスの存在そのものと同じであり、イエスご自身のたまものと同じです。今日、朗読された福音でいわれたとおりです。同じことが叙階された奉仕職にもいえます。司祭は、御父から遣わされた者であるキリストの代理者です。司祭は「ことば」と「秘跡」を通じて、からだと霊魂、しるしとことばの全体を通じて、キリストの使命を継続します。ティアベの司教ホノラトゥスへの手紙の中で、聖アウグスティヌスは司祭についていいます。「それゆえ、キリストのしもべ、みことばと秘跡の奉仕者は、キリストが命じ、またゆるしたことを行わなければなりません」(『書簡228』:Epistulae 228, 2)。わたしたちは反省してみなければなりません。「聖化する任務(munus sanctificandi)」を忠実に果たすことを軽視することがあるとすれば、それは場合によって、秘跡がもつ救いをもたらす力への、つまるところ、世において教会を通してキリストと聖霊が現実に働いておられることへの、信仰の弱まりを示してはいないだろうかと。
 それでは、だれが世と人間を救うのでしょうか。わたしたちが示しうる唯一のこたえはこれです。世と人間を救うのは、ナザレのイエスです。十字架につけられて復活した、救い主キリストです。では、救いをもたらすキリストの死と復活の神秘はどこで実現されるのでしょうか。教会を通じて行われるキリストのわざにおいてです。とくに聖体の秘跡においてです。聖体の秘跡は、神の子のあがないをもたらすいけにえのささげものを現存させるからです。また、ゆるしの秘跡においてです。ゆるしの秘跡によって、人は罪に基づく死から新しいいのちへと生まれ変わるからです。そして、他のすべての聖化の秘跡においてです(『司祭の役務と生活に関する教令』5参照)。それゆえ、信者が秘跡の意味を理解できるよう、適切な信仰教育を推進することが重要です。しかし、アルスの聖なる主任司祭の模範に倣って、いつでも、寛大な心で、注意深く、恵みの宝を兄弟に与えることも必要です。神がこの恵みの宝をわたしたちの手にゆだねたからです。そして、わたしたちはこの恵みの宝の「主人」ではなく、それを守り、管理する者だからです。とくに現代、信仰が弱まったように思われる一方で、霊性への深い望みと、広範な探求が見られるようになりました。このような時代にあって、すべての司祭は次のことを肝に銘じるべきです。司祭の使命の中で、宣教者としての告知と、礼拝と秘跡とを決して切り離してはなりません。そして、活発に秘跡による司牧を推進しなければなりません。それは、神の民を育て、典礼と、教会の礼拝と、秘跡を完全に生きられるようにするためです。典礼と、教会の礼拝と、秘跡は、神の無償のたまものであり、神の救いのわざを自由に力強く実現するからです。
 今年の聖香油のミサの中でわたしはこう申し上げました。「教会の典礼の中心は秘跡です。秘跡が意味するのは、まず何かを行うのがわたしたち人間ではないということです。むしろ、神が先にそのわざをもってわたしたちと出会いに来られ、わたしたちをご覧になり、わたしたちをご自身へと導いてくださるということです。・・・・神は、ご自分に奉仕するために取り上げた・・・・物質的なものを通して・・・・わたしたちに触れられます。こうして神は被造物をわたしたちと神ご自身との出会いの手段となさるのです」(「聖香油のミサ説教(2010年4月1日)」)。秘跡において「何かを行うのがわたしたち人間ではないということ」――これは、司祭の自覚にもかかわりますし、またかかわらなければなりません。司祭は皆よく知っています。自分は神の救いのわざに必要な道具であることを。また、つねに自らが道具にすぎないということを。このような自覚は、秘跡を執行する際、司祭をへりくだらせ、寛大な者とするはずです。司祭は教会法の規定を尊重しなければなりませんが、同時にこう深く信じなければなりません。わたしの使命は、キリストに結ばれたすべての人が、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして自分を神にささげることができるようにすることです(ローマ12・1参照)。「聖化する任務(munus sanctificandi)」を優先し、秘跡による司牧を正しく解釈する模範もまた、聖ヨハネ・マリア・ビアンネです。あるとき、「わたしには信仰がなく、あなたと議論したい」といった人に向かって、この主任司祭はこたえました。「ああ、わが友よ。あなたは問題を抱え、わたしは議論するすべを知りません。・・・・でも、あなたが慰めを求めておられるなら、ここにお座りください。・・・・(ビアンネは告白場の椅子を指さしました。)そして、わたしを信じなさい。あなたの前にも、他の多くの人々がそこに座り、決して後悔しなかったのですから」(A. Monnin, Il Curato d’Ars. Vita di Gian-Battista-Maria Vianney, vol. I, Torino 1870, pp. 163-164参照)。
 親愛なる司祭の皆様。喜びと愛をもって典礼と礼拝を実践してください。典礼と礼拝は、復活した主が、聖霊の力によって、わたしたちのうちで、わたしたちとともに、わたしたちのために行ってくださるわざです。最近行った招きをあらためて行いたいと思います。「告白場に戻ってください。告白場はゆるしの秘跡を行う場です。しかし、そこはわたしたちがもっとたびたび『住む』べきところでもあります。それは、信者があわれみと助言と慰めを見いだし、自分が神に愛され、分かってもらえたと感じ、聖体における主の現実の現存に加えて、神のあわれみの現存を体験できるためです」(「教皇庁内赦院への演説(2010年3月11日)」)。わたしはすべての司祭の皆様にこのこともお願いしたいと思います。深く感謝の祭儀をささげ、また生きてください。感謝の祭儀は聖化する務めの中心だからです。イエスは、わたしたちとともにとどまり、わたしたちのうちに生き、わたしたちにご自身を与え、わたしたちに神の限りないあわれみと優しさを示すことを望まれます。キリストの愛の唯一のいけにえが、わたしたちの間で現存し、実現します。それは恵みの玉座、神の現存となり、人類を抱擁し、わたしたちをイエスへと一つにまとめます(「ローマの司祭たちへの講話(2010年2月18日)」)。司祭は、秘跡と生活において、このように偉大な神秘に奉仕するよう招かれています。「たしかに偉大な教会の伝統は、適切にも、秘跡の有効性を、一人ひとりの司祭の具体的な生活のし方から切り離してきました。こうして信者の正当な期待を適切なしかたで守ってきたのです」。しかしこのことは「必要であるばかりか不可欠でもある、道徳的な完徳に達しようとする努力を一切取り去るものではありません。このような努力はあらゆる真の司祭の心の中に存在すべきです」。神の民はまた、正当にも、司牧者のうちに、信仰と聖性のあかしの模範とを期待しています(「教皇庁聖職者省総会参加者へのあいさつ(2009年3月16日)」参照)。そして、司祭は聖なる神秘を祝うとき、そこに自らが聖化されるための根拠を見いだすのです(『司祭の役務と生活に関する教令』12-13参照)。
 親愛なる友人の皆様。司祭が教会と世界にとって偉大なたまものであることを自覚しようではありませんか。主は司祭の奉仕職を通して、人々を救い、自らを現存させ、聖化のわざを続けます。神に感謝しようではありませんか。何よりも、とくに困難なときに、祈りと支えとをもって皆様の司祭に寄り添おうではありませんか。司祭が神のみ心に従い、ますますよい牧者となることができますように。ご清聴有難うございます。

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