教皇ベネディクト十六世の225回目の一般謁見演説 司祭の「統治する任務」

5月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の225回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「司祭年」に関する考察として、「司祭の『統治する任務』」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「司祭年」が終わろうとしています。そのためわたしは最近の講話の中で司祭の本質的な務めについての話を始めました。司祭の本質的な務めとは、教え、聖化し、統治する任務です。すでに聖化する任務、とくに秘跡と、教える任務について、二回の講話を行いました。そこで、今日残されているのは、司祭の統治する任務についてお話しすることです。司祭が統治するとは、自分の権威によるのでなく、キリストの権威によって、神からゆだねられた民の部分を導くことです。
 統治するということを現代文化の中でどう理解すればよいでしょうか。それは権威の概念を含んでいます。そして、この任務は、わたしの民を養いなさいという、主ご自身の命令に基づきます。わたしたちキリスト信者にとって、権威とは、本当のところ何でしょうか。最近の文化的・政治的・歴史的経験、とくに20世紀における東西ヨーロッパの独裁政治によって、現代人は権威の概念に疑惑を抱くようになりました。このしばしば見られる疑惑によって、人間だけから生じるのでないにもかかわらず、人間にゆだねられ、人間によって統御されるべきものである、あらゆる権威を放棄しなければならないという主張が生まれます。しかし、恐怖と死をもたらした20世紀の支配体制に目を向けるなら、次のことをはっきりと思い起こすことができます。あらゆる分野において、超越者を考慮することなく権威を行使するなら、すなわち、神という究極の権威を無視するなら、権威は不可避的に人間に歯向かうものとなるということです。ですから、次のことを再認識することが重要です。人間的権威は目的ではなく、常に手段にすぎないということです。そして、そこから必然的にいえるのは、あらゆる時代において、目的となるのは常に人格だということです。人格は、自らの不可侵の尊厳をもって神によって造られ、地上の生活においても永遠のいのちにおいても、自らの創造主との関係へと招かれているからです。それゆえ権威とは、創造主である神に対する責任をもって行使すべきものです。権威の唯一の目的は、人格のまことの善に奉仕し、神という唯一の最高善を映し出すことです。権威をこのように理解するなら、それは人間にとって無縁のものではなく、むしろその反対に、キリストにおける完成に向けて、すなわち救いに向けて歩むための貴重な助けとなります。
 教会の使命と務めは、このような奉仕としての権威を行使することです。また教会は、自らの資格によってではなく、イエス・キリストの名によってこの権威を行使します。イエス・キリストは天と地の一切の権能を父から授かったからです(マタイ28・18参照)。実際、キリストは、教会の司牧者を通じてご自分の民を養います。民を導き、守り、正すのはキリストです。キリストはご自分の民を深く愛されるからです。しかし、わたしたちの霊魂の最高の牧者である主イエスは、使徒団、現代では、ペトロの後継者との交わりのうちにある司教団と、その貴い協力者である司祭たちが、自分の使命にあずかることを望みました。イエスの使命とは、キリスト教共同体を導き、力づけ、支えることを通して、神の民を世話し、信仰を教えるという使命です。公会議が述べるとおり、「信者各自が聖霊において、福音に基づく自分の召命の開花、誠実で実行的な愛、キリストがわれらに与えた自由に到達するよう・・・・配慮する」(『司祭の役務と生活に関する教令』6)のです。それゆえ、すべての司牧者は、キリストご自身が人々を愛するための手段です。親愛なる司祭の皆様。主はわたしたちの奉仕職を通して、わたしたちを通して人々を集め、教え、守り、導かれるのです。聖アウグスティヌスは『ヨハネ福音書講解』でこう述べます。「主の群れを養うことは愛の務めである」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 123, 5〔岡野昌雄訳、『アウグスティヌス著作集25 ヨハネによる福音書講解説教(3)』教文館、1993年、424頁〕)。無条件の愛――これこそが、神に仕える者の最高の行動規範です。それはよい牧者と同じように、喜びに満ち、すべての人に開かれ、隣人に注意を向け、遠くの人をも気遣います(聖アウグスティヌス『説教三四〇』:Sermo 340, 1; 『説教四六』:ibid. 46, 15参照)。もっとも無力な者、小さな者、素朴な者、罪人に優しく接します。希望を強めることばをもって神の限りないあわれみを示すためです(同『書簡九五』:Epistula 95, 1参照)。
 このような司牧的任務の基盤は秘跡です。しかし、そうであっても、この任務の効果は司祭の個人的生活と無関係ではありません。神の心にかなう司牧者となるためには(エレミヤ3・15参照)、キリストとの生きた友愛に深く根ざしていなければなりません。それも、知性においてだけでなく、自由と意志においてです。司祭叙階で受けた自らのあるべき姿をはっきりと自覚しなければなりません。無条件の心構えをもって、民を導かなければなりません。それも、一見したところ都合がよく、容易に思われる方向にではなく、主が望まれるところへとです。そのためには、第一に、司祭生活をキリストご自身によって支配していただくことを、絶えず、また、ますます心から望まなければなりません。実際、キリストと教会への深い本当の意味での従順を生きていなければ、だれも本当の意味でキリストの民を養うことはできません。また、民が自分たちの司祭に従うかどうかは、司祭がキリストに従っているかどうかにかかっています。ですから、主と個人的に絶えず出会うこと、主を深く知ること、自分の意志をキリストのみ心と一致させることを、常に司牧的奉仕職の基盤としなければなりません。
 最近の数十年間、「司牧的」という形容詞は、しばしば「位階的」という概念といわば対立的に用いられてきました。そこから、「交わり」という概念も、同じ対立のもとに解釈されてきました。ここで「聖職位階」ということばについて簡単に考察するのが有益かもしれません。「聖職位階」は、伝統的に、教会における秘跡的な権威構造を意味してきました。この構造は、司教職、司祭職、助祭職という、叙階の秘跡の三つの次元に従って秩序づけられています。一般的な見解において、この「聖職位階」にとって重要なのは服従の要素、法的要素だとされます。そのため、多くの人にとって、聖職位階という概念は、司牧的な柔軟性や活力と対立し、福音のへりくだりとも反対であるように思われます。しかし、これは聖職位階に関する誤解です。この誤解は、歴史的に、権威の濫用と出世主義から生まれたものでもあります。これらのものは実際に濫用であり、「聖職位階」のあり方そのものに由来するものではありません。一般的な見解では、「聖職位階」は常にある意味で支配と結びついています。そこから、それは、教会や、キリストの愛における一致の真の意味と対応しないものとなります。しかし、すでに述べたとおり、これは誤解です。この誤解は歴史上の濫用に基づきますが、聖職位階の真の意味と合致するものではありません。ことばから始めたいと思います。一般に、聖職位階(ヒエラルキア)ということばの意味は「聖なる支配」だといわれます。しかし、本当の意味はそうではなく、「聖なる起源」です。つまり、この権威は、人間に由来するのではなく、聖なるもの、すなわち秘跡に基づくということです。それゆえ聖職位階は、人を召命に、すなわちキリストの神秘に従わせます。それは一人ひとりの人をキリストの奉仕者とします。そして、人はキリストのしもべであるかぎりにおいてのみ、キリストのために、キリストとともに、統治し、指導することができるのです。ですから、聖なる秘跡による叙階、すなわち「聖職位階」に加入した者は、専制君主ではなく、キリストとの新たな従順のきずなに加えられたのです。その人は他の聖なる司祭叙階を受けた人々との交わりのうちに、キリストと結ばれたのです。教皇も(教皇は他のすべての司牧者と教会の交わりの基準です)、自分の望むままに行うことはできません。教皇はキリストとそのことばへの忠実を守ります。キリストのことばは、「信仰の基準(regula fidei)」、教会の信仰宣言のうちに要約されています。そして教皇は、先頭に立ってキリストとその教会への忠実を守ります。それゆえ、聖職位階は三つのきずなを意味します。第一に、キリストとのきずな、主が教会に与えてくださった叙階とのきずなです。第二に、教会の唯一の交わりにおける他の司牧者とのきずなです。そして第三に、教会の秩序のうちに、一人ひとりの人にゆだねられた信者とのきずなです。
 それゆえ、交わりと聖職位階は互いに対立するのでなく、むしろ互いの前提であることが分かります。この二つが一緒になって、一つのもの(位階的交わり)をなしているのです。ですから、司牧者が司牧者であるのは、民を導き、守り、場合によって彼らが散り散りになるのを止めるためです。このはっきりとした超自然的な考え方以外によって、司祭に固有の統治する任務を理解することは不可能です。むしろ、すべての信者に対するまことの愛に支えられたこの任務は、現代にあっても特別に貴重で必要なものです。統治する任務の目的は、キリストを告げ知らせ、人々をキリストとの救いをもたらす出会いへと導いて、いのちを得させることです。そうであれば、この任務は、完全な奉献による奉仕という姿をとります。それは、しばしば時流に逆らいながら、大きなものは小さな者となり、治める者は仕える者となるべきであるということを念頭に置いて、自分の民を真理と聖性の中に建設するためです(『教会憲章』27参照)。
 現代の司祭は、キリストと教会への完全な忠実を守り、自分の民にすべてをささげながら、自分の奉仕職を果たすための力をどこから得ることができるでしょうか。こたえはただ一つです。主キリストからです。イエスの統治のしかたは、支配ではなく、足を洗うという、へりくだりと愛に満ちた奉仕です。キリストの全世界に対する王としての支配は、地上的な勝利ではなく、むしろ十字架の木の上で頂点に達します。十字架は世に対する裁きとなり、権威の行使の基準となります。権威は、牧者としての愛を真の意味で表すべきものだからです。聖人たち、とりわけ聖ヨハネ・マリア・ビアンネは、ゆだねられた神の民の部分の世話をするという務めを愛と献身をもって果たしました。彼らはまた、自分たちが力と決意に満ちた者であることを示しました。彼らの目的はただ一つ、人々のまことの善を実現することでした。彼らは福音の真理と義に忠実にとどまるために、殉教に至るまで自らを犠牲にすることができたのです。
 親愛なる司祭の皆様。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、・・・・自ら進んで世話をしなさい。・・・・むしろ、群れの模範になりなさい」(一ペトロ5・2)。それゆえ、ゆだねられた一人ひとりの兄弟をキリストへと導くことを恐れてはなりません。それが神のみ心への忠実から出るものであるなら、あらゆることばと行いは実を結ぶことに自信をもってください。自分たちがその中に置かれた文化の長所を評価し、限界を認識しながら生きることをわきまえてください。福音を告げ知らせることが、人間に対して行いうる最大の奉仕であることをゆるぎなく信じてください。実際、人々を神へと導くこと、信仰を呼び覚ますこと、人間を無気力と絶望から引き出すこと、神は近くにおられ、個人と世界の歴史を導いてくださるという希望を与えること――地上の生活において、これよりも偉大な善はありません。要するに、これこそが、主がわたしたちにゆだねてくださった統治する任務の深く究極の意味です。統治する任務とは、聖化の過程を通して、信じる者のうちにキリストを形づくることです。聖化とは、さまざまな基準、価値観、行動を転換して、すべての信者のうちにキリストが生きるようにすることです。だから聖パウロは自分の司牧のわざをこう要約したのです。「わたしの子どもたち、キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4・19)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様にお願いします。キリストの教会を統治するという特別な務めを担う、ペトロの後継者であるわたしのため、また、皆様のすべての司教、司祭のために祈ってください。わたしたちが、見失った羊も含めて、ゆだねられたすべての羊の群れの世話をすることができるよう、祈ってください。親愛なる司祭の皆様。ここローマで来る6月9日、10日、11日に開催される「司祭年」の閉幕式に皆様を謹んでご招待します。この閉幕式で、わたしたちは、回心、宣教、聖霊のたまもの、そして至聖なるマリアとの関係について黙想し、すべての神の民に支えられながら、司祭の約束を更新します。ご清聴有難うございます。 

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