教皇ベネディクト十六世の226回目の一般謁見演説 聖トマス・アクィナス

6月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の226回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連 […]


6月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の226回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第34回として、「聖トマス・アクィナス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、5月31日のイスラエルによる人道救援活動団体の船団への攻撃を受けて、ガザ地区の平和と対話の再開のために、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「わたしは深刻な不安をもってガザ地区の近くで起きた悲惨な事件を見守っています。ガザ地区における平和を気遣う人々に降りかかった、この悲しむべき出来事の犠牲者のために、哀悼の意を表さなければならないと感じます。わたしはここに心から繰り返していいます。暴力は問題を解決しません。かえってそれは、悲惨な結末を増大し、さらなる暴力を生み出します。地域レベルと国際レベルの政治指導者に呼びかけます。ガザ地区に住む多くの人々に生存と一致と治安の条件を保障するような公正な解決を、対話を通じて絶えず追求してください。皆様にもお願いします。わたしとともに、犠牲者とその家族、そして苦しむ人々のために祈ってください。主が、うむことなく和解と平和のために働く人々の努力を支えてくださいますように」。
5月31日(月)、パレスチナ自治区ガザへ支援物資を届けるために航行していた人道救援活動団体の6隻の船団がイスラエル軍による攻撃を受け、活動家ら9人が死亡しました。6月1日、イスラエルは、拘束した全乗船者682人を強制送還することを発表しました。イスラエルは、イスラーム組織ハマスがガザを制圧した2007年6月、ハマスによる武器搬入を防ぐことを理由に同地区の封鎖を強化し、以来封鎖が続いています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 司祭職と最近の司牧訪問に関して講話を行った後、今日、わたしたちの主要なテーマである、中世の偉大な思想家に関する考察に戻ります。最近わたしたちはフランシスコ会の聖ボナヴェントゥラという偉大な人物を取り上げました。今日は、教会が「共通博士(Doctor communis)」と呼ぶ、聖トマス・アクィナスについてお話ししたいと思います。わたしの前任者である敬愛すべき教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅『信仰と理性』の中でこう述べます。「聖トマスは、正当かつ当然のこととして、教会からつねに学問の師とされ、神学を論じる場合の模範とされてきました」(同43)。『カトリック教会のカテキズム』で参照される著作家の中で、聖トマスが聖アウグスティヌスに次いで、他のだれよりも多く引用されるのは驚くべきことではありません。その回数は約60回に及びます。聖トマスは「天使的博士(Doctor Angelicus)」とも呼ばれます。それはおそらく、彼の美徳、とくに思想の崇高さと生活の清らかさのゆえだと思われます。
 トマスは1224年と1225年の間に、ロッカセッカにある、裕福な貴族の家庭の居城で生まれました。アクィノ近郊のロッカセッカの近くには、有名なモンテカッシーノ修道院があります。両親はこのモンテカッシーノ修道院にトマスを送って、初等教育を受けさせました。数年後、彼はシチリア王国の首都ナポリに移ります。ナポリにはフリードリヒ2世(Friedrich II 1194-1250年、神聖ローマ皇帝在位1212-没年)が著名な大学を創立していました。このナポリで、トマスは他から何の制約も受けずに、ギリシア哲学者アリストテレスの思想を学びました。若きトマスは、アリストテレスの思想を知ると、すぐにその偉大な価値を見抜きました。しかし、何よりもこのナポリ滞在時代にトマスのドミニコ会士としての召命が生まれました。実際、トマスは、少し前に聖ドミニクスが創立した会の理想に引きつけられました。しかしながら、トマスがドミニコ会の修道服をまとうと、家族がこの決断に反対したため、彼は修道院を離れて、ある時期家族のもとで過ごさなければなりませんでした。
 1245年、すでに大人になったトマスは、再び神の呼びかけにこたえる道を歩み始めることができました。トマスは、もう一人の聖人アルベルトゥス・マグヌスの指導のもとで神学を学ぶためにパリに送られました。アルベルトゥス・マグヌスについては最近お話ししました。アルベルトゥスとトマスは真の深い友情を結びました。そして互いに尊敬し合い、互いの善を望むようになりました。その結果、アルベルトゥスはこの弟子をケルンに伴うことを望みました。アルベルトゥスは会の長上から、ケルンに神学研究院を設立するよう命じられたからです。こうしてトマスは今やアリストテレスとアラブのアリストテレス注解者の全著作に触れました。アルベルトゥスがこれらの著作の解説と注釈を行いました。
 当時、ラテン世界の文化は、アリストテレスの著作との出会いから深い刺激を受けていました。アリストテレスの著作は長い間知られずにいたからです。それは、認識の本性、自然学、形而上学、霊魂、倫理に関する諸著作でした。情報と洞察に富んだこれらの著作は、有効で説得力があると思われました。アリストテレスの著作はキリストと関係なく、キリスト以前に、理性だけによって展開された、包括的な世界観でした。それは理性に対して、ものの見方「そのもの」を提示しているように思われました。それゆえ、アリストテレス哲学を読み、知ることは、若者にとって途方もなく魅力的なことでした。多くの人が熱心に、場合によって無批判な熱心さをもって、この古代の知識の大きな遺産を受け入れました。この遺産は、文化を有利な方向へと刷新し、まったく新たな展望を開くことができるように思われたからです。しかし、アリストテレスの異教的思想はキリスト教信仰と対立するのでないかと恐れ、その研究を拒む人もいました。二つの文化が出会ったのです。一つは、徹底した合理性を備えた、アリストテレスのキリスト教以前の文化、もう一つは、古典的なキリスト教文化です。一部の人々は、アリストテレスと、アラブの注釈者アヴィセンナ(Avicenna; Ibn Sînâ 980-1037年)とアヴェロエス(Averroes; Ibn Rushd 1126-1198年)によるアリストテレス哲学の提示方法を拒絶するようになりました。実際、アリストテレス哲学をラテン世界に伝えたのは、このアラブの注釈者たちでした。たとえば、これらの注釈者はこう教えました。人間は個人的な知性を備えていない。むしろ、唯一の普遍的知性、すなわち、万人に共通の霊的実体のみが存在する。この普遍的知性がすべての人の中で「唯一者」として働くのだと。それゆえ、人間は個性をもたないものとなります。アラブの注釈者によって論争となったもう一つの点は、世界が神と同じように永遠であるという主張です。大学と教会の世界で終わりのない議論が巻き起こされたことは無理からぬことです。アリストテレス哲学は素朴な人々の間にも広まりました。
 トマス・アクィナスは、アルベルトゥス・マグヌスの学院の中で、哲学史と神学史にとって根本的に重要な意味をもつ作業を行いました。それは文化史にとっても重要だったといえると思います。トマスは、ギリシア語原典からの新しい訳を入手することによって、アリストテレスとその解釈者を徹底的に研究しました。こうしてトマスは、もはやアラブの注釈者に頼らず、自分で原典を読むことができました。そして、アリストテレス著作の大部分の注解を行いました。こうして彼は、真実なことがらと、疑わしいことがら、あるいは拒絶すべきことがらを区別しました。そして、アリストテレス著作と、啓示されたことがらが一致することを示し、自らの書いた神学的著作の説明の中でアリストテレスの思想を広範かつ明敏に用いたのです。要するに、トマス・アクィナスは、キリスト教信仰と理性の間には自然な調和があることを示しました。これこそがトマスの偉大な業績です。トマスは、二つの文化が出会った時代に(当時、信仰は理性の前に降服しなければならないように思われていました)、二つの文化がともに歩むことを示しました。彼が示したことはこれです。理性が信仰と相容れないように見えるなら、それは理性ではありません。信仰が真の合理性と対立するように見えるなら、それは信仰ではありません。こうしてトマスは新たな総合を作り上げました。この総合が、その後の時代の文化を築いたのです。
 トマスはその卓越した知的能力によって、ドミニコ会講座の神学教授となるためパリに呼び戻されます。このパリでもトマスは著作活動を始めました。死ぬまで続けられたトマスの著作活動は驚異的なものでした。トマスの著作は次のものです。聖書注解(神学教授の務めは何よりも聖書を解釈することだったからです)。アリストテレス著作の注解。力強い体系的著作(その中でもっとも優れた著作は『神学大全(Summa theologiae)』です)。そしてさまざまな議論に関する論考と講話です。トマスの著作のために幾人かの秘書が協力しました。秘書の一人にピペルノの修道士レギナルドゥス(Reginaldus de Piperno 1290年頃没)がいます。レギナルドゥスはトマスに忠実に従い、トマスもレギナルドゥスと兄弟としてのまことの友情で結ばれていました。この友情は深い信頼によって特徴づけられるものでした。これこそが聖人の特徴です。聖人は友情を深めます。友情は人間の心のもっとも高貴な表現の一つであり、それ自体のうちにある意味で神的なものが見いだされるからです。トマスも『神学大全』のある問いの中で解説します。「愛徳は、主として神との、また神に属するものとの、人間の友愛である」(同:Summa theologiae II-II, q. 23, a. 1)。
 トマスはパリに長期間安定してとどまりませんでした。1259年、トマスはヴァランシエンヌのドミニコ会総会に参加しました。彼はこの総会で、ドミニコ会の学事規則を定めるための委員会の委員だったからです。その後、1261年から1265年まで、トマスはオルヴィエトに滞在しました。トマスを高く評価していた教皇ウルバヌス4世(Urbanus IV 在位1261-1264年)が、キリストの聖体の祭日のための典礼式文の作成をトマスに命じたのです。明日わたしたちが祝うキリストの聖体の祭日は、ボルセーナの聖体の奇跡(1263年)の後、定められました。トマスはこの上なく聖体に生かされた魂をもっていました。教会の典礼が聖体における主のからだと血の現実の現存の神秘を記念するために歌うもっとも美しい賛歌は、トマスの信仰と神学的な知恵に由来します。1265年から1268年まで、トマスはローマに滞在しました。おそらく彼はローマで学院(Studium)、すなわちドミニコ会の勉学の家を指導し、また、『神学大全』の執筆を開始しました(Jean-Pierre Torrell, Tommaso d’Aquino. L’uomo e il teologo, Casale Monf., 1994, pp. 118-184参照)。
 1269年、トマスは2回目の教授活動のためにパリに呼び戻されました。学生がトマスの講義を熱狂的に迎えたことはよく理解できます。かつてのトマスの学生はいいます。きわめて大勢の学生がトマスの講義を聞こうとつめかけたため、講堂には学生が入りきれなくなった。かつての学生は自分の注釈を付け加えます。「トマスの講義を聞くことはわたしにとってとても幸福なことだった」。トマスによるアリストテレス解釈はすべての人に受け入れられたわけではありませんでした。しかし、たとえばフォンテーヌのゴドフロワ(Godefroid de Fontaines; Godefridus de Fontibus 1250以前-1306/1309年)のような、学界におけるトマスの反対者でさえも、修道士トマスの教えが有益さと価値において他の人々に優り、他のすべての人の教えを正すのに役立ったことを認めています。おそらく当時の激しい議論からトマスを遠ざけるために、長上は彼をもう一度ナポリに派遣します。それは大学の研究を再編しようとしていたカルロ1世(Carlo I d’Angiò 1226-1285年)に仕えさせるためでした。
 トマスは研究と教授活動だけでなく、民衆への説教にも努めました。民衆も進んでトマスのことばを聞きに来ました。わたしは、神学者が単純に、熱意をもって信者に語れるのは、本当に大きな恵みだといいたいと思います。そればかりか、説教の奉仕職は、神学研究者が健全な司牧的現実感覚をもつ助けとなり、研究に生き生きとした刺激を豊かに与えてくれるのです。
 トマスの地上における生活の最後の時期は特別な雰囲気に包まれていました。それは神秘的な雰囲気だったということもできます。1273年12月、トマスは、友人であり秘書でもあったレギナルドゥスを呼び、あらゆる著作活動を中断することに決めたと告げます。なぜなら、ミサをささげていたとき、超自然的な啓示を受けて、自分がそれまで書いてきたすべてのものは「藁(わら)しべ」にすぎないと悟ったからです。これは不思議な逸話です。この逸話からわたしたちは、トマス自身の謙遜を知りうるだけでなく、次のことも知ることができます。信仰について考え、語りうるすべてのことは、たとえそれがどれほど崇高で純粋なものであったにせよ、神の偉大さとすばらしさのほうが限りなく優れています。神の偉大さとすばらしさは、楽園で完全に示されるからです。数か月後、トマスは、ますます深い黙想にふけりながら、リヨンに向かう旅の途中で亡くなります。リヨンでは教皇グレゴリウス10世が招集した公会議に参加する予定でした。トマスは深い敬虔の念をもって最後の糧を受けた後、フォッサノーヴァのシトー会修道院で没しました。
 聖トマス・アクィナスの生涯と教えは、往時の伝記作者が伝える逸話に要約することができます。聖トマスがいつものように、朝、ナポリの聖ニコラウス聖堂の十字架につけられたかたの前で祈っていると、聖堂の香部屋係のカセルタのドミニクスが、そこでなされている対話を耳にしました。トマスは不安げに、「わたしがキリスト教信仰の神秘について書いてきたことは正しかったのでしょうか」と尋ねました。すると十字架につけられたかたはこたえました。「トマスよ。お前はわたしについてよく語った。お前は何を報いとして求めるか」。トマスが述べたこたえは、イエスの友人であり弟子であるわたしたち皆がつねに求めるたまものです。「主よ、あなたのほかは何も望みません」(同:ibid., p. 320参照)。

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