教皇ベネディクト十六世の2010年6月20日の「お告げの祈り」のことば 十字架の道

教皇ベネディクト十六世は、年間第12主日の6月20日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂でミサを司式し、このミサの中でローマ教区の14名の助祭の司祭叙階を行いました。ミサの後、教皇は、教皇公邸書斎の窓から、サンピ […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第12主日の6月20日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂でミサを司式し、このミサの中でローマ教区の14名の助祭の司祭叙階を行いました。ミサの後、教皇は、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「この数日間、深刻な衝突が起こったキルギス南部で、平和と治安がただちに回復するよう、緊急の呼びかけを行いたいと思います。犠牲者のご家族とこの事件の被害に遭われたかたがたに、わたしは心から寄り添うとともに、祈ることを約束します。さらにキルギスのすべての民族共同体に、挑発と暴力をやめてくださるようお願いします。そして、国際社会には、人道支援が被災者に迅速に届くよう努力されることを求めます。
 今日、国連は『世界難民の日』を開催します。それは、自国と慣れ親しんだ習慣を捨てることを余儀なくされ、しばしばまったく異なる地域に移る人々の抱えるさまざまな問題に注意を向けさせるためです。難民は、迎え入れられ、自らの尊厳と基本的権利を認められることを望んでいます。同時に彼らは、自分たちを迎える社会に自ら貢献したいと希望しています。祈りたいと思います。公正な互恵性のうちに、人々がこうした期待に適切にこたえ、難民も、自分たちを受け入れる共同体の独自性を尊重することができますように」。
キルギス南部では6月10日(木)深夜、オシュ州で発生した民族間の衝突に端を発した暴動が隣接のジャララバード州に拡大しました。キルギス保健省は18日、この暴動による死者を192人と発表しましたが、ローザ・オトゥンバエヴァ暫定大統領は18日、死者数は2000人に達する可能性があると述べています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の午前、サンピエトロ大聖堂で、ローマ教区の14名の助祭の司祭叙階を行いました。叙階の秘跡は、神の側から見ると、神の人間とのいつくしみ深い連帯を示します。叙階を受ける者から見ると、それは、キリストと教会に対する徹底的な愛をもって、この神の連帯の道具となるために完全に準備ができていることを示します。今日の主日の福音の中で、主は弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」(ルカ9・20)。使徒ペトロはすぐにこの問いにこたえます。「神からのメシアです」(同)。ペトロはこういうことによって、イエスを預言者の一人と考えるこの世の見解を乗り越えたのです。聖アンブロシウス(339頃-397年)によれば、ペトロはこの信仰告白によって「すべてのことを理解したのである。なぜなら、この信仰告白は(メシアの)本性と名を表すからである」(『ルカ福音書注解』:Expositio Evangelii secundum Lucam VI, 93, CCL 14, 207)。そしてイエスは、この信仰告白に対して、ペトロと他の弟子たちに、十字架に至るまでの愛という困難な道を自分に従うようあらためて招きます。みことばと秘跡のうちに信仰によってイエスを知ることのできるわたしたちにも、イエスは、日々、わたしに従いなさいと呼びかけます。そして、わたしたちにも思い起こさせます。わたしの弟子になるには、わたしの十字架の力を自分のものにしなければならないと。十字架はわたしたちの善の頂点であり、わたしたちの希望の冠だからです。
 証聖者マクシモス(580-662年)はいいます。「わたしたちの主の力の特徴的なしるしは、主が背負う十字架である」(『アンビグア』:Ambigua 32, PG 91, 1284C)。実際、「主はすべての人にいわれた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(ルカ9・23)」。十字架を担うとは、神への道の妨げとなる罪に打ち勝ち、日々、主のみ心を受け入れ、何よりも、どんな問題、困難、苦しみに遭っても信仰を深めるよう努めることです。カルメル会修道女の聖エディット・シュタイン(1891-1942年)は迫害の時代にこのことをあかししました。彼女は1938年にケルンのカルメル会修道女に次のように書き送っています。「今日わたしは分かりました。・・・・十字架のしるしのもとに主の花嫁となるとはどういうことかを。たとえそれをすべて理解できないとしても。それは神秘だからです。・・・・闇がわたしたちの周りを取り囲めば取り囲むほど、わたしたちは心を上から来る光へといっそう開かなければなりません」(La scelta di Dio. Lettere (1917-1942), Roma 1973, 132-133)。現代においても、世界の多くのキリスト者が、神への愛に促されて、日々、十字架を担っています――日々の試練という十字架であれ、人間の野蛮さが引き起こした十字架であれ。後者の十字架は、時として最高の犠牲をささげる勇気を求めることもあります。主がわたしたち皆に、主に堅固な希望を置く恵みを与えてくださいますように。自分の十字架を担って主に従うことにより、主とともに復活の光に達すると信じることができますように。
 今日叙階された新司祭を、おとめマリアの母としてのご保護にゆだねようではありませんか。新司祭たちは、主が名前をもって呼ばれた弟子団と結ばれたからです。彼らが常に忠実な弟子となり、勇気をもって神のことばを告げ知らせ、救いのたまものを分配することができますように。

略号
CCL Corpus Christianorum Series Latina
PG Patrologia Graeca

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