教皇ベネディクト十六世の229回目の一般謁見演説 聖トマス・アクィナス(三)

6月23日(水)午前10時30分から、パウロ6世ホールで、教皇ベネディクト十六世の229回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第36回として、6月2日、16日に続き「聖トマス・アクィナス」について3回目の解説を行いました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、この3回目をもって、聖トマス・アクィナスについての講話を終えたいと思います。没後700年以上を経ても、わたしたちは聖トマスから多くのことを学ぶことができます。わたしの先任者である教皇パウロ六世(在位1963-1978年)もこのことを思い起こさせてくれました。パウロ六世は聖トマス没後700周年にあたって、1974年9月14日にフォッサノーヴァで行った講話の中で、問いかけました。「師トマスよ。あなたはどのような教えを与えてくださるのでしょうか」。パウロ六世はこうこたえました。「それは、聖トマスが擁護し、解説し、人間精神の認識能力に対して開いてくれた、カトリックの宗教思想の真理を信頼することです」(Insegnamenti di Paolo VI, XII [1974], pp. 833-834)。パウロ六世は同じ日にアクィノで、やはり聖トマスに触れて、こう述べました。「教会の忠実な子であるわたしたちは皆、少なくともある程度、聖トマスの弟子となることができますし、またならなければなりません」(ibid., p. 836)。
 それゆえわたしたちも、聖トマスと、その傑作である『神学大全』(Summa theologiae)の学びやに入りたいと思います。『神学大全』は、未完とはいえ記念すべき著作です。本書は512問、2669項から成ります。『神学大全』は緻密な議論を行います。本書の中で、問いと答えを組み合わせながら、人間知性の信仰の神秘への適用が明晰さと深さをもって行われます。これらの問いと答えの中で、聖トマスは、聖書と教父、とくに聖アウグスティヌスの教えを深く考察します。この考察と、当時の真の意味でのさまざまな問い(それはしばしば現代のわたしたちの問いでもあります)への取り組みを通じて、聖トマスは古代哲学者、とくにアリストテレスの方法と思想も用いて、信仰の真理の簡潔、明快な定式化を行いました。こうして信仰のたまものである真理が輝いて、わたしたちも、わたしたちの考察によってこの真理に近づけるようになりました。しかし、トマスが自らの生涯によって教えてくれるとおり、このような人間精神の努力は、つねに祈りによって、すなわち上から来る光によって照らされます。神とともに、神秘とともに生きる者だけが、神と神秘の語ることを悟ることもできるのです。
 『神学大全』の中で、聖トマスは、神の存在と本質には3つのあり方があることから出発します。第一に、神はそれ自体として存在するかたであり、万物の根源また目的です。全被造物はこのかたから発出し、このかたに依存しています。第二に、神は恵みを通じて、キリスト信者と聖人の生活と活動の中に現存します。第三に、神はまったく特別なしかたでキリストのペルソナ(ここでキリストは真の意味で人間イエスと一致します)のうちに現存し、秘跡のうちに働かれます。秘跡は神のあがないのわざから流れ出るからです。そのため、この記念すべき著作――それは「神のまなざし」による神の完全性の探求です(『神学大全』:Summa theologiae I, q. 1, a. 7参照)――の全体は(Jean-Pierre Torrell, La《Summa》di San Tommaso, Milano 2003, pp. 29-75参照)、3つの部分に分けられます。「共通博士」聖トマス自身が、それを次のように解説します。「この聖なる教の主要なる意図は、神についての認識を伝えることであり、それも、・・・・単にそれ自体としてあるかぎりの神だけではなく、諸事物、とくに理性的被造物の根原であり目的であるかぎりの神についての認識を伝えることにあるから、この教の説明を意図するわれわれは、まず第一に神について、第二に理性的被造物の神に向かう動きについて、第三にキリストについて論じることにしよう。キリストは、人間であるかぎりにおいては、われわれにとって神に向かうための道なのである」(同:ibid. I, q. 2〔山田晶訳、『世界の名著続5 トマス・アクィナス』中央公論社、1975年、117頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。それは一つの循環をなします。まずそれ自体としてあるかぎりの神です。この神は、ご自身から出て、わたしたちを手で捕らえます。こうしてわたしたちはキリストとともに神へと帰り、神と一つに結ばれます。そして神がすべてにおいてすべてとなられるのです。
 それゆえ、『神学大全』第一部は、それ自体としてあるかぎりの神、三位一体の神秘、神の創造のわざについて探究します。第一部には、神の創造のわざから造り出され、神の愛の実りであるかぎりでの、人間の本来のあり方に関する深い考察も見いだされます。一方でわたしたちは神に依存する被造物であり、自分自身から生まれたのではありません。しかし、他方で、わたしたちは真の自律性をもっています。ですからわたしたちは、一部のプラトン主義哲学者がいうような、かりそめの存在ではなく、それ自体として神が望んだ存在であり、それ自体としての価値をもっています。
 第二部で、聖トマスは人間を考察します。人間は、恵みに促され、時間と永遠の中で幸福になるために神を知り、愛することを望む存在です。まず聖トマスは道徳的行為の神学的原理を示します。そのために、よい行為を行うための人間の自由な決断において、理性と意志と情念がどのように総合されるかを検討します。これに、聖霊の徳とたまものを通じて神の恵みが与える力と、道徳的法から与えられる助けが付け加えられます。ですから、人間は動的な存在です。人間は自分自身を求めます。自分自身となることを求めます。そのために、自らを築き上げる行為を行うことを求めます。このような行為こそが真の意味で人間を人間たらしめるからです。ここで道徳的法、恵み、自らの理性と意志と情念が働きます。以上の基盤に基づいて、聖トマスは人間の特徴を描き出します。人間は霊に従って生き、そこから、神の似姿(イコン)となるのです。ここでトマスは、信仰・希望・愛という3つの対神徳を考察します。それに続くのが、賢明、正義、節制、勇気という4つの枢要徳の周りにまとめられた、50以上の人間的徳に関する鋭い分析です。終わりに、教会におけるさまざまな召命が考察されます。
 『神学大全』第三部で、聖トマスは、キリストの神秘を探究します。キリストは、道であり、真理であるかたです。わたしたちはこのかたによって、父である神と再び一つに結ばれることができます。この部分で聖トマスは、受肉とイエスの受難について、ほとんど比類のない記述を行います。それに続いて、7つの秘跡に詳しい考察を加えます。というのは、受肉した神のことばは、わたしたちの救いのため、すなわち神へと向かうわたしたちの信仰の歩みと永遠のいのちのために、これらの秘跡のうちに受肉の恩恵を延長します。そして、いわば被造物の姿で現存しながら、物質的な形でとどまり、そこから、わたしたちの内面に触れてくださるのです。
 秘跡について語る際、聖トマスは聖体の神秘について特別な考察を行います。聖トマスは聖体の秘跡に深い信心を抱いていました。そのため、当時の伝記作者によれば、彼はいつも聖櫃に自分の頭をもたせかけていました。それは、神にして人であるイエスのみ心の鼓動を聞いているかのようでした。聖書注解の一つの中で、聖トマスは聖体の秘跡のすばらしさをわたしたちに悟らせてくれます。聖トマスはこう述べます。「わたしたちの主の受難の秘跡である聖体は、それ自体のうちに、わたしたちのために苦しまれたイエス・キリストを含んでいる。だから、わたしたちの主の受難がもたらすもの、それゆえこの秘跡がもたらすものは皆、わたしたちのうちに主の受難を現存させることにほかならない」(『ヨハネ福音書注解』:Lectura super Evangelium sancti Johannis c. 6, lect. 6, n. 963)。主はわたしたちのためにご自分をいけにえとしてささげました。聖トマスをはじめとする聖人たちが、この主に対し悲しみの涙を流しながらミサをささげた理由を理解しようではありませんか。この悲しみの涙は、喜びと感謝の涙でもあります。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖人に学びながら、聖体の秘跡に心を捕らえられようではありませんか。精神の集中をもってミサにあずかり、霊的な実りを得ようではありませんか。主のからだと血に養われ、絶えず神の恵みから糧を得ようではありませんか。至聖なる秘跡とともに歩みながら、進んで、しばしば、神と顔と顔を合わせて語り合おうではありませんか。
 聖トマスは、『神学大全』や『対異教徒大全』(Summa contra gentiles)といった神学的主要著作の中で厳密に学問的な形で述べたことを、学生や信者向けの説教の中でも解説しました。亡くなる前年の1273年の四旬節を通して、彼はナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会で説教を行っています。この説教の内容はまとめられて、伝えられました。この『小著作集』の中で、聖トマスは使徒信条を解説し、主の祈りを解釈し、十戒を説明し、天使祝詞を注解しています。「天使博士」トマスの説教の内容は、『カトリック教会のカテキズム』の内容とほとんどすべて対応しています。実際、現代のように、あらためて福音宣教に取り組まなければならない時代の信仰教育と説教においては、次のような根本的なテーマを示すことが不可欠です。まず、「わたしたちが信じる」こと、すなわち信条です。次いで「わたしたちが祈る」こと、すなわち主の祈りと天使祝詞です。そして、聖書の啓示が教えるように「わたしたちが生きる」こと、すなわち神への愛と隣人への愛のおきてと、この愛のおきての解説としての十戒です。
 単純で本質的で説得力のある、聖トマスの教えの内容のいくつかの例を示したいと思います。『使徒信条講話』(Collationes Credo in Deum)で、聖トマスは信仰の価値を解説します。聖トマスはいいます。信仰によって、霊魂は神に結合されます。永遠のいのちがわたしたちの中で始まります。生活は確かな導きを与えられます。そして、わたしたちは誘惑に容易に打ち勝ちます。目に見えないものを信じるがゆえに、信仰は愚かなことだという異論を唱える者に対して、聖トマスは明快な答えを示します。彼はいいます。この疑問は一貫性がありません。なぜなら、人間知性には限界があり、すべてを知ることができないからです。目に見えるものにせよ目に見えないものにせよ、それらのすべてを完全に知ることができるときにのみ、信仰のみによって真理を受け入れることは本当に愚かだといえます。さらに聖トマスはいいます。自分の認識の及ばないことに関しては、他の人の知識を信頼することなしに生きることはできません。それゆえ、ご自分を示してくださった神と、使徒たちの証言を信じることは理にかなっています。使徒たちは少数で、単純で、貧しく、自分たちの師であるかたが十字架につけられると打ちのめされました。にもかかわらず、多くの知者、貴人、富者が、使徒たちの説教を聞くことによってただちに回心したのです。実際、それは奇跡的な歴史現象といえます。この現象について、使徒たちが復活した主と出会ったためだという以外の合理的な説明をすることは困難です。
 神のことばの受肉に関する信条の注解においても、聖トマスはある考察を行います。聖トマスはいいます。受肉の神秘を考察することによって、キリスト者の信仰が強固にされます。ご自身が神であることを人間に知らせるために、神の子がわたしたちの間に来られ、わたしたちと同じ者となったことを思うことにより、希望が高められ、いっそう信頼の置けるものになります。愛が燃え立たせられます。なぜなら、万物の創造主が被造物となり、わたしたちの一人となられたのを見る以上に、わたしたちに対する神の愛をはっきりと示すしるしはないからです。最後にわたしたちは、神の受肉の神秘を考察することにより、キリストの栄光に達したいという望みが燃え上がるのを感じます。聖トマスは、単純でありながら力強いたとえを用いていいます。「もしある者が王を兄弟とし、自分は遠く離れたところにあった場合、兄弟である王のもとに帰って一緒に暮らすことを熱望するに違いない。それゆえ、わたしたちもキリストがわたしたちの兄弟であるならば、キリストとともにあって、キリストと一致することを熱望しなければならない」(『使徒信条講話』:Collationes Credo in Deum 5, Opuscoli teologico-spirituali, Roma 1976, p. 64〔竹島幸一訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成14 トマス・アクィナス』平凡社、1993年、753頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 主の祈りの解説において、聖トマスは次のことを示します。主の祈りはそれ自体として完全です。主の祈りは、優れた祈りがもつべき5つの特徴をすべてそなえているからです。5つの特徴とは、(一)信頼と安らぎをもって自分をゆだねること。(二)祈りの内容が適切であること。なぜなら、聖トマスによれば、「願いを選ぶのが困難なとき、何を望み、何を望まないのが適切であるかを正確に知ることがむずかしいからである」(『主の祈り講話』:Collationes super Pater noster, ibid., p. 120)。そして、(三)願いの適切な順序、(四)熱心な愛、(五)真実な謙遜です。
 すべての聖人と同じように、聖トマスは聖母に熱心に信心をささげました。聖トマスは聖母に「全三位一体の座所(Triclinium totius Trinitatis)」(『天使祝詞講話』:Collationes super Ave Maria 10〔竹島幸一訳、『天使祝詞の解説 通称「アヴェ・マリア」』聖トマス学院、1971年、7頁〕)という驚くべき呼び名を与えました。「座所(triclinium)」とは三位一体が安らう場所という意味です。なぜなら、受肉によって、三位の神は、他の被造物のうちでただ聖母にのみ宿り、恵みに満たされたその魂のうちに生きることを喜び楽しんだからです。聖母の執り成しによってわたしたちはあらゆる助けを得ることができます。
 伝統的に聖トマスの作とされる祈り(いずれにせよこの祈りは聖トマスのマリアへの深い信心の諸要素を反映しています)を、わたしたちも唱えたいと思います。「おお、いとも幸いにしていとも甘美なるおとめマリア、神の母・・・・われはあわれみの御懐の中に・・・・わが全生活をゆだね奉る。・・・・おお、甘美なる主なる婦人よ、真の愛をわれに得させ給え。われをして、その愛もて、至聖なる御身の御子を心を尽くして愛し、御子に次いで御身を万事に超えて愛し奉り、隣人を神の中に、また神のために愛することを得しめ給え」(『種々の敬虔な祈り』竹島幸一訳、前掲『中世思想原典集成14 トマス・アクィナス』814-815頁。ただし表現を一部改めた〕)。

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