教皇ベネディクト十六世の231回目の一般謁見演説 福者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

7月7日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の231目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続 […]


7月7日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の231目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第37回として、「福者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
講話の後、各国語で行われたあいさつの終わりに、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「最後にわたしの思いは若者、病者、そして新郎新婦の皆様に向かいます。昨日わたしたちは聖マリア・ゴレッティ(Maria Goretti 1890-1902年)の祝日を記念しました。マリア・ゴレッティはおとめ殉教者です。この少女はまだ幼かったにもかかわらず、悪に立ち向かう力と勇気を示すことができました。親愛なる若者の皆様。皆様のためにこの聖人に祈ります。聖人の助けによって、皆様が、どれほど大きな犠牲を払うことになっても、つねに善を選ぶことができますように。親愛なる病者の皆様。日々の苦しみを耐え忍ぶ皆様を聖人が支えてくださいますように。そして親愛なる新郎新婦の皆様。皆様の愛がつねに忠実で、相互の尊敬に満たされたものでありますように」。

7月2日(金)、教皇庁公邸管理部は、7月の教皇の休暇の予定について発表しました。教皇は7月7日(水)から夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸に移ります。休暇中、すべての個人謁見と特別謁見は行われません。休暇中の7月14日、21日、28日の水曜一般謁見はありませんが、カステル・ガンドルフォ滞在中、日曜と祭日の「お告げの祈り」は同公邸中庭で行われます。一般謁見は8月4日(水)から定期的に再開されます。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 さまざまの偉大な神学者に関して何回かの講話をしてまいりました。今日、わたしは神学史におけるもう一人の重要な人物をご紹介したいと思います。すなわち、福者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1265/1266-1308年)です。ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは13世紀末に生きた人です。古い彼の墓碑銘は、スコトゥスの生きた地理的な位置を要約しています。「イングランドによって受け入れられ、フランスによって教えられ、ドイツのケルンによって亡骸を保たれている彼は、スコットランドで生まれた」。わたしたちはこの情報を見過ごすことができません。なぜなら、ドゥンス・スコトゥスの生涯についてはわずかなことしか知られていないからです。スコトゥスはおそらく1266年に、エディンバラ近郊の「ダンス(Duns)」と呼ばれる村で生まれました。アッシジの聖フランチェスコのカリスマに惹かれて「小さき兄弟会」に入会し、1291年に司祭に叙階されました。思弁に適した優れた知性に恵まれたドゥンス・スコトゥスは(この知性によってスコトゥスは伝統的に「精妙博士(Doctor subtilis)」という称号を得ました)、有名なオックスフォード大学とパリ大学で哲学と神学を学ぶよう派遣されました。首尾よく養成を終えると、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、そして後にパリ大学で神学を教え始めました。彼は当時のすべての教師と同様に、初めにペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を注解しました。ドゥンス・スコトゥスの主要著作はこの講義の円熟した成果を示しています。そしてこれらの著作は彼が教えた場所によって書名がつけられました。『オックスフォード講義録』(Opus Oxoniense)、『ケンブリッジ報告』(Reportatio Cambrigensis)、『パリ報告』(Reportata Parisiensia)です。ドゥンス・スコトゥスは、フランス王フィリップ4世(Philippe IV, le Bel 在位1285-1314年)と教皇ボニファティウス8世(Bonifatius VIII 在位1294-1303年)の間で激しい争いが起きるとパリを離れました。フランス王がすべての修道者に強要した、教皇に敵対する文書に署名するよりは、進んで追放されることを選んだのです。こうして(ペトロの座への愛によって)彼はフランシスコ会士たちとともにフランスを離れました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。このことはわたしたちに、教会の歴史の中で、キリストと教会と教皇への忠実と忠誠のゆえに、信者が幾度となく敵意を向けられ、迫害さえも受けたことを思い起こさせてくれます。わたしたちは皆、こうしたキリスト信者を感嘆の念をもって仰ぎ見ます。彼らは、キリストへの信仰と、ペトロの後継者との一致、すなわち普遍教会との一致を貴い宝として守ることをわたしたちに教えてくれます。
 さて、フランス国王とボニファティウス8世の後継者の関係が再び良好なものとなったので、ドゥンス・スコトゥスは1305年にパリに戻って「マギステル・レゲンス(Magister regens)」の称号をもって神学を教えることができました。「マギステル・レゲンス」は今日でいうところの正教授です。その後、長上は彼をフランシスコ会の神学院の教授としてケルンに派遣しました。彼は1308年11月8日に亡くなります。亨年わずか43歳でした。しかし彼は多くの重要な著作を残しました。
 その聖性の誉れのゆえに、スコトゥスへの崇敬は間もなくフランシスコ会の中で広まり、尊者教皇ヨハネ・パウロ二世は1993年3月20日に正式に彼を福者と宣言しました。そして彼を「受肉したみことばの歌手、無原罪の御宿りの保護者」と呼びました。このことばのうちに、ドゥンス・スコトゥスが神学史に対して行った偉大な貢献が要約されています。
 スコトゥスは何よりもまず受肉の神秘を考察しました。そして、当時の多くのキリスト教思想家と異なり、人類が罪を犯さなくても、神の子は人となったであろうと主張しました。彼は『パリ報告』でいいます。「アダムが罪を犯さなければ、神が受肉のわざをやめたなどと考えることはきわめて不合理である。それゆえわたしはいう。堕罪はキリストについてあらかじめ定められたことの原因ではない。そして、天使であろうと人間であろうと、だれも罪に陥らなかったと仮定しても、キリストは同じようなしかたであらかじめ定められていたであろう」(『パリ報告』:Reportata Parisiensia, in III Sent., d. 7, 4)。このある意味できわめて驚くべき思想が生まれた理由はこれです。ドゥンス・スコトゥスの考えでは、神の子の受肉は、父である神が愛の計画のうちに永遠の昔から定めていたものであり、創造の完成です。それは、キリストのうちに、キリストを通して、すべての被造物が恵みに満たされ、とこしえに神を賛美し、ほめたたえることを可能にします。ドゥンス・スコトゥスは、実際には原罪のために、キリストがその受難と死と復活によってわたしたちをあがなってくださったことを自覚していました。にもかかわらず彼は、次のことを強調したのです。受肉は救いの歴史全体の中でもっとも偉大ですばらしいわざです。そして、受肉は偶然的なことがらによって条件づけられません。むしろ神は、御子のペルソナとからだのうちに全被造物をご自身と一致させようと、初めから考えておられたのです。
 聖フランチェスコの忠実な弟子であったドゥンス・スコトゥスは、救いをもたらすキリストの受難の神秘を観想し、説教することを喜びとしました。キリストの受難の神秘は神のはかりしれない愛の表れです。神はご自身のいつくしみと愛の光を、偉大な寛大さをもって、ご自身の外に伝えます(『第一原理についての論考』:Tractatus de primo principio c. 4参照)。この愛はカルワリオ(されこうべ)の上で示されるだけでなく、至聖なる聖体のうちにも示されます。ドゥンス・スコトゥスは聖体に深い信心をささげました。彼は、聖体はイエスの現実の現存の秘跡、また一致と交わりの秘跡だと考えました。この秘跡によって、わたしたちは互いに愛し合い、最高の共通善である神を愛するよう導かれるからです(『パリ報告』:Reportata Parisiensia, in IV Sent, d. 8, q. 1, n. 3参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。このきわめて「キリスト中心的」な神学思想は、わたしたちの心を観想と驚きと感謝へと開いてくれます。キリストは歴史と全宇宙の中心です。キリストは、わたしたちの人生に意味と尊厳と価値を与えてくださるかたです。マニラで教皇パウロ六世が述べたように、今日わたしも世界に向けて大声で叫びたいと思います。「(キリストは)目に見えない神を示してくださるかたです。すべての被造物の中で最初に生まれたかたです。あらゆるものの基盤です。キリストは人類の教師であり、あがない主です。キリストはわたしたちのために生まれ、死んで、復活されました。キリストは歴史と世界の中心です。キリストはわたしたちを知っておられるかた、わたしたちを愛してくださるかたです。キリストはわたしたちの人生の同伴者であり、友です。・・・・わたしはキリストについて語るのをやめることができません」(「説教(1970年11月29日)」)。
 「精妙博士」スコトゥスの考察は、救いの歴史におけるキリストの役割だけでなく、マリアの役割にも向けられました。ドゥンス・スコトゥスの時代、神学者の大多数は、至聖なるマリアが受胎の最初の瞬間から原罪を免れていたという教えに反対していました。この反対は打ち勝ち難いもののように思われました。実際、一見したところ、キリストが成し遂げたあがないの普遍性は、このような主張によって危険にさらされるように思われました。この主張によれば、マリアはキリストとそのあがないを必要としないかのようだからです。そのため神学者たちはこの主張に反対したのです。そこでドゥンス・スコトゥスは、マリアが原罪から守られていたということを理解させるために、次のような議論を展開しました。この議論は後に1854年にマリアの無原罪の御宿りの教義を正式に決定した際、教皇ピオ9世(在位1846-1878年)も採用することになります。それは「前もって与えられたあがない」という議論です。この議論によれば、無原罪の御宿りはキリストが成し遂げたあがないのわざの優れた形を示します。なぜなら、キリストの愛と仲介の力によって、聖母は原罪から守られる恵みを得たからです。それゆえマリアは完全にキリストによってあがなわれました。しかも、すでに受胎の前にあがなわれたのです。スコトゥスの同僚のフランシスコ会士はこの教えを感激をもって受け入れ、広めました。他の神学者たちも、しばしば荘厳な誓いをもって、この教えの擁護と完成に努めました。
 このことに関連してわたしは一つのことを強調したいと思います。わたしにはこれが重要なことだと思われるからです。ドゥンス・スコトゥスのような優れた神学者たちが、無原罪の御宿りの教えに関して、特別な思想的貢献をもって豊かなものとしたことがら――それは、神の民がすでに聖なるおとめに関して進んで信じ、芸術表現や、広くキリスト教的生活の中で示してきたことです。ですから、無原罪の御宿りの信仰も、聖母のからだの被昇天の信仰も、すでに神の民の中にあったものです。しかし、神学は信仰に属する教え全体の中でこの信仰を解釈するための鍵をまだ見いだしていなかったのです。それゆえ、神の民は神学に先立ちます。神学はこの超自然的な「信仰の感覚(sensus fidei)」に負っています。「信仰の感覚」とは聖霊によって注がれた力です。この力が、謙遜な心と思いによって、信仰の真理をとらえることを可能にするのです。その意味で、神の民は「先行する教導職」です。神学は後からこの「先行する教導職」を深め、知解をもって受け入れなければなりません。神学者たちがつねにこの信仰の源泉に耳を傾け、小さな者のへりくだりと単純さをもつことができますように。数か月前、わたしは次のように述べてこのことを強調しました。「偉大な学者、専門家、神学者、信仰の教師はわたしたちに多くのことを教えてくれます。彼らは聖書を詳しく探究します。・・・・けれども彼らは、神秘そのものを、まことの核心を見いだすことができませんでした。・・・・本質的なことは隠されたままでした。これに対して、現代においても、このような神秘を悟った小さな者たちがいます。聖ベルナデット・スビルー(Bernadette Soubirous 1844-1879年)のことを考えてみてください。リジューの聖テレーズ(Thérèse de Lisieux 1873-1897年)のことを考えてみてください。聖テレーズの新しい聖書の読み方は『学問的』ではありませんが、聖書の核心に分け入ります」(「国際神学委員会委員とのミサ説教(2009年12月1日)」)。
 最後に、ドゥンス・スコトゥスは現代人がきわめて重視する問題を考察しました。すなわち、自由、また、自由と意志と知性の関係というテーマです。ドゥンス・スコトゥスは自由が意志の根本的な性質であることを強調して、主意主義の思潮の土台を据えました。主意主義は、アウグスティヌス的・トマス的ないわゆる主知主義と対立しながら発展しました。聖アウグスティヌスに従う聖トマス・アクィナスの考えでは、自由を意志の本来の性質とみなすことはできません。むしろ自由は、意志と知性の協力が生み出すものです。神においても人間においても、知性に先立つ意志のうちに本来、絶対的な意味で存在する自由という考えは、実際に、真理とも善ともかかわりのない神という神概念を生み出す恐れがあります。神の意志はきわめて根源的で究めがたいことを強調することによって、神の絶対的な超越性と差異性を主張しようとすることは、次のことをないがしろにします。すなわち、キリストのうちに示された神は「ロゴス」としての神だということです。この神はわたしたちに対する豊かな愛をもってわざを行われたし、今も行っておられるということです。たしかに、ドゥンス・スコトゥスがフランシスコ会学派の神学の主張に従って述べるとおり、愛は認識を凌駕し、人の考えで知る以上のことを知ることができます。しかしこの愛はつねに「ロゴス」としての神の愛です(ベネディクト十六世「信仰、理性、大学――回顧と考察」:Insegnamenti di Benedetto XVI, II, 2 [2006], p. 261〔『霊的講話集2006』266-267頁〕参照)。人間の場合にも、真理とのつながりをないがしろにして意志のうちに位置づけられた絶対的な自由という考えは、自由そのものが、罪によってもたらされた制約から解放されなければならないことを無視することになります。
 昨年行ったローマの神学生への講話の中で、わたしは次のように申し上げました。「すべての時代において、それも初めから、しかしとくに近代において、自由は人類の大きな夢であり続けました」(「教皇庁立ローマ大神学校での講話(2009年2月20日)」)。しかし、わたしたちの日々の経験だけでなく、近代史そのものが教えてくれることがあります。それは、自由は、真理と一致するときに初めて真正なものとなり、まことの意味で人間的な文明の建設に役立つということです。自由が真理から切り離されるなら、それは悲惨な形で人間の人格の内的調和を破壊する原理となり、もっとも大きな権力と暴力をもつ者が不正を行う源泉となり、苦しみと嘆きの原因となります。ドゥンス・スコトゥスはいいます。人間に与えられたすべての能力と同様に、自由が育ち、完成するには、人間が神に心を開き、神の声に耳を傾ける心構えを重んじなければなりません。この心構えをスコトゥスは「従順の能力(potentia oboedientialis)」と呼びます。わたしたちが神の啓示に、神のことばに耳を傾け、これを受け入れようと努めるなら、そのとき一つの知らせがわたしたちに届きます。この知らせがわたしたちの人生を光と希望で満たし、わたしたちは本当の意味で自由になるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。福者ドゥンス・スコトゥスはわたしたちにこう教えてくれます。わたしたちの人生の中で不可欠なこと、それは、神がキリスト・イエスのうちにわたしたちに近づき、わたしたちを愛してくださると信じることです。そして、キリスト・イエスとその教会への深い愛をさらに深めることです。わたしたちは地上においてこの神の愛をあかしする者です。至聖なるマリアの助けによって、わたしたちがこの神の限りない愛を受けることができますように。わたしたちは天上でこの愛を完全に味わいます。そのときついにわたしたちの魂は、聖徒の交わりのうちに、とこしえに神と結ばれるからです。

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