教皇ベネディクト十六世の2010年7月25日の「お告げの祈り」のことば 主の祈り

教皇ベネディクト十六世は、年間第17主日の7月25日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第17主日の7月25日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。ドイツ・デュイスブルクで痛ましい事故が起きたことを聞いて悲しみを覚えます。この事故で多くの若者が犠牲となったからです。わたしは、亡くなったかた、怪我をしたかたとそのご家族を祈りのうちに主にゆだねます」。
ドイツ北西部デュイスブルクで7月24日(土)夕、大規模な音楽イベント「ラブパレード」の観客が会場に向かうトンネル内で転倒し、現地警察の発表によると、19人が死亡、342人が負傷しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の主日の福音は、イエスが弟子たちとすこし離れたところで祈っておられる姿を示します。祈りが終わると、弟子の一人がイエスにいいました。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)。イエスはそれを拒みませんでした。しかもイエスは、特別な秘密のことばを語らず、むしろきわめて単純なしかたでいいます。「祈るときには、こういいなさい。『父よ・・・・』」。そして「主の祈り」を教えられました(ルカ11・2-4参照)。「主の祈り」はイエスご自身の祈りからとられたものです。イエスはこの祈りによってご自分の父である神に呼びかけます。聖ルカは、聖マタイによる福音書の形よりも短い形式による「主の祈り」を伝えます。この聖マタイによる福音書の「主の祈り」が、共通に用いられるようになりました。「主の祈り」は、わたしたちが子どものときから知っている聖書の基本的なことばです。それはわたしたちの記憶に刻まれ、わたしたちの人生を形づくり、息を引き取るときまでわたしたちに寄り添います。「主の祈り」はわたしたちに次のことを示します。「わたしたちは出来上がった神の子ではないのです。わたしたちは、常に深まってゆくイエスとの交わりにおいて、ますます子となっていくのであり、子であるべきなのです。子であるとは、キリストの倣びと一つのことです」(ベネディクト十六世『ナザレのイエス』:Gesù di Nazaret, Milano 2007, p. 168〔里野泰昭訳、春秋社、2008年、186頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 「主の祈り」は、人間が物質的また精神的に必要とすることも受け入れ、表します。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪をゆるしてください」(ルカ11・3-4)。まさに日々の必要と困難のゆえに、イエスは強く勧めます。「そこで、わたしはいっておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11・9-10)。わたしたちが願うのは、自分の望みを満たすためではありません。むしろ、神との友愛を生き生きとしたものとするためです。福音が常に述べるとおり、神は「求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11・13)かただからです。このことを、古代の「荒野の師父」やあらゆる時代の観想家が経験してきました。そしてこれらの人々は祈りによって、アブラハムと同じように、神の友となりました。アブラハムは滅ぼされようとするソドムの町から幾人かの正しい人をゆるしてくれるよう、主に願います(創世記18・23-32参照)。アビラの聖テレサ(1515-1582年)は自分の会の修道女に次のように促しています。「わたしたちは神に願い求めなければなりません。わたしたちをいつもあらゆる危険から救い、あらゆる悪から遠ざけてくださいと。わたしたちの望みがどれほど不完全であっても、この願いをささげ続けるよう努めなければなりません。多くのことを願ったからといって、それがどれほどのことだといえましょう。わたしたちは全能の神に呼びかけているのですから」(『完徳の道』:Cammino 60 [34], 4, Opere complete, Milano 1998, p. 846)。「主の祈り」を唱えるたびに、わたしたちは教会と声を合わせます。祈る人は決して独りきりではないからです。「教会が教えるキリスト教の祈りは、豊かで多彩な形を備えています。信者はだれでも、そこから自分自身の方法と祈り方を探さなければなりません。・・・・聖霊の導きに従ったほうがよいでしょう。聖霊がキリストを通してわたしたちを父のもとに連れて行ってくれるのです」(教皇庁教理省『キリスト教の黙想についてのいくつかの側面(1989年10月15日)』29:AAS 82 [1990], 378)。
 今日は「大ヤコブ」と呼ばれる使徒ヤコブの祝日です。使徒ヤコブは自分の父と漁師の仕事を捨てて、イエスに従い、使徒たちの中で最初にイエスのためにいのちをささげました。サンティアゴ・デ・コンポステラに向かう多くの巡礼者の皆様に、特別な思いをこめて心からごあいさつ申し上げます。おとめマリアの助けによって、わたしたちがキリスト教の祈りのすばらしさと深い意味を再発見することができますように。

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