教皇ベネディクト十六世の233回目の一般謁見演説 神への完全な愛の表現としての殉教

8月11日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の233回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「神への完全な愛の表現としての殉教」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日わたしたちは典礼の中でアッシジの聖クララを記念します。クララ会の創立者であるこの輝かしい聖人について、わたしは次回の講話の中でお話しするつもりです。しかし、先日の主日の「お告げの祈り」の中ですでに触れたとおり、今週、わたしたちは幾人かの殉教者の聖人も記念します。その中には教会の初期の時代の殉教者の聖人がいます。たとえば、助祭聖ラウレンティウス、教皇聖ポンティアヌス(在位230-235年)、そして司祭聖ヒッポリュトス(170以前-235年)です。また、わたしたちに近い時代の殉教者の聖人もいます。たとえば、ヨーロッパの守護聖人である十字架の聖テレサ・ベネディクタ、すなわちエディット・シュタイン、そして、聖マクシミリアン・マリア・コルベです。そこで、神への完全な愛の形としての殉教について簡単に考察したいと思います。
 殉教の起源は何でしょうか。答えは簡単です。殉教の起源は、イエスの死です。イエスの愛に基づく最高のいけにえです。イエスはこのいけにえを、わたしたちがいのちを受けるために、十字架上でささげ尽くしました(ヨハネ10・10参照)。キリストは、預言者イザヤが語った、苦しむしもべです(イザヤ52・13-15参照)。キリストは、多くの人のための身代金としてご自分をささげました(マタイ20・28参照)。キリストはご自分の弟子たちに、わたしたち一人ひとりに勧めます。日々、自分の十字架を担ってわたしに従い、父である神とすべての人への完全な愛の道を歩みなさい。キリストはわたしたちにいいます。「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分のいのちを得ようとする者は、それを失い、わたしのためにいのちを失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・38-39)。それは一粒の麦の考え方です。一粒の麦は、死んで芽を出し、いのちをもたらします(ヨハネ12・24参照)。イエスご自身が「神から来られた一粒の麦です。神である一粒の麦です。このかたは地上で倒され、砕かれ、亡くなります。そして、まさにこのことを通して開かれ、そこから、広い世界で実を結ぶことができるのです」(ベネディクト十六世「ローマのルーテル教会訪問の際の説教(2010年3月14日)」)。殉教者は徹底的に主に従い、世の救いのために、進んで死ぬことを受け入れ、信仰と愛の最高のあかしを行うのです(『教会憲章』42参照)。
 ところで、殉教に向かう力はどこから生まれるのでしょうか。それは、キリストとの深く内的な一致から生まれます。殉教と殉教への招きは、人間の努力から生じるものではありません。むしろそれは神の呼びかけに対するこたえです。それは神の恵みのたまものです。このたまものによって、キリストと教会への愛のために、そこから、世への愛のために、自分のいのちをささげることができるのです。聖人たちの伝記を読むと、彼らが苦しみと死に向かう際の落ち着きと勇気に驚かされます。神の力は弱さの中でこそ十分に示されます。それは、自分を神にゆだね、神にのみ希望を置く人の貧しさの中で示されるのです(二コリント12・9参照)。しかし、次のことを強調することが重要です。神の恵みは殉教に向かう人の自由を取り去ることも消し去ることもありません。むしろその反対に、それは彼らの自由を豊かにし、高めます。殉教者は最高の意味で自由な人間です。殉教者は権力と世に対して自由です。殉教者は自由な人間です。唯一、決定的な行為によって自分のいのちをすべて神にささげるからです。信仰と希望と愛に基づく最高のわざによって、造り主でありあがない主であるかたの手に自分をゆだねるからです。殉教者は、完全な形で十字架上のキリストのいけにえと結ばれるために、自分のいのちを犠牲にするのです。一言でいうなら、殉教とは神の限りない愛にこたえる、偉大な愛のわざです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。先週の水曜日に申し上げたとおり、わたしたちは殉教へと招かれてはいないかもしれません。しかし、神はだれをも聖性へと招いておられます。高いキリスト教的生き方に基づいて生きるよう招いておられます。そして、それは日々、自分の十字架を担うことを意味します。とりわけ利己主義と個人主義が支配するように見える現代において、わたしたちは次の第一の根本的な務めを果たさなければなりません。すなわち、日々、神と兄弟への愛をますます深めるという務めです。それは、自分の生涯を造り変え、そのことを通して、現代世界をも造り変えるためです。聖人と殉教者の執り成しを通して主に願おうではありませんか。わたしたちの心を燃え立たせてください。わたしたちも、主がわたしたち皆を愛してくださったように、愛することができますように。

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