教皇ベネディクト十六世の234回目の一般謁見演説 聖ピオ十世

8月18日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の234回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、8月21日に記念される「先任者、聖ピオ十世」につ […]


8月18日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の234回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、8月21日に記念される「先任者、聖ピオ十世」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、パキスタンの洪水被災者への支援を呼びかけました。
「このときにあたり、わたしの思いは、最近、大洪水の被害を受けたパキスタン国民に向かいます。この大洪水は多くの犠牲者を出し、多数の家族から住居を奪いました。
 わたしは、悲惨な形で亡くなったかたがたを神のあわれみ深いいつくしみにゆだねるとともに、ご遺族と、この災害のために苦しむすべての人に霊的に寄り添います。厳しい試練にさらされたこれらのわたしたちの兄弟に対して、わたしたちの連帯と国際社会の具体的な支援が十分に与えられますように」。
教皇がパキスタンの被災者のために呼びかけを行うのは、8月4日(水)の一般謁見に続いてこれで二度目です。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、今週の土曜(8月21日)に記念される、わたしの先任者の聖ピオ十世(1835-1914年、在位1903-没年)についてお話ししたいと思います。それは、現代の司牧者と信者にとっても有益な、彼のいくつかの特徴を強調するためです。
 ジュゼッペ・サルト(Giuseppe Sarto)――これが教皇の本名です――は1835年にリエセ(トレヴィーゾ)の農家に生まれました。パドヴァの神学校で学んだ後、23歳で司祭に叙階されました。初めトンボロの助任司祭、次いでサルツァノの主任司祭となり、その後、トレヴィーゾの司教座聖堂参事会員となって、教区神学校の教区事務局長および霊的指導司祭を務めました。惜しみなく豊かな司牧経験を積んだこの期間、将来の教皇は、キリストと教会への深い愛、謙遜と質素な生活、貧しい人々への大きな愛のわざを示しました。これらは彼の全生涯を特徴づけるものでした。1884年、マントヴァ司教に、1893年、ヴェネツィア総大司教に任命されました。1903年8月4日、教皇に選出されました。彼は教皇職をためらいをもって受け入れました。自分がこの崇高な職務にふさわしくないと思ったからです。
 聖ピオ十世の教皇職は、消し去ることのできないしるしを教会史に残しました。それは改革への際立った努力によって特徴づけられます。この改革は「キリストのうちに万物を刷新する(Instaurare omnia in Christo)」という標語でまとめられました。実際、ピオ十世の取り組みは教会のさまざまな分野に及びました。彼は初めからローマ教皇庁の機構改革に努めました。それから彼は、教会法の編纂作業を開始しました。この教会法は後継者のベネディクト十五世(在位1914-1922年)によって公布されます。さらにピオ十世は司祭志願者の勉学と養成課程の見直しを推進し、優れた図書室と優秀な教授を擁するいくつかの諸教区神学校を設立しました。もう一つの重要な分野は、神の民の教理的な養成です。主任司祭だったとき、ピオ十世自身、カテキズムを執筆し、マントヴァ司教職を務めていたときには、世界中で使用されはしないまでも、少なくともイタリア語による唯一のカテキズムを作成するために努力しました。真の意味での司牧者である彼は、移住の現象が見られる当時の状況から、生活する場所と状況と関係なく、すべての信者が参照することのできるカテキズムが必要だと考えたのです。教皇になると、ローマ教区のためのキリスト教教理の教科書を作成しました。この教科書は後にイタリア全土、また世界中に広まりました。『聖ピオ十世の公教要理』と呼ばれるこのカテキズムは、単純、明快、かつ正確な書き方と、力強い解説のゆえに、多くの人にとって信仰の真理を学ぶ上での確かな導きとなりました。
 ピオ十世は、典礼、とくに教会音楽の改革に深い関心を向けました。それは、深い祈りの生活と、いっそう十全な秘跡への参加へと信者を導くためです。自発教令『トラ・レ・ソレチトゥーディニ(Tra le sollecitudini)』(1903年。これは教皇職の最初の年です)の中で、教皇は述べます。真のキリスト教的精神の第一の不可欠の源泉は、至聖なる神秘と、教会の公式の荘厳な祈りへの積極的な参加のうちにあります(ASS 36 [1903], 531参照)。そのため教皇は、秘跡を頻繁に受けることを勧め、十分な準備をした上で聖体拝領を毎日行うことを推進し、適切にも、子どもの初聖体を「児童が理性を用い始める」年齢である7歳まで下げました(秘跡聖省教令『クアム・シングラーリ(Quam singulari)』:AAS 2 [1910], 582参照)。
 信者の信仰を強めるという務めを忠実に果たそうとした聖ピオ十世は、19世紀末から20世紀初頭にかけて神学界に現れたある種の傾向に対して決然と介入し、「近代主義」を非難しました。それは、信者を誤った思想から守り、教会の聖伝と一致した形での啓示の学問的探究を推進するためです。教皇は1909年5月7日、使徒的書簡『ヴィネア・エレクタ(Vinea electa)』によって教皇庁立聖書研究所を設立しました。ピオ十世の生涯の最後の数か月は、大戦の勃発によって悲しみに満ちたものとなりました。このときの「痛切な悲しみ」を表すために、1914年8月2日に発表された、世界のカトリック信者に向けた呼びかけは、互いに争い合う子らを目にした父の苦悩の叫び声でした。教皇はそれから間もなく8月20日に亡くなります。その聖性のほまれは、キリスト者の民の間にすぐに広まり始めました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖ピオ十世はわたしたち皆に次のことを教えてくれます。わたしたちはさまざまな分野で使徒的活動を行います、しかし、その基盤には、常にキリストとの深い個人的な一致がなければなりません。そして、このキリストとの深い個人的な一致を、日々、深め、成長させなければなりません。これこそがピオ十世の教えと司牧活動全体の核心です。主に心を捕らえられることによって初めて、わたしたちは、人々を神へと導き、神のあわれみ深い愛へと開き、そこから、世を神のあわれみへと開くことができるのです。

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