教皇ベネディクト十六世の235回目の一般謁見演説 聖アウグスティヌス

8月25日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の235回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「聖アウグスティヌス」について解説しました。以下 […]


8月25日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の235回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「聖アウグスティヌス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、ソマリアのモガディシュで起きたテロに関して次の呼びかけを行いました。
「わたしの思いはモガディシュに向かいます。モガディシュからは残虐な暴力についてのニュースが届き続けています。またそこでは昨日、新たな大量殺戮が起こりました。わたしは犠牲者のご家族と、ソマリアで憎しみと政情不安のために苦しむすべての人々に寄り添います。国際社会の支援によって、生命と人権の尊重が再構築されるために惜しまず努力がなされることを願います」。
東アフリカのソマリアの首都モガディシュでは8月24日(火)、武装勢力がホテルを襲撃し、国会議員6人を含む少なくとも31人が死亡しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちには皆、生涯の中で、きわめて親しい人がいます。わたしたちはこれらの人々が特別な意味で近くにいると感じます。ある人々はすでに神のみ手の中にあり、ある人々はまだわたしたちと生涯の歩みをともにしています。すなわち、両親、親戚、先生です。わたしたちはこれらの人々をいつくしみ、彼らもわたしたちをいつくしみます。わたしたちはこれらの人々を信頼できます。しかし、わたしたちがキリスト信者としての生涯の道を歩む上で「旅の同伴者」をもつことも大切です。それは、霊的指導者、聴罪司祭、自分の信仰体験を打ち明けられる人々です。おとめマリアと聖人たちもそうです。わたしたちはおのおの親しい聖人をもたなければなりません。それは、祈り、執り成しを求めるときにその聖人が近くにいてくれると感じるためだけではなく、その聖人に倣うためです。それゆえわたしは皆様に願います。聖人たちをもっとよく知ってください。そのために、洗礼名としてもつ聖人から始めて、その伝記と著作を読んでください。そうすれば皆様は、聖人が、主をいっそう愛するためのよい導き手となり、自分が人間としてまたキリスト信者として成長する上での力強い助け手となることを確信されることでしょう。
 ご存じのとおり、わたしも幾人かの聖人と特別な意味で結ばれています。とりわけわたしが結ばれているのは、わたしが名前としてもつ聖ヨセフと聖ベネディクトゥス(480頃-547/560年頃)や、その他の聖人に加えて、聖アウグスティヌス(354-430年)です。わたしは研究と祈りを通じて、この聖人をいわば近くから知る大きな恵みを与えられました。こうして聖アウグスティヌスはわたしの生涯と奉仕職のよい「旅の同伴者」となりました。わたしは、聖アウグスティヌスの人間的・キリスト教的体験のもつ重要な側面をあらためて強調したいと思います。それは現代においても意味をもっています。現代においては、逆説的にも、相対主義が、思想と決断と行動を導くべき「真理」となっているかのように思われるからです。
 聖アウグスティヌスは決して表面的な生き方をしなかった人間です。真理への渇望、休むことのない継続的な真理の探求こそが、聖アウグスティヌスの生涯の基盤をなす性格です。しかし、聖アウグスティヌスが求めたのは「偽りの真理」ではありませんでした。それは心に永遠の安息を与えてくれないからです。むしろ彼は真理そのものを求めました。真理そのものこそが人生に意味を与えてくれるからです。真理そのものこそが、心がそこに安らぎと喜びを見いだす「住まい」だからです。ご承知のとおり、聖アウグスティヌスの歩みは容易なものではありませんでした。彼は、名声や地位、財産の所有、目の前の幸福を約束することばのうちに真理を見いだしたと考えました。彼は誤謬を犯し、悲しみを味わい、失敗を体験しました。しかし、彼は決して立ち止まりませんでした。彼は、かすかな光しか与えてくれないものでは決して満足しませんでした。彼は自分の内面を見つめることができました。そして、『告白』に書いているとおり、次のことを知りました。わたしが力を尽くして探し求めていた真理である神は、自分のもっとも内なるところよりもっと内におられた。神はいつもわたしとともにいて、わたしを見捨てることなく、かえって、決定的なしかたでわたしの生涯の中に入ることができるのを待ち望んでおられたのだと(『告白』:Confessiones III, 6, 11; X, 27, 38参照)。わたしは、最近作られた聖アウグスティヌスの生涯に関する映画についてこう述べました。聖アウグスティヌスは、休むことを知らない探求を通して次のことを悟りました。真理であるかたを見いだしたのはわたしではない。むしろ、神である真理そのものがわたしを追い求め、わたしを見いだしたのだと(L’Osservatore Romano, giovedì 4 settembre 2009, p. 8参照)。ロマーノ・グアルディーニは、『告白』第3章の箇所を解説して、次のようにいいます。聖アウグスティヌスはこう認識した。神は「わたしたちをひざまずかせる栄光であり、渇きをいやす水であり、幸福を与える宝である。(・・・・神は)ついに悟りを得た人を落ち着かせる確信である。と同時に、神は、『これこそがすべてであり、わたしにはこれで十分だ』ということを知る、愛の至福でもある」(Pensatori religiosi, Brescia 2001, p. 177)。
 『告白』第9巻で、聖アウグスティヌスは、母聖モニカ(332頃-387年)との対話について述べます。わたしたちは明後日の金曜日(8月27日)に聖モニカを記念します。それはすばらしい情景です。聖アウグスティヌスとその母はオスティアの宿にいました。窓からは空と海が見えました。二人は空と海を超えて、一瞬、被造物の沈黙のうちに、神のみ心に触れました。そして、そこで、真理であるかたに向かう歩みに関する根本的な思想が現れます。被造物は黙り、沈黙に代わらなければなりません。それは、この沈黙の中で神が語ることができるためです。このことは現代においても永遠に真実です。時として、ある種の沈黙への恐れが存在します。精神を集中させること、自分の行いや、自分の人生の深い意味を考えることへの恐れが存在します。人はしばしば過ぎ去りゆく瞬間を生きることを優先します。そして、それが永続的な幸福をもたらしてくれるかのように錯覚します。人は生きることを優先します。なぜなら、表面的に、何も考えずに生きることのほうが容易に思われるからです。人は真理を探し求めることを恐れます。あるいは、もしかすると人は、聖アウグスティヌスに起きたのと同じように、真理であるかたが自分を見いだし、自分を捕らえ、生涯を造り変えることを恐れます。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様に申し上げたいと思います。信仰の歩みの中で困難な時を体験している人、教会生活にあまり参加していない人、「神が存在しないかのように」生きている人にも申し上げたいと思います。真理であるかたを恐れないでください。真理であるかたに向けて歩むことをやめないでください。心の内なるまなざしをもって、自分とさまざまなことがらに関する深い真理を探し求めることをやめないでください。神はかならず光を与えて、見えるようにしてくださいます。神はかならずわたしたちを温めてくださいます。そして、わたしたちを愛し、わたしたちに愛してもらうことを望むみ心を感じさせてくださいます。
 おとめマリアと、聖アウグスティヌスと聖モニカの執り成しが、わたしたちのこの歩みに同伴してくださいますように。

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