教皇ベネディクト十六世の238回目の一般謁見演説 アッシジの聖クララ

9月15日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の238回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「アッシジの聖クララ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語 […]


9月15日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の238回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「アッシジの聖クララ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、インド、パキスタン、アフガニスタンにおける和解と平和を願って次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「この数日間、南アジアのさまざまな地域、とくにインド、パキスタン、アフガニスタンで起きている出来事を懸念をもって見守っています。わたしは犠牲者のために祈るとともに、信教の自由の尊重と、和解と平和に基づく思考を、憎しみと暴力より優先することを求めます」。
インド・カシミール地方では、イスラーム教の聖典コーラン(クルアーン)が冒瀆される映像が放送されたことをきっかけに発生した暴動により、9月13日、18人の死者が出ました。パキスタン北西部の北ワジリスタン地域では9月14日、米国の無人機によると見られる2件のミサイル爆撃で少なくとも14人が死亡しました。アフガニスタンでは9月18日、下院選挙が実施されます。これは9年前の同時多発テロを受けた米国などによる軍事行動でタリバン政権が崩壊してから2度目の総選挙となります。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 人々からもっとも愛されている聖人の一人がアッシジの聖クララ(Clara 1193/1194-1253年)であることは間違いありません。13世紀に生きた聖クララは、聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/1182-1226年)の同時代人です。聖クララのあかしは、全教会がこの勇気ある信仰豊かな女性に感謝すべきであることを示します。彼女は教会の刷新に決定的な刺激を与えることができたからです。
 それでは、アッシジのクララとはどのような人だったのでしょうか。この問いにこたえるために、わたしたちは確かな源泉資料を手にしています。それは、チェラーノのトマス(Thomas de Celano 1190頃-1260年頃)による伝記を初めとした昔の伝記だけではありません。クララの死後わずか数か月後に教皇が開始した列聖手続きの『記録』もあります。この『記録』は、長期間クララとともに過ごした人々の証言を含んでいます。
 1193年に生まれたクララは、裕福な貴族の家庭の出身でした。クララはへりくだりと清貧のうちに生きるために貴族の地位と富を捨て、アッシジの聖フランチェスコが提示した生き方を自らのものとしました。当時の習慣に従って、家族はクララを立派な人物と結婚させようと計画していました。しかしクララは、キリストに従いたいという深い望みと、フランチェスコへの感嘆の念に促され、大胆にも18歳のときに家族の家を出ました。そして、友人のグエルフッチオのボナに伴われて、ポルティウンクラの小さな聖堂でひそかに小さき兄弟会修道士たちと会いました。それは1211年の枝の主日の晩のことでした。皆が感動する中で、きわめて象徴的なわざが行われました。兄弟たちがたいまつを手にしているとき、フランチェスコはクララの髪を絶ち、クララは悔い改めのための粗末な服をまといました。このときからクララは謙遜で貧しいキリストの花嫁であるおとめとなり、自らを完全にキリストにささげました。クララとその姉妹たちと同じように、歴史を通じて多くの女性たちがキリストへの愛に心を捕らえられてきました。キリストが神のペルソナのすばらしさをもって彼女たちの心を満たしたからです。全教会は、奉献されたおとめの神秘的婚姻への召命を通じて、自らが世々にいかなるものであるかを示しました。教会は美しく清らかなキリストの花嫁なのです。
 ボヘミア王の娘で、クララに従おうと望んだ、プラハのアグネス(Agnes 589年頃没)に宛てて書いた4通の手紙の一つの中で、クララは婚姻ということばを用いて花婿であるキリストについて語ります。このことばは驚くべきものであると同時に、感動的です。「主をお愛しになるとき、あなたは清らかです。主にお接しになるときに、あなたはもっと清らかになります。主をお受けになるとき、あなたは童貞女となられます。主の力はひときわ強く、寛容はさらに秀で、そのみ顔はたいそう美しく、御愛はいっそう優しく、すべてのご好意はあまりにも優美です。今こそ、あなたは主にしっかりと抱擁されておいでになります。主は、あなたの胸を宝石で飾られ、・・・・聖徳のしるしとして黄金の冠をあなたにお授けになりました」(『第一の手紙』:FF, 2862〔エンゲルベルト・グラウ『アシジの聖クララ――伝記と文献』宮沢みどり訳、八王子・聖クララ修道院、1987年、117頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 何よりもクララは、その修道生活の初めから、アッシジのフランチェスコを、教えに従う師とするだけでなく、友である兄弟としました。この二人の聖人の間の友愛は、きわめてすばらしく、かつ重要な点です。実際、同じ神への愛に燃える、この二つの清らかな魂が出会うとき、二人は互いの友愛から、完徳の道を歩むための強い刺激を与えられました。友愛はもっとも高貴で気高い人間的感情の一つです。神の恵みがこの感情を清め、造り変えます。聖フランチェスコと聖クララと同じように、他の聖人たちも、キリスト教的完徳への歩みにおいて深い友愛を経験しました。たとえば、聖フランソア・ド・サル(François de Sales 1567-1622年)と聖ジャンヌ・フランソアーズ・ド・シャンタル(Jeanne-Françoise de Chantal 1572-1641年)です。だからこそ聖フランソア・ド・サルはこう述べるのです。「ああ、天において相いつくしむがごとく、地において相愛することのよろしきかな。永遠無窮に来世にてなさんがごとく、現世において相親しむを学ぶことのよろしきかな。わたしがここに語ろうとするのは、単純な愛徳のことではない。なぜとならば、愛徳は、万人に対するわれの義務であるからである。わたしのいわんと欲するところは、二三人、あるいは、それ以上の人々が、彼らの信心、あるいは、霊的希望において、肝胆相照らして異体同心となる、その霊的友情についてである」(『信心生活の入門』:Introduction à la vie dévote III, 19〔戸塚文卿訳、日本カトリック刊行會、1928年、212頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 クララは、他の修道共同体で数か月暮らし、彼女の決断を初めは認めなかった家族の圧力に抵抗した後、サン・ダミアーノ聖堂に最初の同志の姉妹たちとともに定住しました。小さき兄弟会はこのサン・ダミアーノ聖堂に彼女たちのための小さな修道院を作ったのです。クララはこの修道院で、1253年に亡くなるまで40年以上の間過ごしました。フランシスコ会運動の初期の時代、この女性たちがどのように暮らしていたかに関して、当時の人による記録が伝わっています。それはイタリアを訪れたフランドルの司教ヴィトリのヤコブス(Jacobus 1160/1170-1240年)の感嘆に満ちた記録です。ヤコブスはいいます。わたしはあらゆる種類の社会的階層から成る、多くの男性と女性に会った。「彼らはキリストのためにすべてのものを捨て、世を逃れた人々である。彼らは『小さき兄弟たち』また『小さき姉妹たち』と呼ばれ、教皇と枢機卿から深く敬意を払われている。・・・・女性たちは・・・・町からそれほど遠くないさまざまな住居に共住している。彼女たちは何ものも受け取らず、自分の手による労働で生活する。また彼女たちは、自分たちが望む以上に聖職者や信徒からほめそやされると、深く悲しみ、狼狽する」(「1216年10月の書簡」:FF, 2205; 2207)。
 ヴィトリのヤコブスは、クララが深く留意した、フランシスコ会霊性の特徴をはっきりと理解していました。すなわち、神の摂理に対する完全な信頼と結ばれた、徹底した清貧です。そのため、クララはいわゆる「清貧の特権(Privilegium Paupertatis)」(FF, 3279参照)を得るために、決然と行動しました。クララはこれを教皇グレゴリウス9世(Gregorius IX 在位1227-1241年)から、あるいはおそらくすでに教皇インノケンティウス3世(Innocentius III 在位1198-1216年)から得ていました。この特権に基づき、サン・ダミアーノのクララとその姉妹たちはいかなる物質的財産を所有することもできませんでした。これは当時の教会法にとって真の意味で特別な例外といえますが、当時の教会権威者はそれを彼女たちに認めました。彼らがクララとその姉妹たちの生き方のうちに福音的聖性の実りを認め、それを評価したからです。これは次のことも示します。中世、女性の果たす役割は決して副次的なものではなく、むしろ非常に大きいものでした。このことに関連して、次のことを思い起こすのは適切です。クララは、教会史の中で、教皇の認可を求める文書化された修道規則を書いた最初の女性でした。こうしてアッシジのフランチェスコのカリスマは、クララの時代にすでに多数設立され、フランチェスコとクララの模範から霊感を受けることを望んだすべての女性の共同体の中で保たれることになったのです。
 クララはサン・ダミアーノ修道院の中で、すべてのキリスト信者のしるしとなるべきさまざまな美徳を断固として実践しました。すなわち、謙遜と、敬虔と悔い改めの精神、そして愛徳です。長上となっても、クララは自ら病気の姉妹の世話をすることを望み、もっとも卑しい仕事も行いました。実際、愛徳はあらゆる抵抗に打ち勝ちます。愛する者はあらゆる犠牲を喜びをもって果たします。聖体の現実的現存に対するクララの信仰はまことに大きなものでした。そのため、驚くべき出来事が二度起こりました。至聖なる聖体の秘跡を顕示することだけによって、彼女はサラセン人の傭兵を去らせました。この兵士たちはサン・ダミアーノ修道院を襲撃し、アッシジの町を荒らそうとしていたのです。
 他の奇跡とともに記憶にとどめられたこの出来事に促されて、教皇アレクサンデル4世(Alexander IV 在位1254-1261年)はクララが亡くなってからわずか2年後の1255年に彼女を列聖しました。教皇は列聖の勅書の中でクララをたたえてこう述べます。「この光の強さはなんと烈しく、この光の輝きは、なんと強烈なのだろう。確かにこの光は、たとえ修道院に隠れひそんでいたとしても、明るさそのもので、外に対しては、またたく光を放っていた。それは狭い修院の中で集積され、それから広い世界に注がれた。内にかくまわれていたにもかかわらず、外に向かって溢れ出た。実にクララは隠れてはいたが、その生活は現れた。クララは黙っていたが、その名声は高く上がる」(FF, 3284〔前掲『アシジの聖クララ――伝記と文献』135-136頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。親愛なる友人の皆様。まさにそのとおりです。世をよいほうに造り変えるのは、聖人です。聖人は世を永続的なしかたで造り変え、福音に促された愛だけが呼び起こすことのできる力を世に注ぎ入れます。聖人は人類の偉大な恩人です。
 聖クララの霊性、すなわち彼女の目指した聖性の要約は、プラハのアグネスに宛てた第四の手紙にまとめられています。聖クララは、教父に由来し、中世に広く普及した、鏡のたとえを用いました。聖クララはプラハの友人に、あらゆる完徳の鏡である主ご自身のうちに自らを映し出すようにと招きます。聖クララは述べます。「心の限りその小羊(キリスト)につき従うために、その聖なる生命(いのち)の分け前にあずかる人は本当に幸せです。この小羊の美しさを、幸いな天使の群れは絶え間なく感嘆します。小羊の愛情は愛を駆り立て、その観想は生気をもたらし、ご好意は満足を与え、甘美は新たに魅了し、その思い出は快く晴れやかにし、その香りは死者をよみがえらせ、その栄えあるお姿は天のエルサレムの全住民を幸せにするでしょう。この小羊は、『永遠の栄光の輝き、尽きない光のきらめき、また、曇りない鏡』なのですから。この鏡の中を日ごとにお眺めなさい。ああ、王妃、イエス・キリストの浄配よ。あなたはまた、この鏡の中で、ご自分のお顔をじっくりご覧なさい。そこに見えるあなたは、内も外もたいそう着飾っておられます。・・・・この鏡の中には、幸いな貧しさ、聖なる謙遜、そして言い尽くせない愛が映し出されています」(『第四の手紙』:FF, 2901-2903〔前掲『アシジの聖クララ――伝記と文献』125頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 聖人たちを与えてくださった神に感謝したいと思います。聖人はわたしたちの心に語りかけ、学ぶべきキリスト教的生活の模範を示してくれるからです。聖クララが姉妹たちのために書いた祝福のことばで終わりたいと思います。祈りと労働をもって教会の中で貴重な役割を果たしているクララ会会員は、今もこのことばを深い信心をこめて守っています。このことばから、聖クララの優しい母としての霊的気遣いが余すところなくほとばしり出ます。「わたしは、あわれみの御父が、その息子と娘らに、この世と天国とのためにお与えになった祝福で、わたしのできる限り、さらにわたしの力以上に、この世にある間も、わたしの死後も、あなたを祝福します。また、霊的父あるいは霊的母が息子や娘らに与えることのできるすべての祝福で、あなたを祝福します。アーメン」(FF, 2856〔前掲『アシジの聖クララ――伝記と文献』130頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。

略号
FF Fonti Francescane

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