教皇ベネディクト十六世の240回目の一般謁見演説 ハッケボルンの聖メヒティルト

9月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の240回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、ハッケボルンの聖メヒティルトについて解説しました。以下はその全訳です(原文イタ […]


9月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の240回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、ハッケボルンの聖メヒティルトについて解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

講話の後、英語を話す巡礼者に対するあいさつの終わりに、教皇はナイジェリア北部の深刻な人道的危機に関して英語で次の呼びかけを行いました。
「わたしの思いは最近ナイジェリア北部を襲った深刻な人道的危機にも向かいます。そこでは激しい洪水のために約200万人の人々が自分の家を離れることを強いられています。被害に遭われたすべてのかたがたに霊的に寄り添うとともに、祈りをささげることを約束します」。
報道によれば、ナイジェリア北部ジガワ州の報道官は9月24日(金)、豪雨で増水した二つのダムが放水したため大規模な洪水が起き、約200万人が家を追われたと述べました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日はハッケボルンの聖メヒティルト(Mechthild von Hackeborn; Mechtildis de Hackeborn 1241/1242-1298/1299年)についてお話ししたいと思います。ハッケボルンの聖メヒティルトは13世紀に生きたヘルフタ(Helfta)の修道女です。霊的姉妹である大聖ゲルトルート(Gertrud von Helfta; Gertrud die Große; Gertrudis de Helfta 1256-1301/1302年)は、メヒティルトの著作『特別な恩寵の書』(Liber specialis gratiae)――この本の中では、神が聖メヒティルトに与えた特別な恵みが語られます――第6巻の中で、こう述べます。「わたしたちが書いたことは、わたしたちが書かなかったことに比べるとほんのわずかにすぎない。わたしたちは、ただ神の栄光と隣人の利益のためにこれらのことを公にしたのである。なぜなら、わたしたちの考えでは、メヒティルトが神から与えられた多くの恵みについて沈黙を守ることは、メヒティルト自身にとってだけでなく、わたしたちとわたしたちの後の世代の人々にとっても不正だと思われるからです」(ハッケボルンのメヒティルト『特別な恩寵の書』:Liber specialis gratiae VI, 1)。
 『特別な恩寵の書』は聖ゲルトルートとヘルフタの他の霊的姉妹によって書かれた、一人の人の生涯です。メヒティルトは50歳のとき深刻な霊的危機を経験しました。この霊的危機は肉体的な苦しみも伴いました。このような状況の中で、メヒティルトは二人の修友に、幼いときから神が自分を導くために与えてくださった特別な恵みを打ち明けました。しかし、彼女は修友がそれらをすべて書きとめたことは知りませんでした。このことを知ったとき、メヒティルトは深く悩み、困惑しました。しかし主は彼女を慰め、こう理解させてくださいました。書かれたことは神の栄光と隣人の利益のためであると(同:ibid. II, 25; V, 20参照)。こうして本書は聖メヒティルトの生涯と霊性を知るための主要な源泉資料となりました。
 わたしたちはメヒティルトとともにハッケボルンの男爵の家庭へと導かれます。ハッケボルン男爵家はテューリンゲンでもっとも高貴、富裕かつ勢力のある家でした。ハッケボルン家は皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II 1194-1250年、神聖ローマ皇帝在位1212-没年)と縁戚関係がありました。またわたしたちは、全盛期のヘルフタ修道院へと導き入れられます。ハッケボルン男爵はすでに娘のハッケボルンのゲルトルート(Gertrud von Hackeborn 1231/1232-1291/1292年)を修道院に入れていました。ハッケボルンのゲルトルートは際立った才能の持ち主で、40年間修道院長を務め、修道院の霊性に特別な刻印を与えることができました。そして、神秘主義と文化の中心、学問と神学の学びやとして、修道院を特別な全盛期へと導きました。ゲルトルートは修道女たちに高度な知的教育を施しました。この教育によって、修道女たちは、聖書と典礼と教父の伝統、またシトー会の修道規則と霊性に基づいて霊性を深めることができました。彼女たちがとくに愛好したのはクレルヴォーの聖ベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1090-1153年)とサン=ティエリのギヨーム(Guillaume de Saint-Thierry; Willelmus Sancti Theodorici 1085頃-1148年)でした。ゲルトルートは、福音を徹底的に生きることにおいても、使徒的熱意においても、すべてにおいて模範的なまことの教師でした。メヒティルトは若年のときからこの姉の作り出した霊的・文化的雰囲気を受け入れ、喜びとしながら、後にこの雰囲気に自分の個人的な刻印を与えたのです。
 メヒティルトは1241年ないし1242年にヘルフタ城で生まれました。彼女はハッケボルン男爵家の三女でした。7歳のとき、母親とともにローダースドルフ(Rodarsdorf)修道院に姉のゲルトルートを訪ねました。メヒティルトは修道院の環境に心を奪われ、修道院に入ることを熱心に望むようになりました。メヒティルトは生徒として修道院に入り、1258年にローダースドルフ修道院に入会しました。間もなく修道院は、ハッケボルン家が領有するヘルフタに移されました。メヒティルトは謙遜、熱意、優しさ、清さ、無垢な生活によって際立っており、神とおとめマリアと聖人とのかかわりを親密にかつ深く生きました。彼女は本性的また霊的な高い資質を備えていました。すなわち、「学問、知性、人文的書物に関する知識、すばらしく優しい声。これらすべてのものによって、彼女はあらゆる点で修道院のまことの宝というにふさわしい者となったのである」(同:ibid., prooemium)。こうして「神の小夜鳴鳥(ナイチンゲール)」――これが彼女の呼び名でした――は、まだきわめて若かったにもかかわらず、修道院学校長、聖歌隊指揮者、修練長となりました。これらの職務を彼女は才能とうむことのない熱意をもって果たしました。それは修道女たちのためだけでなく、彼女の知恵といつくしみに触れたいと望むすべての人に役立つためでした。
 メヒティルトは、神から与えられた神秘的観想の賜物に照らされて、多くの祈りを書きました。彼女は信仰の教えと深い謙遜を教え、助言し、慰め、識別を指導しました。次のように書かれています。「彼女はこれまで修道院で目にしたことのないほどの豊かな教えを与えた。そして、何ということか。わたしたちはこれに並ぶものを二度と目にしないのではないかと恐れる。修道女たちは神のことばを聞くために、説教者である彼女の周りに集まった。彼女はすべての人の逃れ場であり、慰め手だった。彼女はまた、神の特別な恵みとして、すべての人の心の秘密を思いのままに明らかにする恵みを与えられていた。多くの人が、それも修道院内の人だけでなく、遠くから来た旅人や修道者や信徒も、こうあかししている。この聖なるおとめは自分たちを苦しみから解放してくれた。彼女のもとで得たほど多くの慰めを得たことはないと。さらに彼女はきわめて多くの祈りを書き、また教えた。それらをすべて集めるなら、一巻の詩編集を超える分量となるであろう」(同:ibid. VI, 1)。
 1261年、ゲルトルートという名の5歳の少女が修道院にやって来ました。彼女は当時まだ20歳のメヒティルトのもとに預けられました。メヒティルトはゲルトルートの霊的生活を教え、導きました。やがてゲルトルートはメヒティルトの優れた弟子だけでなく、その相談相手ともなりました。1271年ないし1272年に、マクデブルクのメヒティルト(Mechthild von Magdeburg: Mechtildis Magdeburgensis 1207頃-1282年頃)もヘルフタ修道院に入りました。こうしてヘルフタは、ドイツ修道制の栄光である4人の偉大な女性――二人のゲルトルートと二人のメヒティルト――を迎え入れたのです。(ハッケボルンの)メヒティルトは修道院で過ごした長い生涯の中で、絶えず激しい苦しみを体験しました。これに加えて、彼女は罪人の回心のために厳しい償いのわざを行いました。このようなしかたで彼女は生涯の終わりまで主の受難にあずかったのです(同:ibid. VI, 2参照)。祈りと観想が彼女の生活を養う生きた「土壌」でした。彼女の行ったさまざまな啓示、教え、隣人への奉仕、信仰と愛の歩みを生み出す根源また場はここにありました。『特別な恩寵の書』第1巻の中で、著者はメヒティルトが主の祝日、聖人の祝日、そしてとくに聖なるおとめマリアの祝日に語ったことばを書きとめています。印象的なのは、この聖女が、典礼のさまざまな構成要素を生き、日常生活に生かすことができたことです。それはもっとも単純なものも含みます。一部のたとえ、表現、行動は、場合によってわたしたちの感覚からかけ離れているかもしれません。しかし、修道生活と、教師また聖歌隊指揮者としての彼女の職務を考えるなら、教育者、養成者としての彼女の特別な能力に気づかされます。この力によって、修道女たちは、典礼から出発して、修道生活のあらゆるときを深く過ごす助けを得ることができたのです。
 メヒティルトは典礼の祈りの中で、聖務日課、ミサ、そして何よりも聖体拝領をとくに重視しました。聖体拝領のとき、メヒティルトはしばしば脱魂状態となり、主のいとも甘美な愛熱のみ心と深く交わり、驚くべき対話を行いました。この対話の中で彼女は内的に照らされることを願いながら、自分の共同体と霊的姉妹のために特別な執り成しの祈りをささげました。メヒティルトが中心に置くのはキリストの神秘です。おとめマリアは聖性の道を歩むためにいつもこの神秘にとどまり続けたからです。「まことの聖性を望むなら、わが子のそばにとどまりなさい。彼こそはすべてのものを聖なるものとする、聖性そのものだからです」(同:ibid. I, 40)。メヒティルトの神との親しい交わりの中には、教会も、善行を行う人も、罪人も含めた全世界が存在しました。メヒティルトにとって、天と地は一つに結ばれるのです。
 メヒティルトの幻視、教え、生涯の出来事は、典礼や聖書で用いられることばを想起させる表現で語られます。そこからメヒティルトが聖書を深く知っていたことが分かります。聖書はメヒティルトの日ごとの糧でした。メヒティルトは絶えず聖書に向かいました。典礼で読まれる聖書を味わい、また聖書の象徴、用語、光景、たとえ、人物から着想を得ました。メヒティルトがとくに好んだのは福音書です。「福音書のことばは彼女にとってすばらしい糧であり、彼女の心にきわめて甘美な思いを抱かせた。すると興奮のあまり彼女は読み終えることができなくなった。・・・・彼女がこれらのことばを読むしかたは本当に熱意をこめたものであったので、すべての人の中に敬虔な思いが掻き立てられた。同じように、歌隊席で歌っていると、彼女は完全に神に没入し、熱情に動かされた。そのため、ときとして彼女は自分の思いを身振りで表した。・・・・また別のときに、脱魂状態になった彼女は、自分に呼びかけたり、自分を揺り動かす人のことばが聞こえなくなり、外的事物に関する感覚を取り戻すのがひどく困難であった」(同:ibid. VI, 1)。メヒティルトの見たある幻視の中では、イエスご自身が彼女に福音を勧めました。イエスはご自分のいとも甘美なみ心の傷を彼女に開いていわれました。「わたしの愛がどれほど大きいかを考えなさい。あなたがそのことをよく知ろうとするなら、福音ほどそれをはっきり表すところは見いだせません。『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた』(ヨハネ15・9)。福音以上に強くまた優しくこの思いを表したものはありません」(同:ibid. I, 22)。
 親愛なる友人の皆様。個人の祈りと典礼の祈り、とくに時課の祈りとミサは、ハッケボルンの聖メヒティルトの霊的生活の根源でした。聖書に導かれ、聖体のパンに養われて、メヒティルトは、常に教会に忠実に従いながら、主との深い一致の道を歩みました。このことはわたしたちをも、主との友愛を深めるように招きます。何よりも日々の祈りと、注意深く、忠実に、積極的にミサにあずかることによって。典礼は霊性の偉大な学びやです。
 弟子のゲルトルートは、ハッケボルンの聖メヒティルトの生涯の最期のときについて強い表現で語ります。聖メヒティルトの最期は、たいへん辛いものでしたが、至聖なる三位一体と、主と、おとめマリアとすべての聖人、そして肉親の姉ゲルトルートがそばにいて照らしてくれました。主が彼女をご自分のもとに迎え入れるときが来ると、メヒティルトは主に願いました。人々の霊魂の救いのためにもう少し苦しみのうちに生きることをおゆるしくださいと。するとイエスはこのさらなる愛のしるしを喜ばれました。
 メヒティルトは亨年58歳でした。彼女が歩んだ最期の日々は、8年間の重い病で特徴づけられるものでした。メヒティルトの著作と聖性のほまれは広く伝わりました。自分のときが来たとき、「御稜威(みいつ)の神・・・・ご自分を愛する魂にとって唯一の甘美なかたは・・・・彼女に歌われた。『わたしの父に祝福された者よ、来なさい。・・・・来なさい、ああ、わたしの父に祝福された者よ。来て、国を受けなさい』。・・・・そして神は彼女をご自分の栄光にあずからせた」(同:ibid. VI, 8)。
 ハッケボルンの聖メヒティルトはわたしたちをイエスとおとめマリアのみ心にゆだねます。メヒティルトはわたしたちを招きます。聖母のみ心をもって御子を賛美しなさい。御子のみ心をもってマリアを賛美しなさいと。「ああ、至聖なるおとめよ。御身にごあいさつ申し上げます。もっとも甘美な露が、至聖なる三位一体のみ心からあなたに注がれたことのゆえに。あなたが今永遠に楽しんでおられる栄光と喜びのゆえに、御身にごあいさつ申し上げます。あなたは天と地のあらゆる造られたものよりも愛され、世が造られる前から選ばれたかた。アーメン」(同:ibid. I, 45)。

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