教皇ベネディクト十六世の242回目の一般謁見演説 福者フォリーニョのアンジェラ

10月13日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の242回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第6回として、福者フォリーニョのアンジェラについて解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は福者フォリーニョのアンジェラ(Angela da Foligno; Angela de Fulginio 1248頃-1309年)についてお話ししたいと思います。フォリーニョのアンジェラは13世紀に生きた偉大な中世の神秘家です。通常、人はフォリーニョのアンジェラが達した神との一致の体験の頂点に心を奪われますが、彼女の歩みの第一歩である回心と、出発点から三位一体との完全な一致という目的へと彼女を導いた長い歩みにはおそらくほとんど関心を向けません。彼女の出発点とは「地獄への大いなる恐れ」でした。アンジェラの生涯の最初の部分が、主の熱心な弟子としての生活でなかったことは確かです。1248年頃、裕福な家庭に生まれたアンジェラは、父を失い、あまり深みのない教育を母親から受けました。やがて彼女はフォリーニョの町の世俗的な環境へと導き入れられました。彼女はこの町で一人の男性と出会い、この男性と20年間結婚生活を送り、複数の息子を儲けました。彼女は何も考えずに生活し、いわゆる「悔悛者」たちを軽蔑するほどでした。当時広まっていたこの「悔悛者」は、キリストに従うために自分の財産を売り払い、祈りと断食と教会への奉仕と愛のわざを生きる人々でした。
 いくつかの出来事がアンジェラの生涯に影響を与えました。たとえば、1279年の激しい地震、暴風雨、長年にわたるペルージャとの戦争とその悲惨な結果です。こうしてアンジェラは少しずつ自分の罪に気づき、やがて決定的な段階に至ります。アンジェラは幻視の中で現れた聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/1182-1226年)に、よい総告解をするために助言を与えてくれるよう祈り求めます。1285年、アンジェラはサン・フェリチアーノの修道士のところに行き、告白を行いました。3年後、彼女の回心の道は新たな一歩を踏み出します。彼女は肉親のきずなを解かれました。なぜなら、数か月のうちに、母親と、夫、そして息子の全員が亡くなったからです。すると彼女は財産を売り、1291年にフランシスコ会第三会に入りました。アンジェラは1309年1月4日に亡くなります。
 福者アンジェラに関する文書を集めた『福者フォリーニョのアンジェラの書』(Il Libro della beata Angela da Foligno)は、この回心について物語ります。同書は必要な手段を示します。すなわち、悔い改め、へりくだり、そして苦しみです。同書は、アンジェラが相次いで体験したことを1285年から始めて段階を追って語ります。これらの体験を行った後、アンジェラはそれを振り返ることにより、聴罪司祭の修道士を通してこの体験を語ろうとします。修道士はそれを忠実に筆記し、後にこれをいくつかの段階――彼はこれを「階梯ないし変化」と呼びます――にまとめますが、完全に秩序づけることはできませんでした(『福者フォリーニョのアンジェラの書』:Il Libro della beata Angela da Foligno, Cinisello Balsamo 1990, p. 51参照)。その理由は、福者アンジェラにとって一致の体験は霊的・肉体的感覚の全体を巻き込むもので、彼女が脱魂の間「理解」したことについて、いわばその「影」しか精神の中に残らなかったためです。アンジェラは神秘的脱魂の後に告白します。「わたしは本当にこのことばを聞いた。しかし、わたしが見たこと、理解したこと、かのかた(すなわち主)がわたしに示されたことを、決して知ることはできず、また、たとえ理解したことをことばで表そうとしても、それを語ることができない。むしろそれは完全に言い表しえない深淵なのだ」。フォリーニョのアンジェラは自分の神秘的「体験」を、頭で考えて示したのではありません。なぜなら、この体験は、不意に予期せぬ形で彼女の魂に伝えられた、神の照らしだったからです。聴罪司祭の修道士もこうした出来事を報告するのに困難を覚えました。「それは神のたまものに関する彼女の深く驚嘆すべき慎み深さのゆえでもあった」(同:ibid., p. 194)。アンジェラが自分の神秘体験を表現するのが困難だっただけでなく、それを聞く者にとっても彼女のことばを理解するのは困難でした。この状況は、唯一まことの師であるイエスが、すべての信者の心の中に生きておられ、この心を完全に所有したいと望んでおられることを示します。だからアンジェラは霊的な子に向けてこう述べたのです。「わが子よ。あなたがわたしの心を見たなら、神が望まれることをすべて完全に行わずにいられないでしょう。なぜなら、わたしの心は神のみ心であり、神のみ心はわたしの心だからです」。ここには聖パウロの次のことばがこだましています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。
 さて、わたしたちは福者アンジェラの豊かな霊的歩みの「階梯」のいくつかに限って考察したいと思います。実際のところ、第一の階梯は前提です。アンジェラがはっきりと述べるとおり、「それは罪の自覚であった。この後、魂は断罪されることに深い恐れを抱いた。この階梯において、彼女は激しく泣いた」(『福者フォリーニョのアンジェラの書』:Il Libro della beata Angela da Foligno, p. 39)。この地獄への「恐れ」は、アンジェラが回心の際にもっていたある種の信仰に対応します。この信仰はまだ、愛、すなわち神への愛において貧しい信仰でした。悔悛、地獄への恐れ、悔い改めが、アンジェラに悲しみに満ちた「十字架の道行」への展望を開きます。第8留から第15留への「十字架の道行」は、やがてアンジェラを「愛の道」へと導くことになります。聴罪司祭の修道士は語ります。「この信仰深い者はそのときわたしにこう語った。わたしに神の啓示が与えられました。『あなたが書いたことの後に、こう書きなさい。恵みを保ちたいと望む者は、魂の目を十字架からそらしてはならない。わたしがその者にどのような喜びや悲しみを与え、許すときも』」(同:ibid., p. 143)。けれども、この段階においてアンジェラはまだ「愛を感じていなかった」のです。アンジェラはいいます。「魂は羞恥と苦さを味わったが、まだ愛ではなく苦しみを体験しており」(同:ibid., p. 39)、満たされませんでした。
 アンジェラは自分の罪を償うために神に何かをささげなければならないと感じました。しかし彼女は、自分には神にささげるものが何もないこと、そればかりか自分が神のみ前で「無にすぎないこと」をゆっくりと悟っていきました。彼女は理解しました。自分に神の愛を与えるのは、自分の望みによるのではない。なぜなら、自分の望みは、自分が「無」であること、「愛がないこと」しか与えられないからです。アンジェラが次のようにいうとおりです。「神に由来するまことの清い愛だけが魂のうちにあって、自分の欠如と神のいつくしみを認識させてくれる。・・・・この愛が魂をキリストへと導く。そして魂はいかなる偽りを認めることも、いうこともできないことを確かに悟る。この世の中で愛と混ぜ合わすことのできるものは何もない」(同:ibid., pp. 124-125)。神の愛にのみ、完全に自分の心を開くこと。そして神の愛の最高の表現はキリストです。アンジェラは祈ります。「ああ、わたしの神よ。わたしを最高の神秘を知るにふさわしい者としてください。最高の神秘とは、あなたの深く言い表しえない愛と、三位一体の愛です。すなわち、わたしたちのために行われたあなたの至聖なる受肉の最高の神秘です。・・・・ああ、はかり知れない愛よ。この愛によって、わたしの神は人となられました。わたしを神とするために。これよりも大いなる愛はありません」(同:ibid., p. 295)。しかし、アンジェラの心には常に罪による傷が残ります。告白を行った後も、アンジェラは自分がゆるされながらも罪に打ちひしがれているのを見いだします。過去の行いから解放されながらも、そのもとに服し、罪をゆるされながらも、悔い改めを必要としていると感じます。地獄への思いも彼女から離れません。なぜなら、キリスト教的完徳の道を進めば進むほど、魂はいっそう自分が「ふさわしくない」ばかりか、地獄に行くに値すると確信するようになるからです。
 まことにアンジェラは自らの神秘的な歩みの中で、中心的なことを深く悟っていました。「ふさわしくなく」、「地獄に値する」ことからアンジェラを救い出すのは、「神との一致」でも、「真理」を所有することでもありません。むしろそれは、十字架につけられたイエスです。このかたが「わたしのために十字架につけられたこと」です。このかたの愛です。第8の階梯で、アンジェラはいいます。「けれども、わたしはまだ、わたしが罪と地獄から解放され、回心し、悔い改めたことと、わたしのためにイエスが十字架につけられたことのいずれが大きな善か、分からずにいました」(同:ibid., p. 41)。アンジェラは、完徳に向かう困難な歩み全体を通して、愛と苦しみの均衡の不安定さを感じ続けました。まさにそれゆえにアンジェラは好んで、十字架につけられたキリストを観想しました。なぜなら、十字架につけられたキリストを見ることのうちに、彼女は完全な均衡の実現を見いだしたからです。十字架上におられるのは、最高の苦しみのわざ、すなわち最高の愛のわざを行われた、人であり、神であるかただからです。第三の「教え」の中で、福者アンジェラはこの観想を強調していいます。「より完全に、より純粋に見れば見るほど、わたしたちはより完全に、より純粋に愛するようになる。・・・・神にして人であるイエス・キリストを見る度合いに応じて、わたしたちは愛によってイエス・キリストのうちで変容をこうむる。・・・・見れば見るほど魂は愛するようになるとすでに述べたが、同じことが苦しみについてもいえる。神にして人であるイエス・キリストのことばに尽くせぬ苦しみを見れば見るほど、魂はよりいっそう苦しみ、イエス・キリストにおいてさらなる変容をこうむる」(同:ibid., pp. 190-191〔冨原眞弓訳、『幻視と教えの書』、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成15 女性の神秘家』平凡社、2002年、599頁〕)。それは、十字架につけられたキリストの愛と苦しみに浸され、それによって造り変えられること、このかたと同じものになることです。1285年の告白から始まったアンジェラの回心は、神のゆるしが、愛の源である御父の愛の無償のたまものとして、彼女の魂に現されたとき、初めて成熟したものとなりました。アンジェラはいいます。「だれも弁解することはできない。なぜなら、すべての人は神を愛することができるからだ。そして神は、ご自身が魂にとってよいと望まれる以外のことを魂にお求めにならないからだ。神は魂を愛するかたであり、愛そのものであるからだ」(同:ibid., p. 76)。
 アンジェラの霊的な道程の中で、回心から神秘体験への、言い表しうることから言い表しえないことへの移行は、十字架につけられたキリストを通して行われます。十字架につけられたキリストは、「苦しむ神であり人であるかた」であり、彼女の「完徳の師」となりました。それゆえ、アンジェラの神秘体験全体は、十字架につけられたキリストと完全に「似たものとなる」ことを目指します。それは、ますます深く徹底的な清めと変容を通して行われます。アンジェラはこの驚くべき取り組みに、霊魂も肉体も含め自分のすべてをささげました。彼女は初めから終わりまで、悔い改めと苦しみにおいて決して妥協することがありませんでした。十字架につけられた神であり人であるかたが受けた苦しみをすべて受けて死ぬことを望みました。完全にこのかたへと造り変えられるためです。アンジェラは勧めていいます。「ああ神の子らよ。受難を受けた神であり人であるかたに完全に造り変えられなさい。このかたはこれほどあなたがたを愛して、あなたがたのために、もっとも惨めで言い表しえないほど苦難に満ちた死を、それももっとも辛く厳しいしかたで受けたのである。ああ人よ。これはただあなたへの愛のみのゆえになされたのだ」(同:ibid., p. 247)。イエスと同じものとなるとは、イエスが生きたように生きることをも意味します。すなわち、貧しくなり、さげすまれ、苦しむことです。なぜなら、アンジェラがいうとおり、「魂は、この世の貧しさを通して永遠の富を見いだし、さげすみと辱めを通して最高の栄誉と最大の栄光を得、苦しみと悲しみによるわずかな悔い改めを通して、最高の善、永遠の神という限りない甘美と慰めをもつようになるからである」(同:ibid., p. 293)。
 回心から十字架につけられたキリストとの言い表しえない神秘的一致へ。この最高の道の秘訣は、絶えざる祈りです。アンジェラはいいます。「祈れば祈るほど、よりいっそう照らされるだろう。照らされれば照らされるほど、至高の善なるかたと至高の善とをよりいっそう深く気高く見るだろう。深く気高く見れば見るほど、よりいっそう愛するようになるだろう。愛すれば愛するほど、よりいっそう歓びを感じるだろう。歓びを感じれば感じるほど、よりいっそう理解が深まり、さらに理解する能力が高まるだろう。こうして充溢する光へと導かれ、ついには理解が不可能なのだということを理解するに至るだろう」(同:ibid., p. 184〔前掲冨原眞弓訳、593頁〕)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。福者フォリーニョのアンジェラの生涯は、神からかけ離れた、この世的な生活から始まりました。しかし、やがて聖フランチェスコとの出会いと、ついには十字架につけられたキリストとの出会いが彼女の魂を目覚めさせました。神が現存されることに。神とともにいるときに初めて人生は真の人生になるということに。なぜなら、人生は、罪を悲しむことによって、愛と喜びとなるからです。このように福者アンジェラはわたしたちに語りかけます。わたしたち現代人は皆、神が存在しないかのように生きる恐れがあります。神は日常生活から遠く離れているように思われます。しかし、神は何千もの道を通して、それぞれの人の魂の中でご自身を現し、ご自分が存在すること、わたしを知っておられること、わたしを愛しておられることを示されます。福者アンジェラも、わたしたちが、主がわたしたちの魂に触れるためのしるしに気づくように望みます。神の現存に気づくように望みます。それは、そこから、十字架につけられたキリストとの交わりのうちに、神と歩む道、神へと歩む道を学ぶためです。主に祈りたいと思います。あなたがともにおられることを示すしるしに気づかせてください。真の意味で生きることをわたしたちに教えてください。ご清聴有難うございます。

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