教皇ベネディクト十六世の243回目の一般謁見演説 ハンガリーの聖エリーザベト

10月20日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の243回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第7回として、ハンガリーの聖エリーザベトについて解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は深い感嘆の念を抱かせてくれる中世の一人の女性についてお話ししたいと思います。すなわち、チューリンゲンのエリーザベトとも呼ばれる、ハンガリーの聖エリーザベト(Elisabeth 1207-1231年)です。
 エリーザベトは1207年に生まれました。生地について歴史家の意見は分かれています。父親は富裕で権力のある王アンドレアス2世(Andreas II 在位1205-1235年)です。アンドレアス2世は政治的なきずなを強化するために、ドイツのアンデクス・メラニア伯家のゲルトルート(Gertrud 1185-1213年)と結婚しました。ゲルトルートは、シレジア大公の妻となった聖ヤドヴィガ(Jadwiga; Hedwig 1179頃-1243年)の妹です。エリーザベトは幼年期の最初の4年だけをハンガリーの宮廷で、一人の妹と3人の兄弟とともに過ごしました。エリーザベトは遊び、音楽、ダンスを好みました。祈りを忠実に唱え、貧しい人への特別な関心をすでに幼いときから示しました。彼女は貧しい人を優しいことばや愛情のこもった仕草で助けました。
 幸福な幼年時代は突然中断されました。遠く離れたチューリンゲンから来た騎士が、彼女をドイツ中央部の新しい城塞へと連れて行ったのです。実際、当時の習慣に従って、父親はエリーザベトがチューリンゲン王子と結婚することを決めたのでした。チューリンゲン伯爵家は13世紀初頭のヨーロッパでもっとも富裕で影響力をもつ伯爵家の一つでした。その城塞は華美と文化の中心でした。しかし、祝典と見かけ上の栄光の裏には、封建諸侯の野望が隠れていました。封建諸侯たちはしばしば互いに争い、王や皇帝権力と対立していました。このような状況の中で、ヘルマン伯(Hermann I 在位1190-1217年)は息子ルートヴィヒ(Ludwig IV 1200-1227年、在位1217-没年)とハンガリー王女の婚約を歓迎したのです。エリーザベトは豊かな持参金と多くの従者を伴って故郷を離れました。従者の中には侍女も含まれました。そのうちの二人は最後までエリーザベトに忠実な友人であり続けました。この侍女たちが聖女の幼年時代と生涯についての貴重な情報を残してくれたのです。
 長い旅の後に一行はアイゼナハに着き、それからヴァルトブルク城に上りました。ヴァルトブルク城は町を見下ろす壮大な城塞でした。この城内でルートヴィヒとエリーザベトの婚約式が行われました。その後、ルートヴィヒが騎士道を学ぶあいだ、エリーザベトと従者はドイツ語、フランス語、ラテン語、音楽、文学、そして刺繍を習いました。婚約は政治的な理由で決まったものでしたが、二人の若者の間には真の愛が生まれました。この愛は信仰と神のみ心を行いたいという望みに促されました。ルートヴィヒは、父王の死後、18歳でチューリンゲンを統治し始めました。しかしエリーザベトは静かな批判の対象となりました。なぜなら、彼女の振る舞いが宮廷生活にそぐわなかったからです。結婚式も豪華なものではなく、婚宴の費用の一部は貧しい人に寄付されました。エリーザベトはその深い感受性をもって信仰告白とキリスト教的実践の間に矛盾を見いだしました。彼女は妥協することに我慢できませんでした。あるとき、聖母の被昇天の祭日に聖堂に入ったエリーザベトは、王妃の冠をとってそれを十字架の前に置き、顔を覆いながら床にひれ伏しました。一人の修道女がこの振る舞いを非難すると、エリーザベトはこたえていいました。「わたしの王であるイエス・キリストが茨の冠をかぶっておられるのを見ながら、どうしてみじめな被造物であるわたしが、地上の地位を示す冠をかぶり続けることができましょうか」。エリーザベトは神の前でしたのと同じしかたで臣下の者たちに対しても振る舞いました。『四人の侍女のことば』(Libellus de dictis quatuor ancillarum)はこう証言します。「それが夫の財産また正当な富に由来するものであることを確信できるまで、彼女は食事を摂らなかった。彼女は不正に富を得ることを差し控えたが、暴力に苦しむ人に補償を与えることに努めた」(同:ibid. 25; 37)。エリーザベトは指導的な役割を与えられたすべての者の模範です。権威の行使は、あらゆる次元において、常に共通善を追求しながら、正義と愛への奉仕として行わなければなりません。
 エリーザベトはあわれみのわざを熱心に行いました。彼女は戸口をたたく人々に食物と飲み物と衣服を与え、負債を払い、病人を看護し、死者を埋葬しました。城を降りて、しばしば侍女とともにパン、肉、小麦粉、その他の食物を携えて貧しい人の家を訪ねました。こうした行為は夫に報告されましたが、夫はそれを不快に思わず、それどころか非難する者にこういってこたえました。「彼女が城を売らないかぎり、わたしは幸せだ」。こうした状況の中で、パンが薔薇に変わる奇跡が起きました。エリーザベトが貧しい人のためのパンでエプロンを一杯にして通りを歩いていると、夫と出会いました。すると夫は、おまえは何を運んでいるのかと尋ねました。エリーザベトがエプロンを開くと、パンではなくすばらしい薔薇が現れました。この愛のわざの象徴は、聖エリーザベトの図像の中で何度も描かれています。
 エリーザベトはとても幸福な結婚生活を送りました。彼女は夫が人間的資質を超自然的な次元にまで高めるのを助けました。夫も、貧しい人に物惜しみせずに施し、宗教的実践を行う妻を守りました。妻の深い信仰にますます感嘆の念を覚えた夫は、貧しい人を世話することについて彼女にこういいました。「愛するエリーザベトよ。おまえが洗い、食べさせ、世話しているのはキリストです」。これは、信仰と神への愛と隣人愛がどれほど家庭生活を強め、夫婦の一致を深めるかをはっきりと示す証拠です。
 この若い夫婦は小さき兄弟会(フランシスコ会)のうちに霊的な支えを見いだしました。フランシスコ会は1222年にチューリンゲンに広まったからです。エリーザベトはフランシスコ会士の中で修道士リュディガー(Rüdiger)を霊的指導者に選びました。リュディガーが、若く富裕な商人だったアッシジのフランチェスコの回心の出来事について語ると、エリーザベトはさらに熱心にキリスト教的生活の道を歩むようになりました。このときからエリーザベトは、貧しい人の中におられる十字架につけられた貧しいキリストにますます従おうと決意しました。最初の息子が生まれ、続いて二人の息子が生まれても、聖女は愛のわざをなおざりにしませんでした。さらにエリーザベトは小さき兄弟会がハルバーシュタットに修道院を建設するのを助けました。リュディガーがこの修道院の長上となりました。そのためエリーザベトの霊的指導はマールブルクのコンラート(Konrad von Marburg 1180/1200-1233年)にゆだねられました。  
 1227年6月の終わりに、夫との離別という辛い試練が訪れました。ルートヴィヒ4世は皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II 1194-1250年、神聖ローマ皇帝在位1212-没年)の十字軍に加わりました。ルートヴィヒ4世は妻エリーザベトにこれがチューリンゲン王の伝統なのだと言い聞かせました。エリーザベトはこたえていいました。「あなたを引き留めは致しません。わたしは自分をすべて神にささげました。今はあなたをもささげなければなりません」。しかし、熱病が兵士たちを襲い、ルートヴィヒ自身も病気にかかって、1227年9月、オトラントで、27歳になる前に亡くなりました。訃報を聞いたエリーザベトは、独り悲しみに沈みましたが、やがて祈りに強められ、天で再び夫とあいまみえることへの希望に慰められて、王国の政務に再び関心を向けるようになりました。ところがもう一つの試練が彼女を待ち受けていました。エリーザベトの義弟がチューリンゲン王国に対して反乱を起こしたのです。この義弟は自分がルートヴィヒの真の後継者だと宣言し、エリーザベトを国政を司る資格のない信心深い女性と非難しました。若き寡婦エリーザベトは3人の息子とともにヴァルトブルク城から追放され、身を寄せる場所を探し始めました。侍女たちのうちの二人だけが彼女のもとにとどまりました。侍女たちはエリーザベトに同行し、3人の子どもをルートヴィヒの友人の保護にゆだねました。村々を旅しながら、エリーザベトは自分を受け入れてくれた地で活動しました。すなわち、病人を助け、糸をつむぎ、布を縫いました。深い信仰と忍耐と神への献身に支えられたこの苦難の時期に、エリーザベトに忠実にとどまり、義弟の支配は不当だと考えた一部の親族が、エリーザベトの地位を回復しました。こうしてエリーザベトは1228年の初め、マールブルクの家族の城に引退して住むにふさわしい収入を受け取ることができました。マールブルク城には霊的指導者のコンラート修道士も住みました。このコンラートが教皇グレゴリウス9世(Gregorius IX 在位1227-1241年)に次の出来事を知らせたのです。「1228年の聖金曜日、エリーザベトは、修道士と家族の前で、彼女が小さき兄弟会を受け入れたアイゼナハの町の礼拝堂の祭壇に手を置き、自分の意志とこの世のすべての空しいことを捨てました。彼女は全財産を捨てることも望みましたが、貧しい人への愛のゆえに、わたしは彼女にそれを思いとどまらせました。ほどなく彼女は病院を建て、病人や障害者を収容し、困窮した人々、見捨てられた人々に自分の食卓で奉仕しました。これらのことをとがめられたとき、エリーザベトはこたえていいました。『わたしは貧しい人から特別な恵みとへりくだりを与えられています』」(『教師コンラートの手紙』:Epistula magistri Conradi 14-17)。
 わたしたちはこのことばの中に、聖フランチェスコのものと類似した、ある種の神秘体験を見いだすことができます。実際、アッシジの貧者はその遺言の中でこう述べました。重い皮膚病の人に奉仕することによって、かつてわたしにとって不快と思われたものが、魂と肉体の甘美さに変わっていた(『遺言』:Testamentum 1-3〔坂口昂吉訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成12 フランシスコ会学派』平凡社、2001年、85頁参照〕)。エリーザベトは晩年の3年間を自分が設立した病院で過ごしました。彼女はそこで病人に奉仕し、危篤の人に付き添いました。彼女は常にもっとも卑しい奉仕ともっとも不快な仕事をするように努めました。彼女は「この世のただ中における奉献された女性(soror in saeculo)」と呼びうる者となりました。そして、他の友人とともに修道共同体を作り、灰色の修道服をまといました。エリーザベトがフランシスコ会第三会と在世フランシスコ会の守護聖人であるのは偶然ではありません。
 1231年11月、エリーザベトは重い熱病にかかりました。彼女が病気だという知らせが広まると、大勢の人が彼女を見舞いに来ました。約10日後、彼女は、独りきりで神とともにとどまるために戸口を締めてくれるよう願いました。11月17日の晩、エリーザベトは主のもとで静かに息を引き取りました。エリーザベトの聖性のあかしがあまりにも多かったので、わずか4年後に教皇グレゴリウス9世は彼女を列聖し、同年、聖女をたたえるためにマールブルクに建てられた美しい聖堂が祝福されました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは聖エリーザベトの姿のうちに次のことを見いだします。すなわち、信仰とキリストとの友愛は、正義と万人の平等と他の人々の権利に対する感覚を生み出します。そして、愛と愛のわざを生み出します。この愛から希望も生じます。それは、わたしたちがキリストに愛されていることへの確信です。そして、キリストの愛がわたしたちを待ち受け、わたしたちがキリストに倣い、他の人のうちにキリストを見いだすことを可能にしてくれるという確信です。聖エリーザベトはわたしたちをこう招きます。キリストを再発見してください。キリストを愛してください。信仰をもってください。そこから、まことの正義と愛を見いだしてください。また、喜びも見いだしてください。それは、いつの日かわたしたちは、神とともに永遠に生きる喜びのうちに、神の愛に満たされるのだという喜びです。ご清聴有難うございます。

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