教皇ベネディクト十六世の244回目の一般謁見演説 ヨーロッパの共同守護聖人、スウェーデンの聖ビルギッタ

10月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の244回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第8回 […]


10月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の244回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第8回として、「ヨーロッパの共同守護聖人、スウェーデンの聖ビルギッタ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、1980年12月31日、使徒的書簡『エグレジエ・ヴィルトゥーティス』(Egregiae virtutis)をもって、第一千年期の聖人である聖ベネディクトゥスに聖キュリロスと聖メトディオスを加えた3人をヨーロッパの共同守護聖人としました。次いで、第2回ヨーロッパ特別シノドスが開会した1999年10月1日、自発教令『スペス・エディフィカンディ』(Spes aedificandi)をもって、第二千年期の3人の女性の聖人、すなわちスウェーデンの聖ビルギッタ、シエナの聖カタリナ、そして十字架の聖べネディクタ(エディット・シュタイン)を新たにヨーロッパの共同守護聖人に加えました。

謁見の終わりに、教皇はインドネシアとベナンの自然災害による被災者のために次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「この数時間のうちに、新たな津波がインドネシア海岸を襲いました。インドネシアは火山の噴火の被害にも遭っています。この火山噴火では多くの死者と行方不明者が生じています。愛する人を亡くした犠牲者のご家族に心からお悔やみ申し上げるとともに、わたしが祈りのうちにインドネシア国民に寄り添うことを約束します。
 さらにわたしは、ベナン国民にも寄り添います。ベナン国民は相次ぐ洪水に見舞われたからです。洪水により多くの人が住む家を失い、不衛生で医療の不足した状況で暮らしています。犠牲者とベナン全国民の上に、主の祝福と慰めが与えられることを祈り求めます。
 わたしは国際社会に対して、これらの災害による被災者の苦しみを和らげるために必要な援助を惜しみなく与えてくださるようお願いします」。
インドネシアではスマトラ島沖で10月25日(月)午後9時25分にマグニチュード7.1の地震が発生しました。地元当局は、この地震と津波による死者数が27日までに300人に達したことを発表しました。また26日(火)、ジャワ島中部にある標高2978メートルのムラピ山で噴火が起こりました。この噴火で発生した火砕流により27日までに29人が死亡しています。
アフリカ西部ベナンは5週間にわたって洪水の被害に遭い、バチカン放送の報道によれば、20万人近くの人が家を失い、60万人が被災しています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 2000年の大聖年が始まろうとしていた熱気の中で、尊者神のしもべヨハネ・パウロ二世はスウェーデンの聖ビルギッタ(Birgitta av Sverige; Birgitta Suecia 1303-1373年)を全ヨーロッパの共同守護聖人と宣言しました。今日わたしは、このビルギッタの人となりとメッセージ、そしてこの女性が(現代においても)教会と世界に多くのことを教えてくれるわけをお示ししたいと思います。
 わたしたちは聖ビルギッタの生涯の出来事についてよく知っています。ビルギッタの霊的指導司祭が、1373年の彼女の死後ただちに始まった列聖手続きの推進のために伝記を書いたからです。ビルギッタはその70年前の1303年、スウェーデンのフィンスタで生まれました。北欧の国スウェーデンはその300年前に、聖女が両親から与えられたのと同じ熱意をもって信仰を受け入れました。両親は、王家に連なる貴族の出身で、信心深い人々でした。
 わたしたちは聖ビルギッタの生涯を二つの時期に区分することができます。
 第一の時期は幸福な結婚生活を送る妻の状態によって特徴づけられます。ビルギッタの夫はウルフ(Ulf)といい、スウェーデン王国の重要な地方の法務官でした。結婚生活はウルフが亡くなるまで28年間続きました。二人の間には8人の子どもが生まれました。二人目の子どものカタリナ(Katarina 1331/1332-1381年)は聖人として崇敬されています。これはビルギッタが自分の子どもを熱心に教育したことを雄弁に語るしるしです。さらにビルギッタの教育における知恵は高い評価を受け、スウェーデン王マグヌス(Magnus VII Eriksson スウェーデン王在位1319-1364年、ノルウェー王在位1319-1355、1371-1374年)は彼女を一時期宮廷に招き入れました。それは、若い王妃ナミュールのブランシュ(Blanche de Namur)にスウェーデン文化を学ばせるためでした。
 ビルギッタは学識ある修道者から霊的指導を受け、この修道者により聖書を学び始めました。そのため彼女は自分の家族によい影響を与えました。ビルギッタがいたおかげで、ビルギッタの家族は真の意味での「家庭教会」となったのです。ビルギッタは夫とともにフランシスコ会第三会の会則を受け入れました。彼女は貧しい人への愛のわざを惜しみなく行い、病院も建てました。ウルフは妻の支えによって性格を直し、キリスト教的生活を送りました。他の家族とともに1341年に行ったサンティアゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼から帰った後、ビルギッタとウルフ夫妻は禁欲生活を送る計画を立てました。しかし、夫ウルフは、修道院に入って平安を得て間もなく、地上の生涯を終えました。
 このビルギッタの生涯の第一の時期は、わたしたちが今日、真の意味での「結婚の霊性」と呼ぶものを評価する上で助けとなります。キリスト信者の夫婦は、結婚の秘跡の恵みに支えられながら、ともに聖性への道を歩むことができます。聖ビルギッタとウルフの生涯に見られるように、妻がその宗教的感覚と繊細さと優しさをもって夫に信仰の道を歩ませることに成功することもまれではありません。わたしは、現代においても、日々、キリスト教的生活のあかしによって自分の家族を照らしている多くの女性を感謝のうちに思い起こします。主の霊が、キリスト信者の夫婦の聖性を呼び覚ましてくださいますように。それは、福音的な価値に従って結婚生活を送ることのすばらしさを世に示すためです。福音的な価値とは、愛、柔和、助け合い、多くの子どもを生み育てること、世界への開きと連帯、教会生活への参加です。
 ビルギッタがやもめとなったとき、その生涯の第二の時期が始まります。彼女は、祈り、悔い改め、愛のわざによって主との一致を深めるために再婚を断念します。それゆえ、キリスト信者のやもめは、この聖女のうちに従うべき模範を見いだすことができます。実際、ビルギッタは夫が亡くなると、財産を貧しい人に施した後、まだ修道者となっていなかったにもかかわらず、自らアルヴァストラにシトー会修道院を創設しました。このアルヴァストラで神の啓示が始まりました。この啓示はビルギッタの残りの生涯を通して続きました。ビルギッタは啓示を秘書の聴罪司祭に口述しました。聴罪司祭はこの口述された啓示をスウェーデン語からラテン語に訳し、『啓示』(Revelationes)と題する8巻の書にまとめました。これに『啓示補遺』(Revelationes extravagantes)と題する補遺が付け加えられました。
 聖ビルギッタの『啓示』はさまざまな内容と様式を示します。ある場合に、啓示は、神のペルソナ、おとめマリア、聖人、また悪霊の間の対話の形で示されます。対話の中ではビルギッタも発言します。しかし別の場合には、特定の幻視が語られます。さらに他の場合に、ビルギッタは、おとめマリアが御子の生涯と神秘について啓示したことを語ります。聖ビルギッタの『啓示』の価値に対しては、疑いの目が向けられることもありましたが、尊者ヨハネ・パウロ二世は書簡『スペス・エディフィカンディ』(Spes Aedificandi)の中でこの価値を次のように確認しました。「教会は、ビルギッタの聖性を認めることによって、たとえ個々の啓示について語ることはなくとも、彼女の内的体験全体の真正性を受け入れたのです」(同5)。
 実際わたしたちは、この『啓示』を読むことによって、多くの重要なテーマに出会います。たとえば、そこではキリストの受難に関して、詳細かつ写実的な記述が繰り返し行われます。ビルギッタはキリストの受難に対し常に特別な信心を抱き、この神秘のうちに人類に対する神の限りない愛を観想しました。自分に語る主の口をもって、彼女は大胆に次の感動的なことばを語らせます。「ああ、わが友よ。わたしは自分の羊をこよなく愛する。できることなら、わたしが多くの人のあがないのために死を受けたのと同じように、羊たち一人ひとりのためにまた何度でも死にたいほどである」(『啓示』:Revelationes I, c. 59)。マリアをあわれみの仲介者また母とした、マリアの母としての悲しみも、『啓示』の中でしばしば繰り返し語られるテーマです。
 こうしたカリスマ(たまもの)を与えられたビルギッタは、自分が主から深い愛のたまものを与えられた者であることを自覚しました。『啓示』第1巻はこう述べます。「わが娘よ。わたしはあなたを自分のために選んだ。心を尽くして、この世に存在するいかなるものよりもわたしを愛しなさい」(同:ibid. I, c. 1)。さらにビルギッタは、あらゆるカリスマが教会を築くためのものであることを、よくわきまえ、深く確信していました。まさにそのために、ビルギッタの啓示の多くは、それも厳しい警告の形で、宗教的・政治的権力者も含めた当時の信者に向けられます。それは信者がキリスト教的生活を一貫したしかたで生きるためです。けれどもビルギッタはこの警告を、常に、教会教導職、特に使徒ペトロの後継者に対する尊敬と忠実をもって行いました。
 1349年、ビルギッタは永遠にスウェーデンを後にし、ローマへの巡礼の旅に出ました。それは、1350年の聖年にあずかるためだけでなく、彼女が創立しようと望んでいた修道会の会則の認可を教皇から得るためでした。この聖なるあがない主にささげられた修道会は、女子修道院長の権威のもとに置かれた修道士と修道女から成るものでした。これは驚くべきことではありません。中世には、男子の支院と女子の支院をもち、同じ修道会則を実践する、女子修道院長の指導にゆだねられた修道会が存在しました。実際、偉大なキリスト教的伝統は、女性に対して、固有の尊厳と、教会における固有の地位(それは常に使徒の元后であるマリアの模範に基づきます)を認めてきました。この地位は、叙階された司祭職と同一ではありませんが、共同体の霊的成長にとって同等の重要性をもちます。さらに、奉献された男性と女性が常に互いの特別な召命を尊重しながら協力することは、現代世界においてきわめて重要になっています。
 ビルギッタはローマで、娘のカタリナを伴いながら、熱心な使徒職と祈りの生活に努めました。彼女はローマからさまざまなイタリアの巡礼所、特にビルギッタが常に深い信心をささげた聖フランチェスコの故郷であるアッシジへの旅も行いました。最後に1371年に彼女は心からの望みをかなえました。すなわち、聖地巡礼です。ビルギッタは、自分の霊的な子ら、すなわち彼女が「神の友」と呼んだグループをこの巡礼に伴いました。
 当時、教皇たちはローマから遠く離れたアヴィニョンに住んでいました。ビルギッタは悲しみをもって教皇に手紙を送り、教皇が永遠の町ローマのペトロの座に戻るよう促しました。
 ビルギッタは、教皇グレゴリウス11世(Gregorius XI 在位1370-1378年)が決定的にローマに戻る前の1373年に亡くなりました。彼女はローマのサン・ロレンツォ・イン・パニスペルナ教会に暫定的に葬られましたが、1374年、娘のビルガー(Bilger)とカタリナが遺骸を故郷のヴァドステーナ修道院に移しました。ヴァドステーナ修道院は聖ビルギッタが創立し、すぐに著しく拡大した修道会の本部です。1391年、教皇ボニファティウス9世(Bonifatius IX 在位1389-1404年)がビルギッタを荘厳に列聖しました。
 ビルギッタの聖性は、多くのたまものと経験によって特徴づけられます。わたしはそれをこの短い伝記的・霊的描写の中で述べようと望みました。この聖性によって、ビルギッタはヨーロッパの歴史の中で傑出した存在となりました。スカンディナヴィア出身の聖ビルギッタは、キリスト教がどれほど深くヨーロッパ大陸のすべての人の生活の中に浸透したかを証明しています。教皇ヨハネ・パウロ二世は、ヨーロッパの共同守護聖人を宣言することによって、(西方キリスト教がまだ分裂によって傷ついていない14世紀に生きた)聖ビルギッタが、わたしたちが心から待ち望んでいる、すべてのキリスト者の完全な一致という恵みが得られるように、神に力強い執り成しをしてくれることを願いました。親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちが心から望むこの意向のために、そして、ヨーロッパがますます自らのキリスト教的根源を糧として成長することを、祈ろうではありませんか。忠実な神の弟子、スウェーデンの聖ビルギッタの力強い執り成しを祈り願いながら。ご清聴有難うございます。

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