教皇ベネディクト十六世の245回目の一般謁見演説 聖マルグリット・ドワン

11月3日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の245回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第9回として、「聖マルグリット・ドワン」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日お話ししたいマルグリット・ドワン(Marguerite d’Oingt 1311年没)は、わたしたちをカルトゥジア会の霊性へと案内してくれます。カルトゥジア会の霊性は、聖ブルーノ(Bruno 1030頃-1101年)が体験し、示した福音の要約によって霊感を受けたものです。マルグリットの生年は知られていません。もっとも、一部の人はそれを1240年頃としています。彼女はリヨンの古くからある有力な貴族の家、オワン家の出身です。わたしたちは次のことを知っています。すなわち、母親もマルグリットという名であったこと、マルグリットには二人の兄弟――ジスカール(Giscard)とルイ(Louis)――と三人の姉妹――カトリーヌ(Catherine)、イザベル(Isabelle)、アグネス(Agnès)――がいたことです。最後に挙げたアグネスはマルグリットに従ってカルトゥジア会に入り、後にマルグリットの後を継いで女子修道院長になりました。
 マルグリットの幼年時代については知られていません。しかし、わたしたちは彼女の著作から、マルグリットが幼年時代を家族の愛に包まれて平穏に過ごしたと想像できます。実際、マルグリットは、神の限りない愛を表すために、家族と関連するたとえを好んで用います。特に彼女は神の父と母としての姿に言及します。ある黙想の中で、マルグリットは次のように祈ります。「いとも優しい主よ。あなたの計らいによってわたしに与えられた特別な恵みを思います。何よりもあなたはわたしを幼いときから守ってくださいました。あなたはわたしをこの世の危険から遠ざけ、あなたへの聖なる奉仕のために献身するようわたしを招いてくださいました。またあなたは、わたしが食べ、飲み、まとい、履くために必要なものをすべて与えてくださいました。それも、わたしにこれらのものがあなたの深いあわれみによるものであるといっさい考えさせずに(これらのものを与えてくださったのです)」(マルグリット・ドワン『瞑想の書』:Scritti spirituali, Meditazione V, 100, Cinisello Balsamo 1997, p. 74)。
 わたしたちはマルグリットの黙想の中で常に次のことを見いだします。すなわち、彼女は主の招きにこたえてポルタン(Poleteins)のカルトゥジア会修道院に入りました。すべてのものを捨て、厳しいカルトゥジア会の修道規則を受け入れました。それは、完全に主のものとなり、いつも主とともにとどまるためです。マルグリットはこう述べます。「優しい主よ。わたしはあなたへの愛のゆえに、父、母、兄弟、そしてこの世のすべてのものを捨てました。けれどもそれはごく些細なことにすぎません。なぜなら、この世の富は突き刺さる棘にすぎないからです。人はこの世の富を所有すればするほど不幸になるからです。だから、わたしが捨てたのは悲惨と貧しさ以外のものではないと思われます。しかし、優しい主よ。あなたは知っておられます。たとえわたしがこの世を何千ももち、好きなように用いることができたとしても、わたしはあなたへの愛のゆえにそれらをすべて捨てることでしょう。そして、たとえあなたが天と地でもっておられるすべてのものをわたしに与えてくださったとしても、わたしがあなただけを父また母としてもたないなら、またそのことを望まないなら、わたしは決して満足することがないでしょう。あなたはわたしの魂のいのちだからです」(同:ibid., Meditazione II, 32, p. 59)。
 カルトゥジア会の中でのマルグリットの生活についてもわずかなことしか知られていません。分かっているのは次のことです。マルグリットは1288年に第4代女子修道院長となり、同職を1310年2月11日に死ぬまで務めました。しかし、その著作からマルグリットの霊的歩みにおける特別な転換点を窺い知ることはできません。マルグリットは全生涯を、キリストに向けて自分が完全に造り変えられるまでの、清めの道と考えていました。キリスト、特にキリストの救いをもたらす受難は、日々、自分の心と生活に書かれ、刻まれる書物です。著作『鏡』(Speculum)の中で、マルグリットは自分について第三人称で語ります。それは次のことを強調するためです。「この人物は、神の恩寵により、その心の中に、神イエス・キリストがこの地上で送った聖なる生涯、その良き模範、その良き教えを刻み込んでいました。その人は、優しきイエス・キリストをその心の中にしっかり入れておいたので、ときとしてイエスがその人のところに現れ、その手の中に閉じた本を持っていらっしゃるように思われるのでした――この人を教え諭すためにです」(『鏡』:ibid. I, 2-3, p. 81〔細川哲士訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成15 女性の神秘家』平凡社、2002年、475頁〕)。「この本の中に、イエス・キリストが地上で送った生涯、その誕生から天に昇るまでが書かれているのが、その人は分かりました」(同:ibid. I, 12, p. 83〔前掲細川哲士訳、476頁〕)。
 マルグリットは毎日、朝からこの書物の研究に努めました。そして彼女は、この書物にじっと目を向けることにより、自分の良心という書物を読み始めたのでした。この書物は彼女の生涯の偽りと嘘を明らかにしました(同:ibid. I, 6-7, p. 82参照)。彼女は、他の人を助け、自分の心に神の現存の恵みをいっそう深く刻みつけるために、自分自身について書きました。あたかもそれは、日々、自分の生活が、イエスのことばと行い、すなわちイエスの生涯という書物に照らされることによって書き記されるためでした。彼女がしたのは、キリストの生涯が、魂にゆるぎなく、深く刻印されることでした。それは、彼女が自分の心の中でかの書物を見いだすことができるため、すなわち、三位一体の神の神秘を観想するためです(同:ibid. II, 14-22; III, 23-40, pp. 84-90参照)。
 マルグリットはその著作を通じて自分の霊性の一部をかいま見させてくれます。わたしたちはそこから、彼女の人柄と統治のたまものに関して、いくつかの特徴を知ることができます。マルグリットはきわめて教養のある女性でした。彼女は通常、知識人の言語であるラテン語でものを書きました。しかし、フランコ=プロヴァンサル語でも著述しました。これも珍しいことです。それゆえマルグリットの著作は、わたしたちが知っている、この言語で書かれた最初の著作なのです。マルグリットの生涯は神秘的体験に満ちていましたが、彼女はそれを単純な形で記しました。人はそこから言い表しがたい神の神秘を窺い知ることができます。しかし彼女は、この神秘を捉えるために精神には限界があり、神秘を表現するために人間の言語は不適切であることを強調します。マルグリットの人柄は確固として、単純で、開放的でした。彼女は優しい愛情に満ち、よくバランスがとれ、鋭い識別力を備えていました。人間の精神の深みを見通し、霊魂の限界とあいまいさとともに、神に向かうあこがれと願いを見いだすことができました。マルグリットは統治に対する際立った適性を示しました。その際彼女は、深く神秘的な霊的生活と、姉妹・共同体への奉仕を結びつけることができました。このことに関連して注目されるのは、彼女の父親への手紙の一節です。「優しいわたしのお父様。わたしたちの家の用事のためにたいへん忙しくしていることをお知らせ申し上げます。そのためわたしは、精神をよい考えのために用いることができないでいます。実際、あまりにもたくさんすることがあるので、どこに行くのか分からなくなるほどです。わたしたちはまだ今年の7月の小麦を刈り取っていませんし、ぶどう畑は嵐で壊されてしまいました。その上、わたしたちの聖堂はたいへんひどい状態なので、一部を改築しなければなりません」(『書簡』:ibid., Lettere III, 14, p. 127)。
 あるカルトゥジア会の修道女がマルグリットの姿についてこう書いています。「彼女の著作から分かるのは次のような人柄です。それは魅力的で、考察に向かう生き生きとした知性を備えています。同時に彼女は神秘的な恵みを与えられています。一言でいうなら、彼女は、ある種のユーモアによってきわめて霊的な愛情を表すことのできる、知恵に満ちた聖なる女性です」(Una Monaca Certosina, Certosine, in Dizionario degli Istituti di Perfezione, Roma 1975, col. 777)。マルグリットは生き生きとした神秘的生活の中で、恵みによって清められた自然な感情を重んじました。神の働きをより深く悟り、それに素早く熱心にこたえるための特別な手段となるからです。その理由はこれです。人間の人格は神の像に従って造られました。だから人間の人格は神とともにすばらしい愛の歴史を築き、神の計画にあずかるよう完全に身をゆだねるよう招かれているのです。
 三位一体の神、キリストにおいてご自身を現された愛である神――それがマルグリットの心を捕らえました。だからマルグリットは主への深い愛の関係を生き、また、それとは対照的な、十字架の逆説に至るまでの、卑劣な人間の忘恩をも見いだしました。マルグリットはいいます。キリストの十字架は分娩台に似ています。十字架上でのイエスの苦しみは子を産む母の苦しみにたとえられます。「わたしを胎内に宿した母は、わたしを産むとき、一昼夜にわたり、ひどく苦しみました。しかし、いとも優しい主よ。あなたはわたしのために、一昼夜どころか30年以上にわたり苦しみを受けました。・・・・あなたはわたしのために、全生涯にわたり、どれほどひどい苦しみを受けたことでしょう。そして出産のときが来ると、あなたの苦痛はあまりに激しいものとなりました。そのため、あなたの聖なる汗は血の雫となり、あなたの全身から地面にしたたり落ちました」(『瞑想の書』:ibid., Meditazione I, 33, p. 59)。
 マルグリットはイエスの受難の記事を思い起こしながら、深い共感をもってイエスの苦しみを観想します。「あなたは十字架の硬いベッドにさらされましたが、大きな苦しみを受けたときに人がするように、動くことも、もがくことも、手足を動かすこともできませんでした。それは、手足が完全に伸ばされ、釘で打たれていたからです。・・・・すべての筋肉と血管が裂かれていたからです。・・・・しかし、これらすべての苦しみも・・・・あなたには十分ではありませんでした。だからあなたは、ご自分の脇腹が槍で刺し貫かれることを望んだのです。こうしてあなたの従順なからだは完全に引き裂かれました。するとこのようなひどい暴力によって、あなたの尊い血が、大きな川のように広々とした道となってほとばしり出ました」。マルグリットはマリアについてこういいます。「あなたのからだを引き裂いた剣が、あなたを支えることを望んでおられた、あなたの栄光ある母の心をも貫いたのは不思議ではありません。・・・・あなたの愛は他のあらゆる愛よりも優れたものだからです」(『瞑想の書』:ibid., Meditazione II, 36-39. 42, pp. 60s.)。
 親愛なる友人の皆様。マルグリット・ドワンは、イエスとその母マリアの苦しみと愛の生涯を日々黙想するよう、わたしたちを招きます。これこそわたしたちの希望であり、生きる意味だからです。わたしたちに対するキリストの愛を仰ぎ見ることから、同じ愛をもってこたえ、自分の生涯を神と他の人々への奉仕にささげるための、力と喜びが生まれます。マルグリットとともにわたしたちもいいたいと思います。「優しい主よ。わたしと全人類への愛のゆえにあなたがなさったすべてのことにより、わたしはあなたを愛するように促されます。けれども、あなたの至聖なる受難を思い起こすことにより、わたしの愛する力とは比べ物にならない、あなたを愛する力が与えられます。だからわたしはこう思います。・・・・わたしは自分が深く望んでいたことを見いだしました。それは、あなた以外に、またあなたのうち以外に、そしてあなたへの愛のゆえ以外には、何ものも愛さないということです」(同:ibid., Meditazione II, 46, p. 62)。
 一見すると、この中世のカルトゥジア会修道女の姿、その全生涯と思想は、わたしたちからかけ離れているように思われます。わたしたちの生活、わたしたちの思考様式、行動様式からもかけ離れているように思われます。しかし、彼女の生涯の本質に目を向けるなら、わたしたちにもかかわること、わたしたちの生活においても本質的なものとなるべきことを見いだすことができます。
 すでに申し上げたとおり、マルグリットは主を書物とみなしました。主に眼差しを注ぎました。主を、その中に自分の良心も姿を現す、鏡と考えました。この鏡から彼女の魂に光が射し込みます。彼女はキリストのことばと生涯を、自分の存在の中に受け入れます。こうして彼女は造り変えられます。彼女の良心は照らされます。彼女は基準となる光を見いだして、洗い清められます。キリストのことばと生涯と光を自分の良心に受け入れること。そこから、良心が照らされ、何が真実で善であり、何が悪であるかを知ることができるようになること――わたしたちもまさにこのことを必要としています。どうかわたしたちの良心が照らされ、洗い清められますように。ごみは世界のほうぼうの路上にあるだけではなく、わたしたちの良心と魂の中にも存在します。主の光と力と愛だけが、わたしたちを洗い、清め、正しい道を示してくださいます。それゆえ聖マルグリットに従って、イエスに目を注ごうではありませんか。イエスの生涯の書を読もうではありませんか。まことのいのちを学ぶために、自分を照らし、清めていただこうではありませんか。ご清聴有難うございます。

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