教皇ベネディクト十六世の247回目の一般謁見演説 モン=コルニヨンの聖ジュリエンヌ

11月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の247回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第10 […]


11月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の247回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第10回として、「モン=コルニヨンの聖ジュリエンヌ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「この数日間、国際社会はパキスタンのキリスト信者の置かれた困難な状況を深い懸念をもって見守っています。彼らがしばしば暴力と差別の犠牲となっているからです。今日わたしはとくにアシア・ビビとそのご家族との霊的連帯を表明します。そして、アシア・ビビが速やかに完全な自由を回復することを願います。さらにわたしは同じような状況に置かれたすべてのかたがたのためにも祈ります。彼らの人間の尊厳と基本的権利が完全な意味で尊重されますように」。
パキスタンのキリスト教徒で二児の母であるアシア・ビビ(45歳)は、同僚のイスラーム教徒との口論の中でムハンマドを冒瀆したとして、11月8日、地方法廷で冒瀆罪による死刑判決を下され、11月15日、控訴が行われています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日も皆様に一人の女性をご紹介したいと思います。この女性はあまり知られていませんが、教会はこの人を大いに知るべきです。それは、彼女が送った聖なる生活のためだけではありません。彼女が深い熱意をもって、一年の中でもっとも重要な祭日の一つである、キリストの聖体の祭日の制定に寄与したためです。この女性が、リエージュの聖ジュリエンヌとしても知られる、モン=コルニヨンの聖ジュリエンヌ(Julienne de Mont-Cornillon 1192-1258年)です。わたしたちは、何よりもおそらく彼女と同時代の聖職者が書いたと思われる伝記を通じて、聖女の生涯についてある程度のことを知っています。この伝記には聖女を直接知っていた人々のさまざまな証言も収められているからです。
 ジュリエンヌは1191年と1192年の間にベルギーのリエージュ近郊で生まれました。このリエージュという場所を銘記することは重要です。当時のリエージュ教区は、いわば真の意味で「聖体の二階の広間」だったからです。ジュリエンヌ以前にも、傑出した神学者が聖体の秘跡の最高の価値を明らかにしています。そして、リエージュにはつねに、聖体礼拝と熱心な聖体拝領のために惜しみない心で献身する女性のグループがありました。模範的な司祭に指導された彼女たちは、ともに生活しながら、祈りと愛のわざに励みました。
 5歳のときに孤児となったジュリエンヌは、妹のアグネス(Agnès)とともに、モン=コルニヨンのハンセン病療養所・修道院のアウグスチノ会修道女に預けられました。彼女は何よりもサピエンティアという名の修道女から教育を受けました。サピエンティアは、ジュリエンヌが修道服をまとってアウグスチノ会修道女となるまで、彼女の霊的成長を見守りました。ジュリエンヌは高い教養を身に着けました。こうして彼女は、ラテン語で書かれた教父著作、とくに聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)や聖ベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis 1090-1153年)の著作を読みました。ジュリエンヌは活発な知性に加えて、初めから観想への特別な愛を示しました。彼女はキリストの現存についての深い感覚を備えていました。彼女はこのキリストの現存を、聖体の秘跡に特別に深くあずかり、イエスの次のことばを何度も黙想することによって体験しました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。
 16歳のとき、ジュリエンヌは最初の幻視を体験しました。その後、幻視は聖体礼拝を行っているときに繰り返し現れました。幻視は、くまなく輝く月と、この月をまっすぐに横切る暗い線を示しました。主は、示されたことの意味を彼女に悟らせました。月は地上の教会生活を象徴的に示します。これに対して、くすんだ線は、典礼の祭日がないことを表します。ジュリエンヌは、祭日の制定を実現するためにできる限りの努力をしたいと願いました。この祭日とは、信者が聖体を礼拝できる祭日です。それは、信者が信仰を深め、いっそう徳を実践し、この至聖なる秘跡に対する侮辱を償うためです。
 この間に修道院長となったジュリエンヌは、約20年間、今述べた啓示を秘密にしました。しかし、この啓示は彼女の心を喜びで満たしました。やがて彼女は二人の熱心な聖体の礼拝者に秘密を打ち明けました。すなわち、隠遁生活を送った福者イヴ(Ève)と、モン=コルニヨン修道院に入会したイザベル(Isabelle)です。3人の女性は、至聖なる秘跡をあがめるための一種の「霊的同盟」を作りました。彼女たちは、リエージュのサン=マルタン聖堂の聖堂参事会員であった有名な司祭、ローザンヌのヨハネス(Jean de Lausanne)も彼女たちに加わってくれることを望み、神学者や聖職者の考えを尋ねてくれるよう願いました。彼らの回答は積極的で、励ましを与えるものでした。
 コルニヨンのジュリエンヌに起こったことは、聖人たちの生涯の中でしばしば繰り返されます。霊感が神から来ることを確かめるためには次のことがつねに必要です。すなわち、深く祈ること、忍耐強く待ち望むことができること、友人を捜すこと、他のよい霊魂と出会うこと、そして、教会の司牧者の判断に従うことです。リエージュの司教、トゥロットのロベルトゥス(Robert de Thourotte 在位1240-1246年)は、最初はためらったものの、やがてジュリエンヌとその同志の提案を受け入れ、初めて自分の教区内でキリストの聖体の祭日を制定しました。後に他の司教たちもこれに倣って、自分が司牧するようゆだねられた地域で同じ祭日を定めました。
 しかし、主はしばしば聖人たちが試練を乗り越えるように求めます。それは彼らの信仰を深めるためです。このことがジュリエンヌにも起こりました。彼女は、一部の聖職者や、自分の修道院が従うべき長上の厳しい反対に遭わなければなりませんでした。そこで彼女は自ら望んで、何人かの同志とともにモン=コルニヨン修道院を去り、1248年から1258年までの10年間、シトー会のさまざまな女子修道院で生活しました。彼女はすべての人にへりくだりをもって教えました。決して批判のことばや敵対者への非難を口にせずに、熱心に聖体礼拝を広め続けたのです。ジュリエンヌは1258年、ベルギーのフォス=ラ=ヴィル(Fosses-La-Ville)で亡くなります。彼女が横臥していた修室では聖体が顕示されていました。伝記作者によれば、ジュリエンヌは最後の愛の炎をもって、彼女がつねに愛し、あがめ、礼拝した聖体のイエスを観想しながら亡くなりました。
 キリストの聖体の祭日のためにジャック・パンタレオン・ド・トロワ(Jacques Pantaléon de Troyes 1200頃-1264年)も心を動かされました。ジャック・パンタレオンはリエージュ大司教を務めていたときにジュリエンヌと面識をもちました。実際彼は、教皇となってウルバヌス4世(Urbanus IV 在位1261-1264年)を名乗ると、1264年にキリストの聖体の祭日を聖霊降臨後の木曜日に普遍教会が祝うべき祭日に制定しました。『トランシトゥルス・デ・ホック・ムンド』(Transiturus de hoc mundo 1264年8月11日)という標題の、祭日を制定した勅書の中で、教皇ウルバヌスは、控えめなしかたでではありますが、ジュリエンヌの神秘体験も思い起こします。教皇は述べます。「聖体は毎日荘厳に祝われるものではあるが、少なくとも一年に一回、これをいっそうたたえ、荘厳に記念することがふさわしいと考える。実際、われわれが記念する他のことがらを、われわれは霊と精神の中で捉えるのであり、それゆえにその現実の現存を得るのではない。これに対して、このキリストを記念する秘跡においては、イエス・キリストは、たとえ他の形においてであっても、ご自身の存在をもってわたしたちとともに現存される。実際、天に昇られるとき、キリストはこういわれたのである。『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』(マタイ28・20)」。
 教皇自身も模範を示そうと望んで、キリストの聖体の祭日を、当時居住していたオルヴィエートで祝いました。まさにこの教皇の命令によって、前年の1263年にボルセーナで起きた聖体の奇跡の痕跡のある、有名なコルポラーレがオルヴィエート大聖堂に納められました。これは今もそこに納められています。ある司祭が、パンとぶどう酒を聖別していたとき、聖体の秘跡におけるキリストのからだと血の現実の現存について強い疑いを抱きました。すると不思議なことに、聖別したホスチアから少量の血が滴り落ち始めました。こうしてわたしたちの信仰が告白することが確かめられたのです。ウルバヌス4世は、史上もっとも偉大な神学者の一人である聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)――聖トマスは当時、教皇に同伴してオルヴィエートにいました――に、この偉大な祭日の聖務日課の式文を作るよう命じました。今も教会で用いられているこの式文は、きわめて優れたものです。そこでは神学と詩が融合しています。この式文のことばは心の琴線を震わせて、至聖なる秘跡への賛美と感謝を表すよう促します。知性も、驚きをもってこの神秘を学びながら、聖体のうちにイエスとその愛のいけにえの生きたまことの現存を認めます。このいけにえが、わたしたちを御父と和解させ、わたしたちに救いを与えてくださいます。
 ウルバヌス4世の没後も、キリストの聖体の祭日を挙行したのは、フランス、ドイツ、ハンガリー、北イタリアといったいくつかの地域に限られていました。しかし教皇ヨハネス22世(Johannes XXII 在位1316-1334年)は1317年にこの祭日を全教会のために復興しました。それ以後、この祭日は驚くほど発展し、キリスト者の民からも大切にされています。
 わたしは、現代の教会の中で「聖体の春」が到来していることを喜びをもって認めたいと思います。どれほど多くの人が聖櫃の前に沈黙のうちにとどまり、イエスとの愛の対話を行っていることでしょうか。少なからぬ若者のグループが至聖なる秘跡の前で礼拝の祈りをささげることのすばらしさを再発見していることを知るのは慰めです。わたしは、たとえばロンドンのハイド・パークにおける聖体礼拝のことを思い起こします。わたしはこの「聖体の春」が、あらゆる小教区に、とくにジュリエンヌの故国であるベルギーに広まることを祈ります。尊者ヨハネ・パウロ二世は回勅『教会にいのちを与える聖体』の中でこう述べました。「多くの地域では聖体礼拝が日々欠かさず行われ、尽きることのない聖性の源泉となっています。キリストの聖体の祭日に信者がうやうやしく参加する聖体行列は、主から与えられた恵みであり、毎年、参加者に喜びをもたらしています。聖体に対する信仰を示す積極的なしるしは、ほかにもいろいろと挙げることができるでしょう」(同10)。
 コルニヨンの聖ジュリエンヌを思い起こすことにより、わたしたちも、聖体におけるキリストの現実の現存への信仰を新たにしたいと思います。『カトリック教会のカテキズム要約』が示すとおり、「イエス・キリストは、唯一で比類のないしかたで聖体の中に現存しておられます。実際、イエス・キリストは、真に、現実に、実体的に、つまり、そのからだと血、霊魂と神性とともに現存しておられます。だから聖体の中に、神であり人である全キリストが、秘跡的に、つまりパンとぶどう酒の形態のもとに現存しておられます」(同282)。
 親愛なる友人の皆様。主日のミサにおける聖体のキリストとの出会いを忠実に守ることは、信仰の歩みにとって不可欠です。しかし、聖櫃のうちにおられる主を頻繁に訪れることにも努めようではありませんか。聖別されたホスチアに礼拝のまなざしを注ぐことによって、わたしたちは神の愛のたまものと出会います。イエスの受難と十字架、そしてまた復活と出会います。わたしたちが礼拝のまなざしを注ぐことを通して、主はわたしたちをご自身へと引き寄せます。ご自身の神秘へと引き寄せます。それは、主がパンとぶどう酒を変化させるのと同じように、わたしたちを造り変えるためです。聖人たちはつねに聖体との出会いのうちに力と慰めと喜びを見いだしてきました。聖体賛歌『隠れたる神性よ』(Adoro te devote)のことばをもって、至聖なる秘跡のうちにおられる主に繰り返していおうではありませんか。「常いやまし給え、わが御身への信仰、御身への希望、御身への愛を」(竹島幸一訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成14 トマス・アクィナス』平凡社、1993年、819頁)。ご清聴ありがとうございます。

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