教皇ベネディクト十六世の2010年11月21日の「お告げの祈り」のことば 王であるキリスト

教皇ベネディクト十六世は、王であるキリストの祭日の11月21日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です( […]


教皇ベネディクト十六世は、王であるキリストの祭日の11月21日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「今日、イタリアの教会共同体は、司教団の呼びかけで、とくにイラクで迫害され、差別されているキリスト信者のために祈ります。わたしもいのちと平和の神へのこの一致した祈りに加わります。世界のあらゆる地域ですべての人に信教の自由が保障されますように。わたしは神に最高の信仰のあかしをささげるこれらの兄弟姉妹に寄り添います。
 今日の聖なるおとめマリアの神殿への奉献の記念日にあたり、教会はとくに深い愛情をもって、禁域で生活する男子・女子修道者に思いを致します。今日は『祈る人のための日』です。この日は、隠世修道共同体を具体的な形で支えるようあらためて呼びかけます。この共同体の人々に心からわたしの祝福を送ります。
 今日は『交通事故の犠牲者のための日』でもあります。わたしは、交通事故の犠牲者のかたがたを祈りの中で思い起こすことを約束しながら、交通事故の防止に努めてくださるよう促します。この努力はよい結果をもたらしています。賢明と規則の尊重が自分をも他人をも守る第一の方法であることをつねに思い起こしてください」。
この日教皇は午前9時30分からサンピエトロ大聖堂で、11月20日(土)に親任した24名の新しい枢機卿とともにミサを司式しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 たった今、サンピエトロ大聖堂で、宇宙の王である主イエス・キリストの祭日の典礼を終えたところです。昨日親任した24名の新しい枢機卿もこの典礼を共同司式しました。王であるキリストの祭日は、1925年に教皇ピオ十一世(在位1922-1939年)によって制定され、やがて第二バチカン公会議後、典礼暦年の終わりに置かれました。聖ルカによる福音書は、偉大な絵画のように、十字架につけられたイエスの王としての姿を示します。民の指導者や兵士たちは「すべてのものが造られる前に生まれたかた」(コロサイ1・15)をあざ笑い、このかたが自分自身を死から救うことができるかどうか見ようとして、このかたを試みました(ルカ23・35-37参照)。しかし、まさに「十字架においてイエスは、愛そのものである神の『高み』に挙げられるのです。わたしたちはこの十字架において『イエスを知る』ことができるのです。・・・・イエスはわたしたちに神を与えるからこそ、彼はわたしたちに『いのち』を与えるのです。彼は自ら神と一つであるからこそ、・・・・彼は神をわたしたちに与えることができるのです」(Benedetto XVI, Gesù di Nazaret, Milano 2007, 399. 404〔『ナザレのイエス』里野泰昭訳、春秋社、2008年、437、442頁〕)。実際、主が二人の犯罪人と一緒にされたように思われるときに、犯罪人の一人は、自分の罪を自覚し、真理に心を開き、信仰へと導かれて、「ユダヤ人の王」に向かって願います。「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)。「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1・17)。このかたから、いわゆる「よい盗賊」はただちにゆるしと天の国に入る喜びを与えられます。「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。イエスはこのことばで、十字架の「玉座」から、限りないあわれみをもってすべての人を受け入れます。聖アンブロシウス(339頃-397年)は解説していいます。「これは、人が願うべき回心のよい例です。盗賊にはすぐに、ゆるしが与えられました。そして、恵みは、願い以上に満ち溢れました」。アンブロシウスはいいます。「実際、主はつねに願う以上のものをお与えになります。・・・・いのちはキリストとともにあります。なぜなら、キリストのおられるところにみ国があるからです」(『ルカ福音書注解』:Expositio Evangelii secundum Lucam X, 121, CCL 14, 379)。
 親愛なる友人の皆様。主はわたしたちに愛の道を示し、この道を歩むよう招いてくださいます。わたしたちはこの愛の道をキリスト教芸術の中にも仰ぎ見ることができます。実際、かつて「聖堂を建設する際、主が王として再臨することが――これは希望を表します――東面の壁に描かれるのが慣わしとなりました。また、西面の壁には、通常、最後の審判が描かれました。最後の審判は、わたしたちが自分の人生に責任を負うことを表します」(教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』41)。すなわち、神の限りない愛への希望と、神の愛に従ってわたしたちの人生を整えなければならないという務めです。新約聖書から霊感を受けて描かれたイエスの姿を仰ぎ見るとき、(古代の教会会議が教えるとおり)わたしたちは「神のことばの崇高さとへりくだりを理解するよう導かれます。・・・・そして、このかたの肉体のうちでの生涯、受難と救いをもたらす死、そして、そこから世にもたらされたあがないを思い起こします」(トルッロ教会会議〔691ないし692年〕教令第82条)。「そうです。わたしたちはこのような姿を必要としています。それは、十字架につけられたかたの刺し貫かれたみ心のうちに神の神秘を認めることができるようになるためです」(J. Ratzinger, Teologia della liturgia. La fondazione sacramentale dell’esistenza cristiana, Libreria Editrice Vaticana, 2010, 69)。
 今日はおとめマリアの神殿への奉献の記念日です。新たに枢機卿団に加えられた人々と、永遠のいのちを目指すわたしたちの地上の歩みを、おとめマリアにゆだねたいと思います。

略号
CCL Corpus Christianorum Series Latina

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