2011年「世界平和の日」(1月1日)メッセージ

2011年「世界平和の日」メッセージ
(2011年1月1日)
「平和への道としての信教の自由」

2011年「世界平和の日」メッセージ
(2011年1月1日)

「平和への道としての信教の自由」

1 新年の初めにあたり、皆様お一人おひとりの無事と安寧、とくに平和をお祈り申し上げます。残念ながら、終わりに近づいた2010年は、あいかわらず迫害と差別と恐ろしい暴力行為と宗教的不寛容によって特徴づけられるものでした。

 わたしの思いはとくに愛する国イラクに向かいます。イラクは、安定と和解に向かう途上で、暴力と争いにさらされ続けています。わたしは、最近、キリスト教共同体が体験している苦しみ、とくにバグダッドのシリア-カトリック教会の絶えざる御助けの聖母司教座聖堂に対する不当な攻撃を思い起こします。そこでは10月31日に、ミサに集まっていた2名の司祭と50名以上の信徒が殺害されました。その後、他の攻撃が続いて行われました。攻撃は民間住宅に対しても行われました。これらの攻撃によって、キリスト教共同体の間に恐怖が広まり、多くの人がよりよい生活を求めて移住したいと望むようになりました。わたしはこれらのかたがたにわたしと全教会が連帯することを約束します。この連帯は、最近開催された世界代表司教会議(シノドス)中東のための特別総会でも具体的な形で表明されました。シノドスは、イラクと中東全土のカトリック共同体に対して、交わりのうちに生き、自分たちの国で勇気あるあかしを行い続けるよう励ましを送りました。

 これら人類家族におけるわたしたちの兄弟姉妹の苦しみを和らげようと努める諸政府に心から感謝申し上げるとともに、すべてのカトリック信者にお願いします。暴力と不寛容の犠牲となっている信仰における兄弟のために祈り、彼らを支えてください。このことに関連して、わたしは、平和への道としての信教の自由について若干の考察を行うことがとりわけ適切だと感じます。世界の一部の地域では、生命と個人の自由を犠牲にしなければ自由に自らの宗教を告白できないことを、悲しく思います。他の地域では、宗教者と宗教的象徴に対する偏見と敵意が、陰湿かつ巧妙な形で見られます。現在、信仰を理由とした迫害をもっとも強く受けている宗教的グループはキリスト教徒です。多くのキリスト教徒は、自分たちが真理を求め、イエス・キリストを信じ、信教の自由の尊重を心から願うがゆえに、日々恐怖を味わい、しばしば恐怖のうちに生活しています。このような状況は受け入れがたいものです。なぜなら、それは神と人間の尊厳を冒瀆するからです。さらにそれは、安全と平和を脅かし、真の完全な人間的発展の実現を妨げるからです(1)。

 信教の自由は、人間の人格の独自性を示します。なぜなら、わたしたちは信教の自由によって、個人生活と社会生活を神に向けることができるからです。人格の本質、意味、目的は、神の光に照らされることによって完全に理解されます。信教の自由を否定したり、恣意的に制限するなら、人間の人格をおとしめる見方を伸長させます。宗教の公共的役割を低下させるなら、不正な社会を作り出します。このような社会は人間の人格の真の本性を考慮しないからです。こうして人類家族全体の真の恒久的平和の発展が妨げられます。

 そのため、わたしはすべての善意の人に願います。すべての人が自由に自分の宗教または信仰を告白することができ、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして(マタイ22・37参照)神への愛を表すことができるような世界を築くためにあらためて努力してください。このような思いから、「平和への道としての信教の自由」をテーマとする「第44回『世界平和の日』メッセージ」を書き送ります。

神聖な生存権と、霊的生活を送る権利

2 信教の自由は、人間の人格の尊厳そのものに根ざしています(2)。人間の人格の超越的性格を無視したり、ないがしろにすることはできないからです。神は人をご自分の像と似姿に従って創造されました(創世記1・27参照)。だから人は皆、霊的な点から見ても完全な意味で神聖な生存権を備えています。人間の人格は、自らが霊的存在であることを認めず、超越に心を開かなければ、自分のうちに引きこもり、人生の意味に関する心の奥深くにある問いに答えることができません。永遠の倫理的価値と原則を自分のものとすることができません。そして、本来の意味での自由を味わい、公正な社会を築くこともできません(3)。

 聖書は、わたしたち自身の経験と一致して、人間の尊厳の深い価値を啓示します。「あなたの天を、あなたの指のわざをわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神にわずかに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、み手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(詩編8・4-7)。

 わたしたちは、人間本性の最高の本質を仰ぎ見ることによって、詩編作者と同じ驚きを味わうことができます。わたしたちの本性は、神秘へと開かれていることとして現れます。それは自分と宇宙の根拠についての深い問いを発することができます。万物、また一人ひとりの人と民族の起源と目的である神の最高の愛を深く映し出します(4)。人格の超越的な尊厳は、ユダヤ・キリスト教の知恵の本質的な価値です。しかし、すべての人は、理性を用いることによってこれを認めることができます。人格の尊厳は、人間の物質的性格を超えて、真理を追求できる力です。わたしたちはこれを、人間の完成を目指す社会の建設のために不可欠な、普遍的善として認めなければなりません。生存権や信教の自由をはじめとする、人間の尊厳の本質的要素を尊重することは、あらゆる社会規範・法規範が道徳的に正当なものであるための条件です。

信教の自由と相互の尊重

3 信教の自由は道徳的自由の起源です。真理と完全な善へと開かれていること、すなわち神へと開かれていることは、人間本性に根ざします。この開きがすべての個人に完全な尊厳を与え、人間どうしの尊重を保障します。それゆえわたしたちは、信教の自由を、単なる強制の免除ではなく、むしろより根本的に、真理に従って自らの選択を秩序づける力と考えなければなりません。

 自由と尊重は切り離せません。実際、「個人も社会的団体も、他人の権利と他人に対する自分の義務とすべての人の共同の利益とを考慮すべき道徳的義務を負わされている」(5)のです。

 神に敵対し、無関心な自由は、自己自身を否定し、他者に対する完全な尊重を保障してくれません。究極的に真理と善を追求することができないと思う意志は、不安定で偶然的な利害に苦しむ人を救うための客観的な理由も目的ももつことができません。こうした意志は、真に自由で良心的な決断によって守り、築くべき「アイデンティティ」をもちえません。その結果、この意志は他者の「意志」から尊重されることを要求することもできません。他者の意志も、自己の存在の深奥と分離し、それゆえ他の「諸理由」を示すこともあれば、何の「理由」も示さないこともあるからです。道徳的相対主義が平和共存のための鍵を与えてくれるという幻想は、実際には、分裂や人間の尊厳の否定の原因となっています。それゆえ、統一された人間の人格の中には二つの次元があることを認めなければならないことが分かります。すなわち、宗教的次元と社会的次元です。このことに関連して、「宗教者が、市民として積極的に活動するために、自分自身の一部である信仰を抑制しなければならないというのは、考えられないことです。自らの権利を享受するために神を否定しなければならないということは、決してありません」(6)。

自由と平和の学びやとしての家庭

4 信教の自由が平和への道であるなら、宗教教育は、他者を兄弟姉妹と考えるように若い世代の人を導くための常道です。若い世代は他の人々とともに歩み、ともに働くよう招かれています。それは、すべての人が一つの人類家族の一員として生きていると感じることができるためです。だれも人類家族から排除されてはならないからです。

 家庭は、男と女の密接な結びつきと相補い合う関係の表現である、結婚を基盤とします。ですから家庭は、子どもの社会的、文化的、道徳的、霊的教育と成長のための第一の学びやとなります。子どもはつねに父親と母親のうちに、真理の追求と神への愛を目指した第一の生活のあかしを見いだすことができなければなりません。両親はつねに責任あるしかたで、強制することなしに、自分たちの信仰と価値と文化の遺産を、子どもたちに自由に伝えなければなりません。人間社会の第一の細胞である家庭は、個人、国家、世界のあらゆる次元における一致した共存関係を訓練するための第一の場であり続けます。知恵が示すとおり、これこそが力強く兄弟愛に満ちた社会組織を築くための道です。このような社会の中で、若者は人生において、自由な社会において、理解と平和の精神のもとで、自らの責任を引き受ける準備をすることができるのです。

共通の遺産

5 人格の尊厳に根ざした基本的な権利と自由の中で、信教の自由は特別な位置を占めるといわなければなりません。信教の自由が認められるなら、人間の人格の尊厳は根源的に尊重され、また国民の道徳性(エートス)と制度は強められます。これに対して、信教の自由が否定され、人々が宗教・信仰を告白し、それに従って生きることを妨げられるなら、人間の尊厳は侵害されます。その結果、正義と平和が脅かされます。正義と平和は、最高の真理と善の光のもとに据えられた公正な社会秩序に根ざしているからです。

 その意味で、信教の自由は健全な政治的・法的文化の到達点だということもできます。信教の自由は不可欠な善です。すべての人は、個人としてまた共同体として、自由に自己の宗教ないし信仰を告白する権利を行使できなければなりません。この告白は、公的にも私的にも、教えと実践と出版と礼拝と儀式を通じて行われるべきです。人が他の宗教に帰属することを望む場合も、またいかなる宗教を告白することも望まない場合も、それを妨げてはなりません。このことに関連して、国際法は諸国家にとっての模範また本質的な基準です。国際法は、公共の秩序が正当に要求することを守るかぎり、信教の自由が損なわれることを決して認めないからです(7)。それゆえ国際秩序は、宗教的性格をもった権利が、生存権や個人の権利と同じ位置づけをもつことを認めます。このことは、宗教的権利が、人権の本質的核心、すなわち、人定法が決して否定することのできない普遍的自然権に属することを証明します。

 信教の自由は宗教者だけの遺産ではありません。それは地上に住む民の家族全体の遺産です。信教の自由は立憲国家に不可欠の要素です。信教の自由を否定するなら、すべての基本的権利と自由を侵害することになります。なぜなら、信教の自由はすべての基本的権利・自由の総合であり、かなめ石だからです。信教の自由は「他のあらゆる人権が尊重されているかどうかを調べるリトマス試験紙」(8)です。信教の自由は、わたしたちのもっとも固有の意味で人間的な能力の行使を推進しながら、完全な発展の達成のために不可欠な前提を作り出します。完全な発展は、あらゆる個々の次元を含めた人格全体にかかわるからです(9)。

宗教の公共的次元

6 信教の自由は、他の自由と同様、個人の領域から出発して、他者との関係の中で実践されます。関係を欠いた自由は完全な自由ではありません。信教の自由は個人的な次元だけに限定されません。それは共同体、社会の中で、人格の関係的本質と、宗教の公共的性格に従って実現されます。

 関係は信教の自由の決定的な構成要素です。信教の自由は、宗教者の共同体が共通善のための連帯を実践するよう促すからです。こうした共同体的次元において、各個人は、独自でかけがえのないものであり続けながら、完成され、完全に実現されるのです。

 宗教団体による社会貢献は明白な事実です。多くの慈善組織や文化組織が、社会生活において宗教者が建設的役割を果たすことを示しています。政治的領域において宗教が倫理的貢献をなすことはさらに重要です。宗教を疎外し、禁止すべきではありません。むしろ宗教を、共通善の推進のために積極的な貢献をなすものと考えるべきです。このことに関連して、文化の宗教的次元に注目すべきです。文化は、宗教の社会的影響、とくに倫理的影響のおかげで数世紀にわたって築かれてきたからです。文化の宗教的次元は、同じ信仰をもたない人を差別しません。むしろそれは社会の一致と統合と連帯を強めます。

自由と文明のための力である信教の自由――信教の自由の侵害がもたらす危険

7 既成秩序の転覆、資源の隠匿、単独集団による権力の独占といった、隠された利害を偽装するための信教の自由の侵害は、社会に甚大な損害を与える可能性があります。狂信主義、原理主義をはじめとする人間の尊厳に反するさまざまな実践を、決して正当化することはできません。宗教の名のもとにそれらが実践される場合はなおさらです。宗教の告白を力ずくで侵害することも、強制することも許されません。諸国家とさまざまな人間共同体は、次のことを決して忘れてはなりません。すなわち、信教の自由は真理の追求の条件であり、真理は暴力によって強制されるものではなく、「真理そのものの力によって」(10)主張されます。その意味で、宗教は、市民社会と政治社会を築くための積極的な推進力であるといえます。

 世界の大宗教が文明の発展に寄与してきたことをだれが否定できるでしょうか。誠実に神を探求することは、人間の尊厳をいっそう尊重するよう人を導きます。キリスト教共同体とその価値と原則の遺産は、個人と民族が自らのあるべき姿と尊厳を自覚し、民主的制度が作られ、人権とそれに対応する義務が認められる上で大いに貢献しました。

 現代のますますグローバル化しつつある社会においても、キリスト信者は、市民生活、経済生活、政治生活に責任をもって参加し、愛と信仰をあかしすることを通じて、正義と完全な人間性の発展と人間にかかわることがらの正しい秩序づけを追求するという、困難ではあっても刺激的な課題に貢献するよう招かれています。宗教を公共生活から排除するなら、公共生活から超越へと開かれた次元を奪うことになります。超越へと開かれた次元という、この根本的な経験を欠くなら、公共生活は、社会を普遍的な倫理原則へと導き、国内においても国際的次元においても、基本的な権利と自由を認め、尊重する法秩序を据えることが困難になります。この基本的な権利と自由は、1948年の『世界人権宣言』の(残念ながら今なお無視され、否定されている)諸目的によって明らかにされているものです。

正義と教養の問題――国家の積極的な世俗性を脅かす、原理主義と宗教者への敵意

8 いかなる狂信主義や宗教的原理主義も断固として非難する者は、同様に、宗教に対するいかなる敵意にも反対しなければなりません。宗教に対する敵意は、市民生活と政治生活における宗教者の公共的役割を制限するからです。

 宗教的原理主義と世俗主義が、ともに正当な多元主義と世俗性の原理を拒絶する極端な形態である点で似通っていることは、明らかです。宗教的原理主義と世俗主義は、ともに、人間の人格に関する制約された部分的な見方を絶対化し、宗教的な体制完全保存主義(アンテグリスム)または理性主義の形をとります。宗教を暴力によって強制または拒絶する社会は、個人と神に対して不正であるだけでなく、社会自体に対しても不正を行います。神は人類を愛の計画によって招きます。この愛の計画は、本性的次元と霊的次元を含めた全人格に働きかけながら、人間が自由で責任ある応答を行うことを求めます。この応答は、個人としても共同体としても、心と存在の全体をもって行われます。人格と人格を構成するあらゆる要素の表現である社会生活および社会組織も、超越へと開かれることを促さなければなりません。まさにそのために、法律と社会制度の形態も、市民の宗教的次元を無視したり、まったく度外視することはできません。法律と社会制度は、自らの崇高な使命を自覚した市民の民主的活動を通じて、人格の本来の性格を適切に反映し、人格の宗教的次元を支えなければなりません。宗教は国家が造り出したものではないので、国家がそれを操作してはなりません。むしろ国家は宗教を認め、尊重すべきなのです。

 国内的次元と国際的次元を問わず、法体系が宗教的あるいは反宗教的な狂信主義を許したり、黙認したりするなら、法体系は自らの使命を放棄することになります。法体系の使命とは、正義とすべての人の権利を守り、推進することだからです。この問題を立法者ないし多数派の裁量にゆだねてはなりません。なぜなら、キケロ(前106-43年)があるところで指摘したように、正義は、法を作ったり適用したりする行為を超えたものだからです。正義とは「各人の尊厳を認めること」(11)を意味します。信教の自由が本質的に守られ、実現していなければ、正義は制限され、侵害されます。そして、偶像ないし相対的な善による支配に陥る危険にさらされます。相対的な善はやがて絶対化されるのです。これらすべてのことは、社会を政治的・イデオロギー的全体主義の危険にさらします。全体主義は、公権力を強調しながら、公権力と競合する可能性のある良心、思想、信教の自由を格下げし、制限するのです。

国家機関と宗教機関の対話

9 本来の宗教が示す原則と価値の遺産は、諸国民とその道徳性(エートス)を豊かにする源泉です。この遺産は人々の良心と精神に直接語りかけ、道徳的回心をすべきことを思い起こさせます。また、徳を実践し、兄弟姉妹であり、大きな人類家族の構成員である他者に愛をもって接するよう促します(12)。

 国家機関の積極的な世俗性をふさわしいしかたで尊重しながら、宗教の公共的次元をつねに認めなければなりません。国家機関と宗教機関の健全な対話は、人間の人格と社会の一致の十全な発展にとってきわめて重要です。

愛と真理に根ざした生活

10 社会の多民族化、多宗教化を特徴とするグローバル化した世界において、大宗教は人類家族の一致と平和にとって重要な役割を果たすことができます。宗教的信念と、理にかなった共通善の追求に基づいて、宗教者は、信教の自由との関連において、自らの取り組みを責任あるしかたで示すよう招かれます。多様な宗教文化が存在する中で、市民の共存を促す要素を重んじ、人間の尊厳に反するいかなるものも拒絶することが必要です。

 国際社会が諸宗教に対して、諸宗教が「よい生き方」を示すために提供する公共空間は、真理と善に関する意見の一致の基準、また道徳的合意を作り出すための助けとなります。真理と善に関する意見の一致と道徳的合意は、公正で平和的な共存にとって不可欠です。大宗教の指導者は、それぞれの教団における立場、影響力、権威に基づいて、率先して互いに尊重し合い、対話するよう招かれています。

 キリスト教徒も、主イエス・キリストの父である神への信仰により、兄弟姉妹として生きるよう促されます。人と国民の「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ11・9)――キリスト教徒は教会の中で出会い、そのような世界を築くためにともに働くのです。

共通の探求としての対話

11 教会にとって、異なる宗教の代表者との対話は、共通善のためにすべての宗教教団と協力するための重要な手段です。教会は諸宗教の中に見いだされる真実で貴いものを何も退けません。教会は「これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察します。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なってはいますが、すべての人を照らす『真理』のある光線を示すことがまれではない」(13)からです。

 相対主義や宗教混淆主義の道を進むべきではありません。実際、「教会はたえずキリストを告げ、また告げなければなりません。キリストは『道であり、真理であり、いのちであり』(ヨハネ14・6)、キリストにおいて人は宗教生活の充満を見いだすのであって、キリストにおいて神は万物をご自分と和解させたのです」(14)。しかし、だからといって、生活の諸領域において、対話と共通の真理の探求が排除されるわけではありません。なぜなら、聖トマス・アクィナス(1224/1225-1274年)がいうとおり、「だれが主張するものであれ、あらゆる真理は聖霊から来る」(15)からです。

 2011年は、1986年に教皇ヨハネ・パウロ二世によってアッシジで世界平和祈祷集会が開催されてから25周年を迎えます。このとき世界の大宗教の指導者たちは、宗教は一致と平和をもたらすのであり、分裂と争いをもたらすのではないことをあかししました。この体験を思い起こすことによって、わたしたちは、将来、すべての宗教者が、自らを正義と平和をもたらす者と考え、また実際にそうなることを希望できます。

政治と外交における道徳的真理

12 政治と外交は、世界の大宗教が示す道徳的・霊的遺産に目を向けるべきです。それは、普遍的真理、原則、価値を認識し、確認するためです。こうした普遍的真理、原則、価値を否定するなら、人間の人格の尊厳を否定することになります。しかし、政治と外交の世界で道徳的真理を推進するとは、実際にいかなることを意味するのでしょうか。それは、客観的かつ完全な事実認識に基づいて、責任をもって行動することです。平和、発展、人権を口実にして偽りの価値を推進するために真理と人間の尊厳を奪い取るような政治思想を解体することです。実定法の基盤を自然法の諸原則の上に置く、揺るぎない取り組みを推進することです(16)。これらのことは皆、世界の国民が1945年の『国際連合憲章』に記した人間の人格の尊厳と価値の尊重に即し、またそのために必要です。『国際連合憲章』は、国内的・国際的次元での共存を左右する規範、制度、体系の基準としての普遍的価値と道徳原則を示しているのです。

憎しみと偏見を超えて

13 歴史の教訓と、諸国家、国際機関と地域機関、非政府組織(NGO)、そして基本的な権利と自由を守るために日夜働く多くの善意の人々の努力にもかかわらず、現代世界には今なお宗教に基づく迫害、差別、暴力行為と不寛容が見られます。とくにアジアとアフリカでは、宗教的少数者に属する人々がおもな犠牲者となっています。彼らは、威嚇や、権利、基本的自由、本質的な善の侵害によって、自由に宗教を告白すること、また改宗することを妨げられています。個人の自由と生命そのものが奪われることさえあります。

 すでに述べたとおり、もっと陰湿な形での宗教への敵意も存在します。この敵意は、西欧諸国において、ときとして歴史の否定と、大多数の市民のアイデンティティと文化を反映した宗教的象徴の拒絶によって示されます。こうした敵意が憎しみや偏見をあおることもしばしばです。こうした敵意は、落ち着きとバランスのある多元主義や、世俗的な政治制度と矛盾します。それが将来の世代から自分の国の価値ある霊的遺産に触れる機会を奪う危険があることはいうまでもありません。

 宗教の擁護は、宗教団体の権利と自由を擁護することによって行われます。それゆえ、世界の大宗教の指導者と国家指導者は、信教の自由の推進と保護、とくに宗教的少数者の擁護のためにあらためて努力しなければなりません。宗教的少数者は、宗教的多数者のアイデンティティの脅威ではなく、むしろ、対話を進め、互いの文化を豊かにするための機会を与えます。宗教的少数者の擁護は、善意と開放性と互恵性の精神を堅固にするための理想的な方法です。善意と開放性と互恵性の精神こそが、世界のあらゆる地域で基本的な権利と自由を守ることを可能にするのです。

世界における信教の自由

14 最後にわたしは、とくにアジア、アフリカ、中東、とりわけ神が選び祝福した地である聖地で、迫害と差別と暴力と不寛容によって苦しむキリスト教共同体の皆様に向けて一言申し上げたいと思います。わたしは、皆様を父として愛し、皆様のために祈ることをあらためて約束します。そして、すべての政府当局者にお願いします。これらの地に住むキリスト教徒に対するあらゆる不正がなくなるよう、直ちに行動してください。現在、困難に直面しているキリスト信者が失望することがありませんように。なぜなら、福音をあかしすることは、今も、これからもつねに、反対を受けるしるしだからです。

 主イエスのことばを心に留めようではありませんか。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。・・・・義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。・・・・わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5・4-12)。そして「わたしたちが唱える『主の祈り』の中で、神のゆるしを祈り求めるとき、どんな誓いをしているか、思い起こしてください。次のように唱えるとき、わたしたちは求めている恵みの大きさと条件とを、自分たちで決めることになるのです。『わたしたちの負い目をゆるしてください、わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたように』(マタイ6・12)」(17)。暴力によって暴力に打ち勝つことはできません。わたしたちが悲しみの叫び声を上げるとき、同時につねに信仰と、希望と、わたしたちの神への愛のあかしを示すことができますように。わたしはまた願います。西洋、とくにヨーロッパで、キリスト信者に対する敵意と偏見がなくなりますように。キリスト信者は、福音に示された価値と原則に従って生活を方向づけようと決意しているからです。むしろヨーロッパが自らのキリスト教的起源に立ち戻ることができますように。ヨーロッパのキリスト教的起源は、ヨーロッパが歴史における自らの過去と現在と将来の役割を理解するために何よりも重要だからです。そこからヨーロッパは、すべての民族との真摯な対話を深めながら、正義と一致と平和を味わうことができるのです。

平和への道としての信教の自由

15 世は神を必要としています。世は普遍的で共通の倫理的・霊的価値を必要としています。そして宗教は、この探求に対して、すなわち、国内的次元でも国際的次元でも公正で平和な社会秩序を築くために、貴重な貢献をすることができます。

 平和は神の与えてくださるたまものであると同時に、決して完成しえない課題でもあります。神と和解した社会は平和に近づきます。平和は、単に戦争がない状態でもなければ、軍事的・経済的覇権がもたらすものでもありません。ましてそれは、あてにならない謀略でも、巧妙な操作でもありません。むしろ平和は、個人と国民を含めた清めと、文化的、道徳的、霊的向上がもたらすものです。このような過程の中で、人間の尊厳が完全に尊重されるからです。平和をもたらす者となりたい人、とくに若者の皆様にお願いします。心の中でささやきかける声に耳を傾けてください。そこから、真の平和に達するための揺るぎない基準を、うむことのない力を、神のうちに見いだしてください。この力こそが、世に新たな方向性と精神を与え、過去の過ちを乗り越えさせることができるのです。教皇パウロ六世の知恵と先見性によって、「世界平和の日」が定められました。教皇はいいます。「人を殺したり、人類を滅亡させるために使用される武器ではない別の武器によって平和をもたらすことが、何にもまして必要だということなのです。何よりも必要なのは、国際法の威信を高め、権威を強めるような道徳的武器であります。まず第一には、さまざまな協定を守るということです」(18)。信教の自由は、平和のための真の武器です。この武器は歴史的、預言的使命を帯びています。平和は、人間の人格の奥底にある資質と力を完全に実現します。この人間の人格の資質こそが、世を変革し、よりよいものとするのです。この資質は、たとえ深刻な不正と、物質的・精神的貧困の最中にあっても、正義と平和に基づく未来への希望を与えます。地上のあらゆるところに住む、あらゆる状態の人と社会が、平和への道としての信教の自由を直ちに味わうことができますように。 

2010年12月8日、バチカンにて、
教皇ベネディクト十六世

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