教皇ベネディクト十六世の2010年12月12日の「お告げの祈り」のことば 忍耐すること

教皇ベネディクト十六世は、待降節第三主日の12月12日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタ […]


教皇ベネディクト十六世は、待降節第三主日の12月12日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

この日のサンピエトロ広場には、恒例に従い、クリスマスの馬小屋に飾る幼子イエスの像を祝福してもらうために、ローマの2,000人の子どもたちが集まりました。「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日はまず、恒例に従い、馬小屋に飾る『幼子イエス』の祝福を受けるために来てくださった、ローマの子どもと青年の皆様にごあいさつ申し上げます。親愛なる友人である若者の皆さん。幼子をグロット(洞窟)や馬小屋に飾るとき、教皇のため、また教皇の意向のための祈りを唱えてください。ありがとうございます。ご両親、先生、カテキスタのかたがたにもごあいさつ申し上げます。この集いを計画してくださったチェントロ・オラトーリ・ロマーニと、サンタ・マルタ小児病院の皆様にも感謝申し上げます」。

この日の午前、教皇はヴィア・プレネスティーナ(トッレ・アンジェラ)にあるローマ教区のサン・マッシミリアノ・コルベ小教区を訪問し、ミサをささげました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の待降節第三主日の典礼は、聖ヤコブの手紙の箇所を示します。この箇所は次の勧告で始まります。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5・7)。現代において、堅忍ないし忍耐の価値を強調することが、これまでになく大切だと、わたしは思います。堅忍と忍耐は、わたしたちより上の世代のだれもが備えている徳でしたが、現代世界ではあまり人気がありません。現代世界はむしろ、変化と、つねに新しく異なる状況に適応する力を評価するからです。このような側面も人間の性質の一つです。ですから待降節は、こうした面をないがしろにするわけではありませんが、わたしたちを次のように招きます。強靭な心、すなわち魂の抵抗力を強めてください。そこからわたしたちは、なかなか訪れない善を失望せずに待ち望むことができるからです。そればかりか、その到来を深い信頼をこめて期待し、準備することができるからです。
 聖ヤコブはいいます。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」(ヤコブ5・7-8)。農夫のたとえはとても印象的です。畑に種をまく農夫は、数か月の間、忍耐強く待ち続けなければなりません。しかし農夫は、秋の雨と春の雨のおかげで、種がしばらくすれば実を結ぶことを知っています。農夫は運命論者ではありません。むしろ彼は、信仰と理性を釣り合いのとれた形で結びつける精神の模範です。なぜなら、農夫は一方で、自然法則を知りつつ、自分の仕事を熱心に果たします。他方で彼は摂理に信頼します。なぜなら、ある種の根本的なことがらは自分の力で自由にできるものではなく、神のみ手にゆだねられているからです。忍耐と堅忍は、人間の努力と神への信頼を統合するのです。
 聖書はいいます。「心を固く保ちなさい」。どうすればこのようにできるでしょうか。どうすれば自分の心を固く保つことができるでしょうか。心は弱いものです。そして心は、わたしたちを取り囲む文化によっていっそう不安定にされているからです。しかし、わたしたちには助けがあります。すなわち、神のことばです。実際、万物は過ぎ去り、変わりますが、主のことばは過ぎ去ることがありません。人生の出来事がわたしたちをとまどわせ、あらゆる確信が揺らぐかのように思われても、わたしたちには方向を見いだすための羅針盤があります。漂流しないための錨(いかり)があります。ここで預言者が模範を与えてくれます。神は預言者に、神の名をもって語るよう招いたからです。預言者は主のことばのうちに喜びと力を見いだします。人はしばしば、やがて間違いだと分かる道に幸福を求めます。しかし、預言者はまことの希望を告げ知らせます。この希望は欺くことがありません。なぜならそれは、神への信頼に根ざしているからです。あらゆるキリスト信者には、洗礼の力によって、預言者の資格が与えられています。どうかすべてのキリスト信者が、神のことばに熱心に耳を傾けることによって、この資格を再発見し、はぐくむことができますように。福音はおとめマリアを祝福されたかたと呼びます。マリアは主のことばがかならず実現すると信じたからです(ルカ1・45参照)。どうかおとめマリアの執り成しによって、わたしたちがこの恵みを得ることができますように。

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