教皇ベネディクト十六世の251回目の一般謁見演説 主の降誕の神秘

12月22日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の251回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、降誕祭を間近にして、「主の降誕の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の一般謁見は降誕祭前の最後のものとなります。わたしたちは期待と驚きに満たされて、かの「場所」に近づいています。この「場所」で、わたしたちとわたしたちの救いのためにすべてが始まりました。この「場所」で、すべてが完成しました。この「場所」で、世と人の心は、待ち望んでいた神の現存と出会い、交わりました。わたしたちはすでに今から、あの小さな光を見る喜びを前もって味わうことができます。この小さな光は、ベツレヘムの洞窟から世を輝かせ始めます。わたしたちは典礼の招きにより待降節を過ごしてきました。わたしたちはともに待降節の中で、救い主の到来という偉大な出来事を感謝をもって進んで受け入れ、救い主が世に入って来られることを驚きに満たされて仰ぎ見る準備をしてきました。
 主の降誕に先立つ日々を特徴づける、喜びに満ちた期待が、キリスト信者の根本的な態度であることは間違いありません。キリスト信者は、わたしたちのただ中に住むために来られるかたとの新たな出会いを、実り豊かに体験したいと望むからです。このかたこそ、人となられた神の子、キリスト・イエスです。わたしたちは、メシアの到来を最初に迎え入れた人々のうちに、このような心構えを見いだし、それを自分のものとします。すなわち、ザカリアとエリサベト、素朴な民の羊飼いたち、そしてとくにマリアとヨセフです。彼らは自ら、恐れと、何よりもキリストの誕生の神秘に対する喜びを味わいました。旧約の全体は一つの大いなる約束です。この約束は、力に満ちた救い主の到来によって実現されるはずでした。とくに預言者イザヤの書がこのことをあかしします。イザヤ書は、あがないを求めて歴史と全被造物が味わう苦悩をわたしたちに語ります。このあがないの目的は、全世界に新たな力と方向づけを与えることです。ですから、聖書に登場する人物の期待だけでなく、わたしたちの希望も世々を通じて自らの場と意味を見いだします。わたしたちはこの日々の間、この希望を持ち続けてきました。そしてわたしたちはこの希望によって、生涯の歩み全体を進み続けることができます。実際、人間の経験全体はこの深い感情によって導かれます。それは、わたしたちが思いと心をもって見つめ、見いだした、もっとも真実で、もっとも美しく、もっとも偉大なものと、わたしたちが出会うことができ、それらがわたしたちの目の前で現実となり、わたしたちを再び立ち上がらせてくれることへの望みです。
 「見よ、全能の主が来られる。このかたはインマヌエル、われらとともにおられる神と呼ばれる」(12月21日のミサの入祭唱)。この数日間、わたしたちはこのことばをしばしば唱えます。典礼の季節は神秘を再び実現してくれます。わたしたちを罪と死から救うために来られるかたは今や戸口の前におられます。このかたが、アダムとエバが不従順に陥った後、わたしたちをもう一度抱き、まことのいのちへの入り口を開いてくださいます。聖エイレナイオス(Eirenaios; Irenaeus 130/140-200年頃)はこのことを論考『異端反駁』の中で解説していいます。「(子)も、罪に判決を下し、またこれをすでに判決されたものとして肉(なる人)の外に投げ出すため、『罪に属する肉と似たものと』(ローマ8・3)なったからであり、また人を自分と似たものになるように招いた、(すなわち人)を神に倣う者と任じ、(人が)神を見る(よう)、父の行動様式を課せられたものとし、父を捉えることができるようにしたからである」(『異端反駁』:Adversus haereses III, 20, 2-3〔小林稔訳、『キリスト教教父著作集3/Ⅰ エイレナイオス3 異端反駁Ⅲ』教文館、1999年、104頁〕)。
 ここにわたしたちは聖エイレナイオスが好んだいくつかの考えを見いだします。すなわち、神は幼子イエスとともに、わたしたちをご自身と似たものとなるよう招かれます。わたしたちは神がいかなるかたであるかを仰ぎ見ます。そこからわたしたちは、自分たちが神と似たものになるべきであることを思い起こします。わたしたちは神に倣わなければなりません。神はご自身を与えてくださいました。神はわたしたちの手にご自身を与えてくださいました。わたしたちは神に倣わなければなりません。要するにエイレナイオスがいいたいことはこれです。人間は神を見ることがありません。人は神を見ることができません。だから人は真理と自分自身について闇のうちにいます。しかし人は、神を見ることができなくても、イエスを見ることができます。こうして人は神を見ます。そして真理を見いだし始めます。生き始めます。
 それゆえ、救い主は来て、悪のわざと、わたしたちを今も神から遠ざけているすべてのものを無力にします。そして、わたしたちのかつての輝きと、父の子であった初めの状態を回復します。神はわたしたちの間に来られ、わたしたちに一つの務めを示し、また与えます。それは、わたしたちが神と似たものとなり、まことのいのちを目指すという務めです。キリストのみ顔のうちに神を見るようになるという務めです。聖エイレナイオスはまたいいます。「(これらのことを行ったのは)、神の意思に従い、人を神を捉えるのに慣れさせ、神を人のうちに住むことに慣れさせるため、人のうちに住んで人の子となった、神のみことばである。それで、このために、主ご自身がわたしたちの救いのしるしとして、処女から(生まれた)インマヌエルを(与えた)」(同:ibid.(前掲邦訳104頁〕)。ここにも聖エイレナイオスのもっとも中心的な考えが見いだされます。すなわち、わたしたちは神を捉えることに慣れなければなりません。神は普通、わたしたちの生活と思想と行動からかけ離れています。だから神はわたしたちのところに来られたのです。そしてわたしたちは神とともにいることに慣れなければなりません。そしてエイレナイオスはあえてこういいます。神もわたしたちとともに、わたしたちのうちにいることに慣れなければなりません。神は降誕祭に、わたしたちとともに歩まなければなりません。わたしたちを神に慣れさせなければなりません。それは、神も、わたしたちに、またわたしたちの貧しさやこわれやすさに慣れなければならないのと同じです。それゆえ、主が来られた目的はただ一つ、神ご自身の目をもって、あらゆる出来事と世界とわたしたちの周りのすべてのものを見、また愛することを教えることです。幼子となられたみことばは、わたしたちが神の行動様式を理解するための助けとなってくださいます。それは、わたしたちも、神のいつくしみと限りないあわれみによってますます造り変えていただけるためです。
 わたしたちは、世の闇の中で、このまったく予想できなかった神のわざにあらためて驚き、また照らしていただかなければなりません。神が幼子となられたのです。わたしたちは、全世界を喜びで満たした星に驚き、照らしていただかなければなりません。幼子イエスがわたしたちのところに来られるとき、わたしたちが準備もせず、外面的に美しいものにのみうつつを抜かしているのを見いだされることがありませんように。わたしたちが、自分たちの通りや家を輝かそうとするのと同じ気遣いをもって、わたしたちを訪ねて来られるかたと出会うために魂を整えるよう駆り立てられますように。このかたこそ、まことの美であり、まことの光だからです。それゆえ、自分の良心と、救い主の到来に反する生き方を清めようではありませんか。思い、ことば、態度、行いを。よいことを行い、現代世界ですべての人のために平和と正義を実現するために努め、そこから、主との出会いを目指して歩もうではありませんか。
 降誕節を特徴づけるしるしは、馬小屋です。恒例のサンピエトロ広場の馬小屋も、ほとんど出来上がり、精神的な意味でローマと全世界に向けて、神の神秘のすばらしさを示します。神が人となり、わたしたちの間に宿られました(ヨハネ1・14参照)。馬小屋は、神がわたしたちに近づいてくださるように、イエスがわたしたちに近づいてくださるようにという、わたしたちの願いを表します。しかし馬小屋は、イエスに対する感謝も表します。イエスは、貧しさと質素さのうちに、わたしたちと人間の条件を共有することを決断されました。わたしは、馬小屋を家庭、職場、広場に作る伝統が生き生きと保たれ、そればかりか再発見されたことをうれしく思います。このキリスト教信仰の真実のあかしが、現代においても、すべての善意の人にとって、わたしたち皆に対する御父の限りない愛を余すところなく示す聖画像(イコン)となりますように。馬小屋を前にして、子どもも大人もあらためて心に驚きを覚えることができますように。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。主に対する新たな感謝をもって主の降誕の神秘を味わうことができるよう、おとめマリアと聖ヨセフがわたしたちを助けてくださいますように。この数日のあわただしい活動のただ中で、降誕節が少しでも静けさと喜びをわたしたちにもたらし、わたしたちの神のいつくしみに触れさせてくれますように。神はわたしたちを救い、わたしたちが歩むために新たな勇気と新たな光を与えるために、幼子となられたのです。この思いをもって、聖なるよいクリスマスでありますようお祈り申し上げます。ここにおられるすべての皆様と、そのご家族、とくに病気の人、苦しみのうちにある人、そして皆様の共同体と愛する人のために、このごあいさつを申し上げます。

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