教皇ベネディクト十六世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2010.12.25)

12月25日(土)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。 […]


12月25日(土)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
メッセージの発表の後、65か国語による祝福が述べられました。教皇は53番目に日本語で次のように述べました。「クリスマスと新年おめでとうございます」。最後の祝福は、メッセージの中でも引用されていることばを用いて、ラテン語で行われました。「ことばは肉となった(Verbum caro factum est)」。


「ことばは肉となった(Verbum caro factum est)」(ヨハネ1・14)。

 ここローマと全世界でわたしのことばを聞いておられる、親愛なる兄弟姉妹の皆様。喜びをもって降誕祭の知らせを伝えます。神は人となりました。神は来て、わたしたちの間に宿られました。神は遠く離れたかたではありません。神は「インマヌエル」、すなわち、われらとともにおられる神です。神は見知らぬかたではありません。神はみ顔をもったかたです。神はイエスというみ顔をもっておられるのです。
 この知らせはつねに新しく、つねに驚くべきものです。なぜなら、それはわたしたちが抱くもっとも大胆な希望をも凌駕するからです。何よりもそれは単に告げられただけではないからです。この知らせは出来事です。事件です。信頼できる証人たちが、この出来事をナザレのイエスというかたのうちに見、聞き、それに触れたのです。イエスとともに過ごし、そのわざを見、そのことばを聞いた彼らは、イエスがメシアであることが分かりました。十字架につけられた後、復活したイエスを見た彼らは信じました。イエスはまことの人であると同時にまことの神であることを。父から来られた独り子として、恵みと真理とに満ちておられることを(ヨハネ1・14参照)。
 「ことばは肉となった」。この啓示を前にして、わたしたちのうちに再び問いが生まれます。どうしてこのようなことがありうるだろうか。みことばと肉は互いに反対のものです。どうして永遠、全能のみことばが、こわれやすく、死すべき人となりうるだろうか。こたえはただ一つです。愛のゆえにです。愛する者は、愛される者とともにいることを望みます。愛される者と一つに結ばれることを望みます。聖書はわたしたちに、ご自分の民に対する神の愛の偉大な歴史を示してくれます。この愛はキリスト・イエスにおいて頂点に達します。
 実際、神は変わったのではありません。神はご自分に忠実にとどまります。世を造られたかたは、アブラハムを招き、モーセにご自分の名を現されたのと同じかたです。わたしはある。・・・・アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。・・・・あわれみ深く恵みに富む神、いつくしみとまことに満ちている(出エジプト3・14-15、34・6参照)。神は変化するのではありません。神は世々永遠に愛です。ご自身において交わりであり、三位一体です。神のすべてのわざとことばは交わりを目指しています。受肉は創造の頂点です。御父のみ心と聖霊のわざにより、マリアの胎内でイエスが形づくられ、神の子が人となったとき、創造は頂点に達しました。宇宙を秩序づける原理であるロゴス(みことば)が、世界の中に、すなわち特定の時間と空間の中に存在し始めたのです。
 「ことばは肉となった」。この真理の光は、信仰のうちにこれを受け入れる人に示されます。なぜなら、この真理は愛の神秘だからです。愛に心を開く人だけが、主の降誕の光に包まれます。ベツレヘムの夜もそうでした。現代においても同じです。神の子の受肉は歴史の中で起きた出来事です。しかしそれは同時に歴史を超えたものでもあります。世の闇の中で、新しい光が輝き始めます。この光が見えるのは、単純な信仰の目です。救い主を待ち望む柔和で謙遜な心です。もし真理が数学的な公式にすぎなければ、ある意味でそれ自体によって説得できるでしょう。これに対して、真理が愛であるなら、それは信仰を求めます。わたしたちの心が「はい」ということを求めます。
 では、わたしたちの心は実際のところ何を求めているでしょうか。それは、愛である真理です。子どもは、他愛ない好奇心から発する問いかけをもってこの真理を求めます。若者は、自分の人生の深い意味を見いだそうとして、この真理を求めます。大人は、家事や仕事を方向づけ、支えるために、この真理を求めます。高齢者は、地上における生涯を完成させるために、この真理を求めます。
 「ことばは肉となった」。主の降誕の知らせは、諸国民にとっても、すなわち人類全体の歩みにとっても光です。「インマヌエル」、すなわち、われらとともにおられる神は、正義と平和の王として来られました。わたしたちが知っているとおり、この王の支配する国は、この世に属するものではありません。にもかかわらず、この国は地上のあらゆる国よりも重要です。それは人類のパン種のようなものです。もしこのパン種がなければ、真の発展をもたらすための力は弱まります。この力こそが、共通善のための協力、隣人に対する私心のない奉仕、正義のための平和的な努力を促すのです。わたしたちと歴史を共有することを望まれた神への信仰は、たとえどのような反対に遭っても歴史の中で働くためのたえざる励ましとなります。この信仰は、尊厳を蹂躙(じゅうりん)され、侵害されたすべての人々に希望を与えます。なぜなら、ベツレヘムで生まれたかたは、あらゆる奴隷状態をもたらす原因から人間を解放するために来られたからです。
 主の降誕の光が、イエスの生まれた地であらためて輝きますように。そして、イスラエルとパレスチナの人々が公正で平和的な共存を追求するよう力づけてくださいますように。インマヌエルの到来についての慰めに満ちた知らせが、試練のうちにあるイラクと中東全体の愛するキリスト教共同体の苦しみを和らげ、慰めをもたらしますように。この知らせが彼らに未来に向けた励ましと希望を与え、また、諸国家の指導者にはこの共同体に対する積極的支援を促しますように。大規模な地震の被害と、最近のコレラの流行によって今なお苦しむハイチ国民についても同じことを申し上げます。最近、自然災害の被害に遭ったコロンビアとベネズエラ、またグアテマラとコスタリカのことも忘れてはなりません。
 救い主の誕生が、ソマリア、ダルフール、コートジボワールの人々に、恒久的平和と真の発展への展望を開いてくれますように。マダガスカルの政治・社会の安定を促進しますように。アフガニスタンとパキスタンに治安と人権の尊重をもたらしますように。ニカラグアとコスタリカの間の対話を促しますように。朝鮮半島における和解を推進しますように。
 救い主の降誕を祝うことによって、中国大陸の教会の信者の信仰と忍耐と勇気の精神が強められますように。彼らが信教と良心の自由の制限によって失望せず、キリストと教会に忠実にとどまり続けることによって、希望の炎を生き生きと保つことができますように。「われらとともにおられる神」の愛が、差別と迫害に苦しむすべてのキリスト教共同体に堅忍のたまものを与え、政治指導者と宗教指導者がすべての人の信教の自由の完全な尊重に努めるよう促してくれますように。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。「ことばは肉となり」、来て、わたしたちの間に宿られました。このかたこそインマヌエル、すなわち、わたしたちに近づいてくださった神です。ともにこの偉大な愛の神秘を仰ぎ見ようではありませんか。ベツレヘムの洞窟で輝く光に心を照らしていただこうではありませんか。皆様、クリスマスおめでとうございます。 

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