教皇ベネディクト十六世の252回目の一般謁見演説 ボローニャの聖カタリナ

12月29日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の252回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第14回として、「ボローニャの聖カタリナ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 最近行った講話の中で、シエナの聖カタリナについてお話ししました。今日は同じカタリナという名の、あまり知られていないもう一人の聖人をご紹介したいと思います。すなわち、ボローニャの聖カタリナ(Catharina; Caterina da Bologna 1413-1463年)です。ボローニャの聖カタリナは、広い教養をもちながら、きわめてつつましい女性です。彼女は熱心に祈るとともに、いつも進んで奉仕しました。惜しみなく犠牲をささげながら、喜びをもってキリストとともに十字架を受け入れました。
 カタリナは1413年9月8日、ボローニャで、ベンヴェヌータ・マンモリーニ(Benvenuta Mammolini)とジョヴァンニ・デ・ヴィグリ(Giovanni de’Vigri)の子として生まれました。ジョヴァンニ・デ・ヴィグリはフェラーラの富裕な教養ある貴族で、法学博士、またパドヴァの有名な講師でした。彼はパドヴァでフェラーラ公ニッコロ3世デステ(Niccolo III d’Este 1383-1441年)のために外交活動を行いました。カタリナの幼少期についてはあまり知られておらず、伝記資料もすべてが確かだとはいえません。カタリナは幼年期をボローニャの祖父母の家で過ごしました。彼女は親族、とくに深い信仰をもった母親の教育を受けました。10歳の頃、母親とともにフェラーラに移り、ニッコロ3世デステの宮廷で、ニッコロの非嫡出子のマルゲリータ(Margherita)の侍女となりました。ニッコロ公はフェラーラの町を光輝あるものとするために諸国から芸術家や文学者を呼び集めました。ニッコロ公は文化を振興し、私生活は模範的ではありませんでしたが、臣下の霊的な善と道徳的振る舞いと教育に深く配慮しました。
 カタリナはフェラーラでの宮廷生活にしばしば見られた悪い側面に惑わされませんでした。彼女はマルゲリータとの交友を楽しみ、その信頼を得ました。音楽、絵画、ダンスを学んで教養を深めました。詩作、作文、ヴィオラ演奏も習いました。彼女は細密画と写本作成技術に習熟しました。ラテン語の勉学も極めました。その後の修道生活の中で、カタリナはこの時期に得た文化的・芸術的遺産を活用しました。彼女はたやすく、熱心かつ粘り強く学ぶことができました。深い賢明と特別な謙遜、行動における気品と優雅さを示しました。しかし、彼女を決定的なしかたで際立たせる特徴があります。それは、天上のことがらにつねに目を向ける精神です。1427年、わずか14歳のとき、家族にいくつかの出来事が起きた結果、カタリナは宮廷を離れ、自らを神にささげながら共同生活を送る貴族出身の若い女性のグループに加わる決心をしました。母親は娘を別の道に進ませる計画をもっていましたが、信仰をもってこの決心を認めました。
 この決断に先立つカタリナの霊的歩みについては知られていません。彼女は三人称でこう語ります。「彼女は神の恵みに照らされ、・・・・正しい良心と大きな熱意をもって」神への奉仕を始めました。日夜、聖なる祈りをささげ、他の人々のうちに見いだした美徳のすべてを身につけようと努めました。「それは嫉妬のゆえではありませんでした。むしろ、彼女が愛のすべてを向けた神を喜ばせるためでした」(『霊的な戦いに必要な七つの武器』:Le sette armi necessarie alle battaglia spirituali VII, 8, Bologna 1998, p. 12)。カタリナはこの生活の新しい段階において著しい進歩を遂げましたが、大きな恐ろしい試練と内的苦しみ、とくに悪霊の誘惑も味わいました。彼女は深い霊的危機から、絶望しそうになりました(同:ibid. VII, 2, pp. 12-29参照)。彼女は霊魂の暗夜を体験し、聖体への不信仰の誘惑も感じました。多くの苦しみの後、主は彼女を慰めました。ある幻視の中で、主は彼女に聖体の現実の現存についてはっきりとした認識を与えました。この認識があまりにも輝かしいものだったので、カタリナはそれをことばで言い表すことができませんでした(同:ibid. VIII, 2, pp. 42-46参照)。同じ時期に、悲しむべき試練が共同体を襲いました。アウグスチノ会の霊性に従おうとする人々と、フランシスコ会の霊性に心を引かれる人々の間に緊張が生じたのです。
 1429年から1430年にかけて、グループの責任者であるルチア・マスケローニ(Lucia Mascheroni)はアウグスチノ会修道院を創立することを決定しました。これに対してカタリナは、他の人々とともに、アッシジの聖クララの修道規則に従おうと決めました。それは摂理のたまものでした。なぜなら、彼女たちの共同体は「厳格派(聖霊派)」運動に従う小さき兄弟会(フランシスコ会)修道院に付属する聖霊教会の近くに住んでいたからです。カタリナとその同志は定期的に典礼にあずかり、適切な霊的支援を受けることができました。彼女たちはシエナの聖ベルナルディヌス(Bernardinus Senensis; Bernardino da Siena 1380-1444年)の説教を聞くこともできました(同:ibid. VII, 62, p. 26参照)。カタリナは語ります。1429年(すなわち回心の3年目)、彼女は告解をするために尊敬していた小さき兄弟会の一人のもとを訪れ、よい告解を行い、自分のすべての罪とそれにかかわる苦しみをゆるしてくださるよう主に心から祈りました。神は幻視の中で彼女をすべてゆるすことを示されました。このきわめて強烈な神のあわれみの体験は、彼女に消えることのない刻印を押しました。そして、神の限りない愛に惜しみなくこたえるよう彼女を新たに促しました(同:ibid. IX, 2, pp. 46-48参照)。
 1431年、カタリナは最後の審判の幻視を見ました。罪に定められた人々の恐ろしい光景は、罪人の救いのために祈りと償いをいっそう深く行うよう彼女を駆り立てました。悪霊が彼女に襲いかかり続けたので、彼女は主とおとめマリアにますます完全に身をゆだねました(同:ibid. X, 3, pp. 53-54参照)。カタリナは著作の中にこの不思議な戦いの要点を書き残しています。彼女は神の恵みによってこの戦いで勝利を収めました。彼女が記録を残したのは、自分の修友である姉妹と完徳の道を歩み始めようと望む人々に教えを与えるためです。彼女は悪霊の誘惑から彼らを守ることを望みました。悪霊はしばしば人を欺く姿に身を隠し、やがて信仰への疑いや、召し出しへの疑い、そして欲望を抱かせるからです。
 このことに関して、カタリナは自伝的かつ教育的論考である『霊的な戦いに必要な七つの武器』(Le sette armi necessarie alle battaglia spirituali)で、深い知恵と識別に満ちた教えを示します。彼女は主が彼女に与えた特別な恵みについて述べるときは三人称で語り、自分の罪を告白するときは一人称で語ります。カタリナの著作からにじみ出るのは、彼女の神への信仰、深い謙遜、心の単純さ、宣教的熱意、人々の霊魂の救いへの情熱です。彼女は悪と悪魔との戦いにおける七つの武器を次のように示します。(一)つねに善を行おうと努め、心がけること。(二)自分一人では真によいことを何もできないと考えること。(三)神を信頼すること。そして、神への愛のゆえに、世においても自分自身の内面においても悪と戦うことを恐れないこと。(四)イエスの生涯における出来事とことば、とくにイエスの受難と死をしばしば黙想すること。(五)自分が死すべき者であることを思い起こすこと。(六)天の宝を思い起こすことに精神を集中すること。(七)聖書に親しみ、心の中に聖書をつねに携え、聖書が思いと行いのすべてを方向づけるようにすること。これは現代においても、わたしたち皆にとって優れた霊的生活の計画といえます。
 カタリナはフェラーラの宮廷生活に慣れていたにもかかわらず、修道院の中では洗濯、裁縫、パン焼き係を務め、動物の世話まで行いました。彼女は愛と深い従順をもって、もっとも卑しい仕事を含めたすべてのことを果たし、修友の姉妹たちに輝かしいあかしを示しました。実際、彼女は、不従順は霊的傲慢であり、他のあらゆる美徳を破壊するものだと考えます。彼女は、自分がその職務を果たすのには不向きであると思いながらも、従順により修練長の職務を引き受けました。しかし神はご自身の現存とたまものをもって彼女を導き続けました。実際、彼女は知恵に満ちた修練長として尊敬を受けました。
 その後、彼女は面会所の係をゆだねられました。修道院を訪れる人に応対するためにしばしば祈りを中断されることは大きな犠牲でしたが、ここでも主はいつも彼女を訪れ、そばにいてくださいました。カタリナのおかげで、修道院はますます祈りと犠牲と沈黙と労苦と喜びの場となりました。修道院長が死ぬと、長上はすぐにカタリナを後任として考えました。しかしカタリナはマントヴァのクララ会修道女に目を向けさせました。クララ会修道女のほうが会憲と修道規則の遵守にたけていたからです。しかし、数年後の1456年、彼女の修道院はボローニャに新しい修道院を設立するよう依頼されました。カタリナは生涯をフェラーラで終えたいと考えていましたが、主は彼女の前に現れて、ボローニャに修道院長として赴くことによって神のみ心を果たすよう促しました。カタリナは断食と苦行と償いのわざをもって新しい任務に備えました。彼女は18名の修友の姉妹とともにボローニャに赴きました。カタリナは長上として、率先して祈り、奉仕しました。深く謙遜と清貧を守りました。修道院長としての3年の任期が終わると、彼女は進んで他の人に代わってもらうことを望みましたが、新たに選ばれた修道院長が失明したために、1年後、もう一度この職務を引き受けなければなりませんでした。カタリナは病身であり、それも苦痛を伴う重い病にかかっていましたが、惜しみない熱意をもって職務を果たしました。
 さらに1年間、彼女は修友の姉妹たちに勧めました。福音的生活を送りなさい。忍耐しなさい。試練を耐え忍びなさい。兄弟を愛しなさい。神である花婿イエスと一致しなさい。それは、こうして永遠の婚姻のために自分の持参金を用意するためです。カタリナが持参金と考えたことはこれです。すなわち、キリストの苦しみを共有し、落ち着いた心で、困難と不安と侮蔑と無理解を受け入れられることです(『霊的な戦いに必要な七つの武器』:Le sette armi necessarie alle battaglia spirituali X, 20, pp. 57-58参照)。1463年の初頭、カタリナの病状は悪化しました。彼女は講堂で姉妹たちと最後の集会を開きました。それは、自分の死を告げ、修道規則を守るよう勧告するためでした。2月の末、苦痛は強まり、彼女から決して離れませんでしたが、カタリナは苦しみの中でも姉妹たちを慰め、天上においても彼女たちを助けることを約束しました。最後の糧を受けた後、聴罪司祭に自分が書いた『霊的な戦いに必要な七つの武器』を渡すと、彼女は臨終のときを迎えました。彼女の顔は美しく輝きました。彼女はいま一度愛をこめて自分を囲む人々を見つめました。そして、イエスのみ名を三度唱えながら、静かに息を引き取りました。1463年3月9日のことでした(I. Bembo, Specchio di illuminazione. Vita di S. Caterina a Bologna, Firenze 2001, cap. III参照)。カタリナは1712年5月22日、教皇クレメンス11世(在位1700-1721年)により列聖されます。彼女の腐敗することのない亡骸はボローニャの聖体(Corpus Domini)修道院礼拝堂に安置されています。
 親愛なる友人の皆様。ボローニャの聖カタリナはそのことばと生涯をもってわたしたちを強く招きます。つねに神に導いていただきなさい。たとえそれがしばしば自分の計画と一致しなくても、日々、神のみ心を果たしなさい。神の摂理に信頼しなさい。摂理は決してあなたがたを見捨てることがないからです。このような意味で、聖カタリナはわたしたちに語りかけます。数世紀を隔てた人でありながら、カタリナはきわめて現代的であり、わたしたちの生活に語りかけます。カタリナはわたしたちと同じように誘惑に遭いました。それは不信仰と欲望の誘惑であり、困難な霊的戦いを伴いました。彼女は神から見捨てられたと感じ、信仰の暗闇に置かれました。しかしこうした状況の中にあっても、彼女はつねに主の手につかまりました。主から離れず、主を捨てませんでした。主と手に手をとって歩むことにより、彼女は正しい道を歩み、光への道を見いだしました。それゆえカタリナはわたしたちにまた語りかけます。信仰の暗夜の中でも、どのような疑いの中でも、勇気をもちなさい。主の手を離してはなりません。主と手に手をとって歩みなさい。神のいつくしみを信じなさい。そうすれば、正しい道を歩めます。わたしはもう一つの点を強調したいと思います。すなわち、彼女の深い謙遜です。彼女は有名になることを望みませんでした。彼女は人前に出ることも、人の上に立つことも望みませんでした。彼女は仕えることを望みました。神のみ心を行うことを望みました。他の人々に仕えることを望みました。だからこそカタリナの権威を信頼できるのです。それは、彼女が自分にとって権威とはまさに他の人に仕えることだと知ることができたからです。聖女の執り成しを通じて、神に祈り求めようではありませんか。どうかあなたがわたしたちに望まれる計画を勇気と寛大な心をもって実現する恵みをお与えください。あなただけが、堅固な岩となりますように。そしてこの岩の上にわたしたちが自分の生活を築くことができますように。ご清聴ありがとうございます。

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