教皇ベネディクト十六世の2011年1月1日の「お告げの祈り」のことば 世界平和の日

教皇ベネディクト十六世は、1月1日(土)午前10時からサンピエトロ大聖堂で神の母聖マリアの祭日、また第44回「世界平和の日」のミサをささげました。教皇はミサの終わりに、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り […]


教皇ベネディクト十六世は、1月1日(土)午前10時からサンピエトロ大聖堂で神の母聖マリアの祭日、また第44回「世界平和の日」のミサをささげました。教皇はミサの終わりに、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べ、2011年10月にアッシジで、ヨハネ・パウロ二世が1986年に世界平和祈祷集会を開催した25周年にあたって、世界の宗教者とともに祈祷集会を行うことを発表しました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。『「世界平和の日」メッセージ』の中で、わたしはさまざまな大宗教が人類家族の一致と平和のために重要な役割を果たせることを強調しました。そして、このことに関連して、今年2011年が尊者ヨハネ・パウロ二世が1986年にアッシジで開催した世界平和祈祷集会の25周年であることを思い起こしました。そこで、来る10月にわたしは聖フランシスコの町に巡礼を行います。そして、この巡礼に、諸教派のキリスト教の兄弟の皆様、世界のさまざまな宗教伝統の代表者の皆様、そして精神的な意味ですべての善意の人が参加してくださるよう招きます。それは、わたしの前任者が望んだこの歴史的な出来事を記念し、あらゆる宗教の信者が自分の宗教的信仰を平和のための奉仕として実践するという約束を荘厳なしかたで更新するためです。神に向けて歩む者は平和をのべ伝えずにはいられません。平和を作り出す人は神に近づかずにはいられません。皆様にお願いします。今から皆様の祈りをもってこの計画に同伴してください」。
ヨハネ・パウロ二世は1986年10月27日にアッシジで世界平和祈祷集会を開催し、2002年1月24日にも、キリスト教と12の諸宗教指導者とともにアッシジで同じ集会を開催しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 2011年最初の「お告げの祈り」にあたって、皆様の平和と幸福をお祈り申し上げます。そして、この祈りを今日、神の母の祭日を祝う至聖なるマリアの執り成しにゆだねます。新年の初めに、キリスト者の民は精神的な意味で、おとめマリアがイエスを産んだベツレヘムの洞窟の前に集まります。わたしたちは聖母に祝福を祈り求めます。すると聖母は御子をわたしたちに示すことによってわたしたちを祝福してくださいます。実際、イエスこそが祝福です。神はわたしたちにイエスを与えてくださることによって、すべてを与えてくださいました。すなわち、ご自分の愛と、いのちと、真理の光と、罪のゆるしです。神はわたしたちに平和を与えてくださいました。まことにイエス・キリストはわたしたちの平和です(エフェソ2・14参照)。キリストは世に愛と平和の種をもたらしました。この種は、憎しみと暴力の種よりも力があります。この種が力強いのは、イエスのみ名がすべての名にまさっているからです。この名が神のすべての支配を含んでいるからです。預言者ミカが告げたとおりです。「ベツレヘムよ・・・・お前の中から、わたしのために・・・・治める者が出る。・・・・彼は立って、群れを養う、主の力、神である主のみ名の威厳をもって。・・・・彼こそ、まさしく平和である」(ミカ5・1-4)。
 そのため、教会は今日、母であるおとめの聖画像(イコン)の前で、イエス・キリストを通して、神に平和のたまものを祈り求めます。今日の「世界平和の日」は、現代の人類が抱えるさまざまな大きな問題をともに考察するためのよい機会です。今日、きわめて緊急を要する問題の一つは、信教の自由です。それゆえわたしは今年の「『世界平和の日』メッセージ」で「平和への道としての信教の自由」というテーマを考察しました。現代、わたしたちは二つの相反する傾向、すなわち両極端の悪い傾向を目の当たりにしています。一つは世俗主義です。世俗主義は、しばしば陰険なしかたで宗教を排除し、私的な領域に追いやります。もう一つは原理主義です。原理主義は、その反対に、宗教を力ずくで強制しようとします。「神は人類を愛の計画によって招きます。この愛の計画は、本性的次元と霊的次元を含めた全人格に働きかけながら、人間が自由で責任ある応答を行うことを求めます。この応答は、個人としても共同体としても、心と存在の全体をもって行われます」(「2011年『世界平和の日』メッセージ」8)。信教の自由が実際に認められているところでは、人間の人格の尊厳も根源的に尊重されます。そして、真理と善の真実な追求を通して道徳的良心が強められ、市民的制度と共生が強化されます(同5参照)。それゆえ、信教の自由は平和を築くための特別重要な手段なのです。
 親愛なる友人の皆様。母マリアに抱かれたイエスにあらためて目を注ごうではありませんか。「平和の君」(イザヤ9・5)であるイエスに目を注ぐことによって、わたしたちは悟ります。平和は、武力や、経済・政治・文化・医療の力によって達成されるのではありません。平和は、真理と愛へと開かれた良心によって作り出されます。神が与えてくださった新年の道を歩むわたしたちを、神が助けてくださいますように。

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