教皇ベネディクト十六世の253回目の一般謁見演説 降誕節の意味

1月5日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の253回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「降誕節の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 新年最初の一般謁見に皆様をお迎えしてうれしく思います。皆様と皆様のご家族に心から新年のお喜びを申し上げます。時間と歴史の主であるかたが、いつくしみの道を歩むわたしたちを導き、一人ひとりの人に豊かな恵みと幸福を与えてくださいますように。わたしたちは今なお聖なる主の降誕の光に包まれています。主の降誕の光は、救い主の到来を喜ぶようわたしたちを招きます。今日は主の公現の前日です。主の公現の祭日にわたしたちは救い主がすべての民の前に現れてくださったことを記念します。降誕祭は、昔と同様に現代においても、教会の他の大きな祭日よりも人々の心を捕らえます。なぜ降誕祭は人々の心を捕らえるのでしょうか。それは、すべての人が何らかの意味で、イエスの誕生が人間のもっとも深い望みと希望にかかわっていることを見抜いているからです。消費主義がこの内的な憧れから人々の心をそらすかもしれません。しかし、心の中にはあの幼子を迎え入れたいという望みが存在します。この幼子は神の新しさをわたしたちにもたらします。この幼子は、完全ないのちをわたしたちに与えるために来られました。そうであれば、クリスマスの電飾の光も、神の受肉によってともされた光を映し出すものとなりうるのです。
 この聖なる日々の典礼の中で、わたしたちは、神の子が世に入って来られたことを、不思議でありながら現実的な形で体験します。わたしたちは神の子の輝く光によってあらためて照らされます。典礼は皆、キリストの神秘を現実に現存させます。教皇大聖レオ(400頃-461年、教皇在位440-没年)は降誕祭についていいます。「主が肉体をもって行われたことは、永遠の計画に従ってあらかじめ定められていたとおりに展開し、過ぎ去ってしまった。・・・・しかしながらわれわれは、救いをもたらす処女の出産を礼拝するのをやめない」(『主の降誕についての説教』:Sermones 29, 2〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘――説教全集――』創文社、1965/1993年、267-268頁〕)。レオは解説していいます。「この日は遠い過去のことではあるが、そのとき啓示されたみわざの力は、今もなお存続している」(『主の公現についての説教』:Sermones 36, 1〔前掲邦訳373頁〕)。神の子の受肉という出来事を記念するのは、単に過去の出来事を思い起こすことではありません。それは、この救いをもたらす神秘を現存させることです。典礼の中で、すなわち秘跡を挙行するとき、この神秘は現実となり、現代のわたしたちに働きかけます。大聖レオはまたいいます。「世と和解するために神の子が行い、教えたすべてのことを、われわれは過去に起こった出来事を語ることばの中で知るだけではない。われわれは現実の出来事の力の働きかけのもとにいるのである」(『説教集』:Sermones 52, 1)。
 第二バチカン公会議は『典礼憲章』の中で、聖霊のわざにより、聖なる神秘を記念することを通じて、キリストが実現した救いのわざが教会の中で継続することを強調します。すでに旧約における信仰の完成に向けた歩みの中で、神の現存と働きが、たとえば火のしるしを通じて示されることが証言されています(出エジプト3・2以下、19・18参照)。しかし、受肉のときから、驚くべきことが生じます。救いをもたらす神との出会いの形が徹底的に変わり、肉が救いの手段となるのです。福音書記者ヨハネは述べます。「みことばは肉となった(Verbum caro factum est)」。そして3世紀のキリスト教的著作家テルトゥリアヌス(160以前-220年以降)はいいます。「肉は救いの基盤である(Caro salutis est cardo)」(『死者の復活について』:De resurrectione mortuorum 8, 3, PL 2, 806)。
 主の降誕はすでに「過越の神秘(sacramentum-mysterium paschale)」の初穂です。すなわちそれは、受難と死と復活において頂点に達する、救いの神秘の中心の始まりです。なぜなら、イエスは、おとめマリアの胎内に人間として存在し始めたときから、愛のゆえにご自身をささげ始めるからです。それゆえ主の降誕の夜は、偉大な過越の前夜と深く結ばれています。そのとき、死んで復活した主の栄光のいけにえにより、あがないが成し遂げられるからです。みことばの受肉を表すしるしである馬小屋も、福音書の記事に照らして見ると、すでに過越を暗示しています。興味深いことに、東方教会の伝統では、一部の降誕のイコンにおいて、幼子イエスは、布でくるまれ、墓の形をした飼い葉桶に寝かされた姿で描かれます。それは、イエスが十字架から降ろされ、布に包んで、岩に掘った墓に納められたことを暗示します(ルカ2・7、23・53参照)。受肉と過越は並んだものではありません。それらは、受肉した神の子であり、あがない主であるイエス・キリストに対する一つの信仰における、切り離しえない二つの中心です。十字架と復活の前提となるのは受肉です。御子が、そして、御子のうちに神ご自身が、本当に「降って来て」、「肉となった」ことにより、初めてイエスの死と復活が生じるのです。こうしてイエスの死と復活がわたしたちと同時代のものとなります。わたしたちとかかわるものとなります。わたしたちを死から引き離し、わたしたちに未来を開きます。この未来において、この「肉」が、すなわち、地上のはかない存在が、神の永遠のいのちにあずかるのです。キリストの神秘をこのように統一的に見るなら、人は馬小屋を訪れることによって、聖体へと導かれます。わたしたちは聖体において、十字架につけられて復活したキリスト、すなわち、生きておられるキリストが現実におられるのを見いだすからです。
 それゆえ、降誕祭の典礼は、単なる想起ではなく、何よりもまず神秘です。それは単なる記念ではなく、現存でもあります。この二つの切り離すことのできない側面の意味を捉えるために、教会が示す降誕節全体を深く体験する必要があります。広い意味で考えるなら、降誕節は12月25日から2月2日まで40日間続きます。すなわち、主の降誕の夜から、神の母マリア、主の公現、主の洗礼、カナの婚礼、そして主の神殿への奉献までです。それはちょうど復活節が聖霊降臨祭までの50日間で一体をなしているのと同じです。神が肉のうちに現れたことは、歴史の中で真理を啓示した出来事です。12月25日という日は、太陽(すなわち、歴史の地平に沈むことのない光として現れる神)の顕現という思想と結びつけられています。ですから実際、この日付は、わたしたちに次のことを思い起こさせます。この出来事は、神が完全な光であるという、単なる思想ではありません。それどころか、それはわたしたち人間にとって、すでに実現され、永遠に力をもち続ける現実です。過去と同じように、今日も、神は肉のうちに、すなわち、時間の中を旅する教会の「生きたからだ」のうちに、ご自身を示されます。そして神は、秘跡によって今日もわたしたちに救いを与えてくださるのです。
 聖書朗読と祈りの中で用いられる、主の降誕を記念する象徴は、降誕節の典礼に深い意味を与えます。すなわち、受肉したみことばであるキリストにおいて神が「顕現」するということです。この「現れ」は、終わりの時を目指した終末論的な意味ももっています。すでに待降節において、歴史的な到来と歴史の終わりにおける到来という二つの到来が直接結びついていました。しかし、とりわけ主の公現と主の洗礼において、メシアの出現が終末論的な期待という展望のもとに記念されます。受肉したことばであるイエスは、聖霊の注ぎによって、目に見える形でメシアとして聖別されます。これによって、約束の時代が終わり、終わりの時が始まるのです。
 降誕節から、行き過ぎた道徳主義的・感傷的な覆いを取り去らなければなりません。降誕祭の典礼は、主のへりくだりや貧しさ、人類に対するいつくしみと愛といった、倣うべき模範をわたしたちに示すだけではありません。むしろ降誕祭の典礼はわたしたちをこう招きます。わたしたちの肉の中に入って来られたかたによって完全に造り変えていただきなさいと。大聖レオは叫んでいいます。「神の御子は、人間性への神の下降が神に至る人の上昇となるようにご自分をわれわれに一致させ、われわれをご自分に一致させられたのである」(『主の降誕についての説教』:Sermones 27, 2〔前掲邦訳101頁〕)。神の顕現の目的は、わたしたちが神のいのちにあずかることです。わたしたちのうちで神の受肉の神秘が実現することです。この神秘は、人間の召命の実現です。大聖レオは、キリスト教的生活にとって降誕の神秘がもつ、具体的で永遠に変わらない重要な意味を解説していいます。「福音と預言は・・・・『みことばが肉となった』主の降誕を過去のこととして思い起こさせるよりも、むしろ現在行われていることのように思わせる。これらは、それほどわれわれを燃やし、教えている。事実、・・・・『わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである』ということばは、今日のこの祝日に告げられたことばのようである」(『主の降誕についての説教』:Sermones 29, 1〔前掲邦訳266-267頁参照〕)。大聖レオは続けていいます。「キリスト信者よ、あなたの尊厳ある身分をわきまえよ。あなたは『神の本性にあずかる』者となったのだから、卑しい振る舞いにより、この偉大な姿から、昔の卑賎な姿に戻ってはならない」(『主の降誕についての説教』:Sermones 21, 3〔前掲邦訳47頁参照〕)。
 親愛なる友人の皆様。降誕節を深く生きようではありませんか。わたしたちは、人となって飼い葉桶に寝かされた神の子を拝んだ後、いけにえの祭壇に赴くよう招かれます。そこでは、天から降って来た生きたパンであるキリストが、永遠のいのちを得るためのまことの糧としてご自身を与えてくださいます。わたしたちがみことばの食卓といのちのパンの食卓の上で目で見たもの、仰ぎ見たもの、手で触れたものこそが、肉となったみことばです。このかたを喜びをもって世に告げ知らせようではありませんか。自分の全生涯をかけて、惜しみない心であかししようではありませんか。皆様と、皆様の愛するかたがたに、あらためて新年のごあいさつを申し上げるとともに、よい公現祭を迎えられるようお祈り申し上げます。 

略号
PL Patrologia Latina

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