教皇ベネディクト十六世の255回目の一般謁見演説 キリスト教一致祈祷週間

1月19日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の255回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「キリスト教一致祈祷週間」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは「キリスト教一致祈祷週間」を開催しています。「キリスト教一致祈祷週間」の中で、すべてのキリスト信者は一つになって祈るよう招かれます。それは、互いの間の深いきずなをあかしし、完全な交わりのたまものを願い求めるためです。一致を築く歩みの中で、祈りが中心に置かれることは摂理的です。このことは、一致が単に人間の活動が作り出すものでないことをあらためて思い起こさせてくれます。一致は何よりも神が与えてくださるたまものです。この神のたまものが、御父と御子と聖霊との交わりを深めてくれるからです。第二バチカン公会議は述べます。「このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段であり、カトリック信者と分かれた兄弟とを今でも結び合わせているきずなを正しく表現するものである。(主はいわれます。)『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』(マタイ18・20)」(『エキュメニズムに関する教令』8)。すべてのキリスト者の間の目に見える一致への歩みは、祈りの中に「宿り」ます。なぜなら、根本的にいって、「わたしたちが」一致を「築く」のではなく、むしろ神が一致を「築いてくださる」からです。一致は神に由来するからです。三位一体の神秘に由来するからです。愛の対話である聖霊のうちに行われる、御父と御子の一致に由来するからです。だから、エキュメニズム活動は神のわざに開かれていなければなりません。日々、神の助けを願い求めなければなりません。教会は神のものであって、わたしたちのものではありません。
 今年の「キリスト教一致祈祷週間」のために選ばれたテーマは、エルサレムの初期キリスト教共同体の経験を顧みます。今しがた朗読された、使徒言行録のテキストに書かれているとおりです。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2・42)。わたしたちは、すでに聖霊降臨のときに聖霊が言語と文化を異にするさまざまな人々の上に降ったことを考えてみなければなりません。すなわち、教会は初めから出身を異にする諸民族を含みます。しかし、聖霊はこの違いから出発して、一つのからだを造り出します。教会の始まりである聖霊降臨は、神の契約が、造られたすべてのもの、すべての民、すべての時代へと拡大されたことを示します。なぜなら、全被造物は、一致と愛の場となるという、自らの真の目的に向けて歩むからです。
 使徒言行録から引用された箇所の中で、四つの性格が、エルサレムの初期キリスト教共同体を一致と愛の場として特徴づけます。そして聖ルカは過去の出来事を語ろうとしているだけではありません。聖ルカはこれを現在の教会の模範、規範として示します。なぜなら、これら四つの性格が教会生活をつねに築かなければならないからです。第一の性格は、一致して、使徒の教えにしっかりと耳を傾けること、第二は、兄弟の交わりをもつこと、第三は、パンを裂くこと、第四は、祈ることです。すでに述べたとおり、これら四つの要素は現代においても、あらゆるキリスト教共同体の生活の支柱であり、わたしたちが教会の目に見える一致を探求する上で基づくべき唯一の堅固な基盤をなします。
 何よりもまずわたしたちは使徒の教えに耳を傾けます。すなわち、使徒たちが主の宣教、生涯、死と復活について行ったあかしを聞きます。これこそがパウロが端的に「福音」と呼んだものです。初代キリスト信者は福音を使徒の口から受けました。彼らは一つになって、福音に耳を傾け、それを告げ知らせました。なぜなら、聖パウロがいうとおり、福音は「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1・16)。現代においても、キリスト教共同体は、使徒の教えを基準とすることが自らの信仰の規範であることを認めます。すべてのキリスト者の一致を築くためのあらゆる努力は、使徒によってわたしたちに伝わった「ゆだねられた信仰の遺産(depositum fidei)」にますます忠実であることを通して行われます。堅固な信仰こそが、わたしたちの交わりの基盤であり、キリスト者の一致の基盤でもあります。
 第二の要素は兄弟の交わりです。現代と同じように、初期キリスト教共同体の時代にも、兄弟の交わりこそが、何よりも外の世界に対して、主の弟子の一致を目に見える形で表しました。使徒言行録に書かれているように、初期キリスト信者はすべてのものを共有にし、財産や持ち物をもつ人はそれらを売って貧しい人に分け与えました(使徒言行録2・44-45参照)。このような財産の共有は、教会の歴史の中でつねに新たな形で表現されました。その特別な例の一つが、教派を異にするキリスト者の間の兄弟愛と友好関係です。エキュメニズム運動の歴史は、さまざまな困難と不確実さによって特徴づけられてきました。しかしそれは、兄弟愛と協力と人間的・霊的分かち合いの歴史でもあります。このことが主イエスを信じる者の関係を顕著な形で変えてきたのです。わたしたちは皆、この道を歩み続けようと努めます。それゆえ、第二の要素は交わりです。この交わりは何よりもまず、信仰による神との交わりです。しかし、神との交わりはわたしたちの間の交わりを深めます。それは、使徒言行録が述べる具体的な交わり、すなわち分かち合いよって表されずにはいません。キリスト教共同体の中に、一人でも飢える者、貧しい者がいてはなりません。これが根本的な務めです。兄弟の交わりとして実現された神との交わりは、社会活動、キリスト教的な愛のわざ、正義によって、具体的なしかたで表されます。
 第三の要素はこれです。エルサレムの初期共同体の生活の中で本質的に重要だったのは、パンを裂くときでした。パンを裂くことのうちに、主ご自身が現存するからです。主は友が生きるために、十字架上の唯一のいけにえによって、ご自身を完全にささげたからです。「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。・・・・これはあなたがたのために流されるわたしの血の杯である」。「教会が聖体に生かされたものであるということ。この事実は、単に信者が日々経験していることを言い表しただけのものではありません。それは教会の神秘の核心にあることがらを要約しているのです」(ヨハネ・パウロ二世回勅『教会にいのちを与える聖体』1)。キリストのいけにえとの交わりは、わたしたちの神との一致の頂点です。それゆえこのキリストのいけにえとの交わりは、キリストの弟子の十全な一致である、完全な交わりをも表します。この「一致祈祷週間」の間、同じ聖体(ユーカリスト)の食卓をともにできないことに対する悲しみが切実なものとなります。このことは、わたしたちがキリストの祈られた一致の実現からまだほど遠いところにいることを示すからです。わたしたちの祈りに悔い改めの要素も与える、この痛切な経験が、すべての人がいっそう惜しみなく努力するための動機とならなければなりません。それは、完全な交わりに対する障害を取り除き、もう一度一つになって主の食卓を囲み、ともに聖体(ユーカリスト)のパンを裂き、同じ杯を飲む日が到来するためです。
 最後に、祈り、あるいは聖ルカのことばによれば、祈ることが、使徒言行録に描かれたエルサレムの初代教会の第四の性格です。祈りはキリストの弟子の世々、変わることのない態度です。祈りは、キリストの弟子が神のみ心に従って行う、日々の生活に伴います。使徒パウロのことばもあかしするとおりです。パウロはテサロニケの信徒への手紙一でこう書き送ります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサロニケ5・16-18。エフェソ6・18参照)。イエスの祈りにあずかるキリスト者の祈りは、優れた意味での子としての体験です。「主の祈り」のことばがあかしするとおりです。「主の祈り」は家族の祈りです。それは、共通の御父に語りかける、神の子である「わたしたち」の祈り、兄弟姉妹の祈りだからです。それゆえ、祈りに根ざした態度は、兄弟愛へと開かれていることを意味します。わたしたちは、「わたしたち」としてのみ「主の祈り」を唱えることができます。 ですから、兄弟愛に心を開こうではありませんか。兄弟愛は、わたしたちが天におられる唯一の父の子であることから生まれます。それは、進んでゆるし、和解する心構えから生まれるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。主の兄弟であるわたしたちは、世に対して共通の責任をもっています。わたしたちは共通の奉仕を行わなければなりません。エルサレムの初期キリスト教共同体と同じように、わたしたちも、すでに共有しているものから出発して、霊に基盤を置き、理性に支えられながら、唯一の神を力強くあかししなければなりません。それは、しばしば明確かつ有効な基準を失った現代人の歩みを方向づけ、照らすメッセージをもたらすためです。ですから、次のことが大切です。日々、互いの愛を深め、キリスト者の間に今なお存在する隔ての壁を乗り越えようと努めること。主に従うすべての人の間にまことの内的一致が存在すると考えること。できるかぎり協力し合いながら、未解決の問題についてともに探求すること。何よりも、この旅路を歩むわたしたちを主が支えてくださり、まだ多くの点で主が助けてくださらなければならないと自覚することです。なぜなら、主がおられなければ、すなわち、「主につながっていなければ」、わたしたちはひとりでは何もできないからです(ヨハネ15・5参照)。
 親愛なる友人の皆様。とくにこの「キリスト教一致祈祷週間」の間、わたしたちは、イエス・キリストは神の子であることを告白するすべての人とともに、祈りのうちにあらためて再び一つになります。たゆまずに祈ろうではありませんか。祈る民となろうではありませんか。そして、神が一致のたまものを与えてくださることを祈り願おうではありませんか。それは、全世界に対する神の救いと和解の計画が実現するためです。ご清聴ありがとうございます。

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