第45回「世界広報の日(2011年5月29日)」教皇メッセージ

第45回「世界広報の日(2011年5月29日)」教皇メッセージ 「デジタル時代における真理、宣教、そしていのちの真正性」 親愛なる兄弟姉妹の皆様  第45回世界広報の日にあたり、わたしは、通信ネットワークとしてのインター […]

第45回「世界広報の日(2011年5月29日)」教皇メッセージ
「デジタル時代における真理、宣教、そしていのちの真正性」

親愛なる兄弟姉妹の皆様

 第45回世界広報の日にあたり、わたしは、通信ネットワークとしてのインターネットの出現という現代社会に特徴的な現象に促され、いくつかの考えを示したいと思います。産業革命が、生産工程と労働者の生活を改善することにより社会に大変革をもたらしたのと同様に、今日、通信界で起きている根本的な変化は、文化と社会に大きな発展をもたらしています。これはだれもが知るところです。新たな技術は通信の方法だけでなく、通信そのものも変えています。ですから、わたしたちは文化的な大変革期を生きていると言えるでしょう。情報や知識を流布するこの手段は、関係を確立し、友情を築くために、これまでにない機会を提供し、新しい学び方と考え方を生み出しています。
 つい最近まで想像もできなかったような新たな視野が今、開かれています。そうした視野において、わたしたちは最新メディアがもたらす可能性に驚かされると同時に、デジタル時代における通信の意義について深く考えるよう強く求められます。そのことは、インターネットのはかり知れない可能性と用途の複雑さに直面するときに、いっそう明らかです。人間の創意によるほかの産物と同じように、新たな通信技術も個人および全人類の包括的な福利に貢献しなければなりません。賢明に用いられるならば、その技術は意味、真理、一致への願いという人間一人ひとりの根底からの切望を満たす助けとなりえます。
 デジタルの世界において、情報伝達はソーシャル・ネットワーク内に知らせるという意味合いを持つようになってきています。ソーシャル・ネットワークでは、知識が人的交流の中で共有されます。情報を提供する側と受け取る側の間の明確な区別が相対化され、コミュニケーションがデータのやりとりとしてだけでなく、共有の一形態として表れています。こうした動きが一因となって、コミュニケーションそのものに対する認識が新たになりました。コミュニケーションが何よりも、対話、交換、連帯、そして建設的な関係の構築として認識されるようになったのです。一方、こうした動きとは裏腹に、デジタル・コミュニケーションには特有の限界があります。それらは、相互の意思疎通が一方的になること、人間の内的世界の一部のみで通じあう傾向、ある種の身勝手となる偽りの自己イメージを作る危険などです。
 とりわけ若者が、不安とチャレンジ精神と創造力をすべて抱きながら、このコミュニケーションにおける変化を受け止めています。彼らは意欲と好奇心をもって、新しい生活体験に心を開いているのです。いわゆるソーシャル・ネットワークによって形成される公開デジタル・フォーラムに若者がこれまで以上にかかわることにより、新しい形の対人関係が築かれ、自己認識が影響を受けています。その結果、どうしたら適切な行動ができるかという疑問に加えて、自分の存在の真正性に関する疑問が必然的に生じています。サイバースペースに入ることは、他者との個人的出会いを心から求めていることの表れと言えます。その際には、交わることのない存在に囲まれたり、仮想空間に浸りすぎたりすることのないよう留意しなければなりません。共有を求め「友」を探すにあたり、正直で忠実であること、そして、自分のために偽りの公開プロフィールを作成するという幻想を抱かないようにすることが課題となります。
 新たな技術は、人が空間的、文化的制約を超えて知り合うことを可能にします。こうして、友情の可能性に満ちたまったく新しい世界が築かれるのです。これはすばらしい機会です。しかし、起こりうる危険にも、さらに注意と意識を向ける必要があります。この新しい世界の中で、だれがわたしの「隣人」なのでしょうか。日常生活の中で出会う人々とのかかわりが希薄になる危険があるのではないでしょうか。わたしたちの注意が寸断され、自分が生きている世界とは「別の」世界に没頭するために、より注意散漫になる危険があるのではないでしょうか。自分の選択を批判的に振り返り、真に深く永続的な人間関係をはぐくむ時間があるでしょうか。大切なことは、仮想空間における触れ合いは、生活のあらゆる側面における人との直接的な触れ合いに取って代わることはできないし、代わってはならないことをつねに思い起こすことです。
 デジタル時代においても、すべての人が、信頼性に富み思慮深くある必要に迫られています。さらに、ソーシャル・ネットワーク固有の力は、人はつねにその伝えることとかかわっていることを示しています。情報を交換するとき、人はすでに自分自身、自分の世界観、希望、理想を共有しています。ですから、デジタルの世界に参加するためのキリスト教的な方法が存在するのです。それは、誠実かつ率直で、他者に対する責任と敬意をもったコミュニケーションの形で行われます。新たなメディアによる福音の告知は、各種メディアのプラットフォームに宗教的コンテンツを盛り込むことのみを意味するのではありません。それは、たとえ具体的に言い表さなくても、デジタル上のプロフィールの中で、また、福音とまったく矛盾せずに選択し優先し判断することを伝える中で、一貫してあかしすることも意味しているのです。さらに、デジタルの世界においても、実際、告知する側が常にあかししなければ、福音の知らせを告げ知らせることはできません。このような新しい表現方法が存在する新たな状況において、キリスト者は、自らが抱いている希望について説明を要求する人にはだれにでも弁明できるよう、今一度、招かれているのです(一ペトロ3・15参照)。
  デジタル時代に福音をあかしするにあたり、インターネットに特有な一部の考え方に疑問を投げかけることになりうる福音の見解に、すべての人がとりわけ注意を払う必要があります。まず第一に、分かち合いたいと切望する真理は、その「評判」や注目度で価値を見い出すことはできないことに、わたしたちは気づかなければなりません。わたしたちはそれを無難なものにしたり希釈しようとせずに、完全な形で伝えなければなりません。それは一時的に引きつけられるものなどではなく、日ごとの糧となるべきです。福音の真理とは、消費されたり表面的に利用されたりするものではなく、むしろ自由な応答を求めるたまものです。インターネット上の仮想空間で告知される場合にも、福音は、現実社会の中に具体的に生かされ、日々の生活をともにしている兄弟姉妹の素顔に結びついている必要があります。直接的な人間関係こそが、つねに信仰を伝えるための基盤であり続けるのです。
 わたしは、キリスト者に対し、十分な知識と責任を備えた創造性をもって、デジタル時代が可能にした結びつきのネットワークに堂々と参加するよう呼びかけたいと思います。それは単に参加したいという要求を満たすためではありません。なぜなら、このネットワークは人間の生活にとって不可欠な要素だからです。インターネットは、新しくさらに複合的な知的、霊的視野、すなわち新しい形の共有された認識の発展に貢献しています。この分野においても、わたしたちは、キリストは神であり、人類と歴史の救い主であり、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられる(エフェソ1・10参照)という信仰を告げ知らせるよう招かれています。福音を告げ知らせるには、敬意を伴うと同時に繊細であり、心を奮い立たせ、良心を突き動かすコミュニケーションが必要です。そのことは、エマオへの途上で弟子たちと一緒になった復活されたイエスの模範に表れています(ルカ24・13−35参照)。キリストが弟子たちに近づき、会話し、彼らの心のうちにあるものを優しく引き出したので、彼らは少しずつ、神秘を理解するよう導かれたのです。
 キリストの真理は、最終的には、結びつき、交わり、意味を求める人間の願いへの完全で真正な応答です。その願いを反映して、ソーシャル・ネットワークが広く普及しているのです。自らの根底にある信念をあかしするキリスト者は、インターネットが人々を非人格化する道具、感情において人を操る道具、または他者の意見の専有を権力者に認める道具となるのを阻むために多大なる貢献をしています。それどころか、キリスト者はすべての人が人間の永遠の問いを持ち続けるよう励ましています。その問いは、わたしたちの超越性への望みと、真に生きるに値する真正な生き方へのあこがれのあかしです。この比類ない人間の霊的あこがれこそが、わたしたちを真理と交わりを求めるよう促し、正直に誠意をもって通信するよう駆り立てるのです。
 わたしはとりわけ若者に、デジタルの世界で自分の存在を十分に生かすよう呼びかけたいと思います。新たな技術がその準備のために大いに活用されている次回のマドリードでのワールド・ユース・デーに向けて、わたしは彼らに再度、呼びかけます。コミュニケーションに携わる人々の保護の聖人、聖フランシスコ・サレジオのとりつぎによって祈ります。つねに誠実に専門家として仕事を行う力を神が彼らにお与えになりますように。わたしは皆様に心から使徒的祝福を送ります。

バチカンにて
2011年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの祝日
教皇ベネディクト十六世

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