教皇ベネディクト十六世の256回目の一般謁見演説 聖ジャンヌ・ダルク

1月26日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の256回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2010年9月1日から開始した「中世の女性の神秘家」に関する連続講話の第16回として、「聖ジャンヌ・ダルク」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日はジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc 1412-1431年)についてお話ししたいと思います。ジャンヌ・ダルクは1431年に19歳で亡くなった、中世末期の若い聖人です。『カトリック教会のカテキズム』で何度も引用される、このフランスの聖人は、とくにシエナの聖カタリナに近い人物です。イタリアとヨーロッパの守護聖人である聖カタリナについては最近の講話でお話ししました。実際、この二人の若い女性は、ともに庶民の出身で、信徒で、おとめとして奉献生活を行いました。二人は熱心な神秘家ですが、禁域の中でではなく、当時の教会と世界のきわめて劇的な現実のただ中で生きました。二人は、中世末期の歴史の複雑な出来事の中で福音の偉大な光を恐れることなくもたらした「力強い女性たち」のもっとも典型的な人物だと思われます。わたしたちは二人を、カルワリオ(されこうべ)で十字架につけられたイエスのそばにとどまった聖なる女性たちと、イエスの母マリアと並べて考えることができます。これに対して、使徒たちは逃げ去り、ペトロもイエスを三度否んだのでした。当時の教会は、約40年間続いた、西方教会の大分裂(1378-1417年)という深刻な危機を経験していました。シエナのカタリナが死んだ1380年には、一人の教皇と一人の対立教皇が存在しました。ジャンヌが生まれた1412年には一人の教皇と二人の対立教皇が存在しました。この教会分裂に加えて、ヨーロッパのキリスト教諸国家の間では兄弟どうし殺し合う戦争が続いていました。こうした戦争の中でもっとも悲惨だったのが、フランスとイングランドの間で果てしなく続いた「百年戦争」(1337-1453年)です。
 ジャンヌ・ダルクは文字を読むことも書くこともできませんでしたが、わたしたちは特別な歴史的価値をもつ二つの史料から、その魂の奥底を知ることができます。すなわち、ジャンヌに関する二つの『裁判記録』です。第一の『弾劾裁判記録』(Procès de Condamnation [PCon])は、ジャンヌの生涯の最後の数か月間(1431年2月-5月)にジャンヌに対して長時間にわたり何度も行われた尋問の筆記録を含みます。それは聖女自身のことばも記載しています。第二の『処刑判決破棄裁判すなわち復権裁判記録』(Procès en Nullité de la Condamnation et de Réhabilitation [PNul])は、彼女の全生涯についての約120人の証人の供述を含みます(Procès de Condamnation de Jeanne d’Arc, 3 vols.; Procès en Nullité de la Condamnation de Jeanne d’Arc, 5 vols., ed. Klincksieck, Paris 1960-1989参照)。
 ジャンヌはドンレミに生まれました。ドンレミはフランスとロレーヌの境界に位置する小さな村です。裕福な農民だった両親は、すべての人から善良なキリスト信者として知られていました。ジャンヌはこの両親から適切な宗教教育を授けられましたが、その際、「イエスのみ名」の霊性から大きな影響を受けました。この霊性はシエナの聖ベルナルディヌスによって教えられ、フランシスコ会士によってヨーロッパに広められていました。イエスのみ名にはつねに「マリアのみ名」が結びつけられました。こうして、民間信心を背景としたジャンヌの霊性は、深くキリストを中心としながら、マリアに根ざしたものでした。ジャンヌは幼いときから、深い愛徳と、貧しい人、病者、戦争の悲惨な状況の中で苦しむすべての人に対するあわれみを示しました。
 彼女自身のことばから、ジャンヌの宗教生活が13歳のときから神秘体験として深まったことが分かります(『弾劾裁判記録』:PCon, I, pp. 47-48)。ジャンヌは大天使聖ミカエルの「声」を通じて、自分がキリスト教的生活を強め、また自ら自分の民の解放のために努めるよう主から招かれていると感じました。彼女がすぐに行ったこたえ、すなわち彼女の「はい」は、秘跡の生活と祈りをさらに深めながら、おとめとして生きる誓願を立てることでした。彼女は毎日ミサにあずかり、しばしばゆるしの秘跡を受け、聖体拝領を行い、十字架につけられた主と聖母のご像の前で長時間沈黙のうちに祈りました。神との神秘的関係により、このフランスの農家の若い少女は、民の苦しみを前にして、あわれみと献身をますます強めました。この少女の聖性のもっとも独自の性格の一つは、この神秘体験と政治的使命の結びつきです。数年間の隠れた生活と内的成熟の後、彼女は短いながら激しい二年間の公的生活を送りました。すなわち、「活動」の一年間と、「受難」の一年間です。
 1429年初頭、ジャンヌは解放のわざを開始しました。多くの証言が示すとおり、このわずか17歳の若い女性は強靭で断固たる人物でした。彼女は不安で自信を失った人々に確信を与えることができました。あらゆる障害を乗り越えて、彼女は、将来のシャルル7世(Charles VII, Victorieux フランス王在位1422-1461年)となるフランス皇太子と会見しました。シャルル7世は、ポワティエでジャンヌに幾人かの大学の神学者による査問を受けさせました。神学者たちの判断は積極的なものでした。彼らはジャンヌのうちにいかなる悪も見いださず、むしろ彼女は善良なキリスト信者だと考えました。
 1429年3月22日、ジャンヌはイングランド王とオルレアンの町を包囲していた臣下の人々に対して口述筆記による重要な手紙を送りました(同:ibid., pp. 221-222)。ジャンヌは、イエスとマリアのみ名の光のもとに、二つのキリスト教国家が公正のうちにまことの和平を結ぶことを提案したのです。しかし、この提案は拒絶され、ジャンヌはオルレアンの解放のための戦いに加わらなければなりませんでした。この戦いは5月8日に行われました。ジャンヌの政治的活動の中でもう一つの重要な出来事は、1429年7月17日のランスでのシャルル7世王の戴冠式です。ジャンヌはまる1年間、兵士たちとともに生活しながら、彼らの中で真の福音宣教の使命を果たしました。彼女のいつくしみ、勇気、特別な清らかさについては多くの証言が存在します。すべての人がジャンヌを呼んだ名、また彼女も自らを呼んだ名は「おとめ(la Pucelle)」でした。
 ジャンヌの「受難」は1430年5月23日に始まります。この日、彼女は敵の手によって捕らえられたからです。12月23日、彼女はルーアンの町に連行されました。このルーアンで、長く劇的な「弾劾裁判」が行われました。「弾劾裁判」は1431年2月に開始し、5月30日の火刑をもって終了しました。裁判は大規模で正式なものでした。審理を取り仕切ったのは司教ピエール・コーション(Pierre Cauchon 1371頃-1442年)と異端審問官ジャン・ル・メートル(Jean le Maistre)という二人の教会裁判官でしたが、実際に裁判全体を進めたのは、判事として裁判に参加した、有名なパリ大学の神学者の大集団でした。これらのフランスの聖職者はジャンヌと反対の政治的立場をとっており、ジャンヌの人物と使命を最初から否定的に判断していました。この裁判は聖性の歴史の驚くべき一頁であるとともに、教会の神秘を照らす一頁でもあります。第二バチカン公会議のことばによれば、教会は「聖であると同時につねに清められるべきものである」(『教会憲章』8)からです。聖ジャンヌと、彼女を裁く聖職者たちの出会いは劇的なものでした。ジャンヌはこれらの判事により告発され、裁かれ、ついには異端者として断罪され、火刑による恐ろしい死に定められました。以前の講話でお話しした、聖ボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)、福者ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1265/1266-1308年)のような、パリ大学を輝かせた聖なる神学者とは異なり、これらの判事の神学者たちは、愛徳と、この若い女性のうちに神のわざを認める謙遜さを欠いていました。イエスのことばが心に思い浮かびます。イエスはいいます。神の神秘は小さな者の心に示されましたが、へりくだることを知らない学者や知恵ある者には隠されます(ルカ10・21参照)。こうしてジャンヌの判事たちは、彼女を理解し、その魂の美しさを見ることがまったくできませんでした。彼らは自分たちが聖女を断罪していることを悟らなかったのです。
 5月24日にジャンヌが行った、教皇の判断を求める訴えは法廷によって退けられました。5月30日の朝、ジャンヌは獄中で最後の聖体拝領を行い、ただちにヴィユ・マルシェ広場の火刑台に連れて行かれました。彼女は司祭の一人に、火刑台の前に行列の十字架を置いてくれるよう願いました。こうしてジャンヌは十字架につけられたイエスを仰ぎ見、何度も大声でイエスのみ名を唱えながら亡くなりました(『復権裁判』:PNul, I, p. 457; 『カトリック教会のカテキズム』435参照)。約25年後、教皇カリストゥス3世(Calixtus III 在位1455-1458年)の権威のもとに開かれた「復権裁判」は、ジャンヌの断罪の無効を宣言する正式な判決を下して終了しました(1456年7月7日。『復権裁判』:PNul, II, pp. 604-610)。 証人の宣誓供述と多くの神学者の判断(それらは皆、ジャンヌの側に立つものです)を含む、この長大な裁判記録は、ジャンヌの無垢と、その教会に対する完全な忠実を明らかにしています。ジャンヌ・ダルクは後に1920年、ベネディクト15世(Benedictus XV 在位1914-1922年)により列聖されました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖ジャンヌ・ダルクはその地上の生涯の最後の瞬間まで「イエスのみ名」を呼び求めました。「イエスのみ名」は、あたかも彼女の魂の絶えることのない息、彼女の心の鼓動であり、彼女の生涯全体の中心でした。詩人シャルル・ペギー(Charles Péguy 1873-1914年)を深く魅了した「ジャンヌ・ダルクの愛の神秘」は、イエスに対するまったき愛であり、イエスにおける、イエスのゆえの隣人への愛です。聖ジャンヌは次のことを理解していました。愛は、神、人間、天と地、教会、そして世界の存在全体を包みます。イエスはジャンヌの生涯の中でつねに第一の位置を占めました。彼女の美しいことばが示すとおりです。「まず第一にわが主に仕えるべきです」(『弾劾裁判記録』:PCon, I, p. 288〔『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』高山一彦訳、白水社、2002年、246頁〕;『カトリック教会のカテキズム』223参照)。イエスを愛するとは、つねにイエスのみ心に従うことを意味します。ジャンヌはまったき信頼と委託をもっていいます。「わたしはすべてに関して創造主である神にお任せしています。わたしはひたすら神を愛しています」(同:ibid., p. 337〔前掲邦訳271頁〕)。ジャンヌはおとめの誓願によってイエスのみへの愛に自分のすべてを完全にささげました。それは「わが主になした誓い、すなわち、自分が身体と魂の処女性を守るという誓い」(同:ibid., pp. 149-150〔前掲邦訳153頁参照〕)でした。魂の処女性は、「恵みの身分」であり、最高に価値あるものであり、彼女にとって人生でもっとも貴いものでした。それは彼女に与えられ、謙遜と信頼をもって守るべき、神のたまものです。第一の『裁判記録』のもっとも有名なテキストはこのことと関連しています。「同女は神の恩寵に浴していると思うか、と問うと、『もし現在わたしが恩寵に浴していないなら、神様はわたしに浴させてくださるでしょう。もしわたしが恩寵に浴しているなら、わたしをその状態にとどめてくださるでしょう』」(同:ibid., p. 62〔前掲邦訳83頁〕; 『カトリック教会のカテキズム』2005参照)。
 聖ジャンヌは、主との絶えざる対話の形で祈りを行いました。主も、判事に答える彼女を照らし、平和と安らぎを与えました。ジャンヌは信頼をもって願います。「いと優しい神よ、あなたの神聖なご受難の名誉にかけて、わたしはお願いをいたします。もしわたしに慈愛をかけてくださるなら、聖職者たちにどう答えたらよいかお教えください」(同:ibid., p. 252〔前掲邦訳228頁〕)。ジャンヌはイエスを「天と地の王」として仰ぎ見ました。だからジャンヌは「天地を手に載せている姿で・・・・わが主を」(同:ibid., p. 172〔前掲邦訳168頁〕)自分の旗印に描かせたのです。それは彼女の政治的使命を表す姿でした。自分の民を解放することは人間的正義のわざです。ジャンヌはこのわざを、イエスへの愛のゆえに、愛徳に基づいて果たしました。ジャンヌは、とくにきわめて困難な状況にあって政治生活を送る信徒にとって、すばらしい聖性の模範を示します。信仰はあらゆる決断を導く光です。100年後、もう一人の偉大な聖人である、英国人トマス・モア(Thomas More 1477-1535年)があかしするとおりです。ジャンヌはイエスのうちに教会の現実全体も仰ぎ見ました。それは地上で「戦う教会」であるとともに、天上の「勝利の教会」でもあります。彼女のことばによれば、「わが主と教会は一体のもの」(同:ibid., p. 166〔前掲邦訳164頁〕)です。『カトリック教会のカテキズム』(同795)に引用されたこのことばは、彼女を迫害し、弾劾する聖職者の判事を前にして行われた「弾劾裁判」という状況の中で、まことに英雄的な性格を帯びています。ジャンヌは、弾劾のときにも、イエスの愛のうちに、最後まで教会を愛する力を見いだしたのです。
 聖ジャンヌ・ダルクが現代の一人の若い聖女、すなわち幼いイエスのテレーズ(Thérèse de Lisieux 1873-1897年)に深い影響を与えたことを思い起こすのは、わたしの喜びです。禁域の中で過ごしたまったく異なる生涯の中で、このリジューのカルメル会修道女は自分がジャンヌのすぐそばにいると感じました。彼女は教会の中心で生き、世の救いのためにキリストの苦しみにあずかったからです。教会はこの二人を、おとめマリアに次ぐフランスの守護聖人としました。聖テレーズは、ジャンヌのようにイエスのみ名を唱えながら死にたいという望みを表しました(『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』:Les Manuscrits autobiographiques, Manuscrit B, 3r〔東京女子跣足カルメル会訳、伊従信子改訳、ドン・ボスコ社、1996年、286-287頁〕)。テレーズは奉献されたおとめの身分を生きながら、同じイエスと隣人への深い愛に促されていたのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖ジャンヌ・ダルクはその輝かしいあかしをもってわたしたちを招きます。キリスト教的生活の高い水準を目指しなさい。祈りによって日々の生活を導いていただきなさい。たとえどのような望みであっても、神のみ心を完全な信頼をもって果たしなさい。分け隔てなく、限度なしに愛のわざを行いなさい。そして、彼女のように、イエスの愛のうちに、教会を深く愛しなさい。ご清聴ありがとうございます。

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