教皇ベネディクト十六世の2011年1月30日の「お告げの祈り」のことば 真福八端

教皇ベネディクト十六世は、年間第四主日の1月30日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、年間第四主日の1月30日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日の日曜日に『世界ハンセン病の日』が行われます。『世界ハンセン病の日』は1950年代にラウル・フォルロー(1903‐1977年)によって始められ、国連によって正式に承認されました。ハンセン病は、減少しているとはいえ、残念ながら今もきわめて悲惨な状態に置かれた多くの人を苦しめています。わたしは、ハンセン病を患うすべての人に特別な祈りをささげることを約束します。またわたしは、ハンセン病患者を看護する人々、そして、さまざまな形でハンセン病の根絶のために努力する人々にもこの祈りをささげます。とくに活動開始50周年を記念する『イタリア・ラウル・フォルロー友の会』の皆様にごあいさつ申し上げます。
数日後、極東のさまざまな国々は、とくに家族の親密な雰囲気の中で、喜びをもって旧正月を祝います。これらの偉大な諸国民の皆様のために心から平安と安寧を祈ります。
今日は『世界聖地の平和のために祈る日』でもあります。エルサレムのラテン教会の総大司教とフランシスコ会聖地準管区とともに、すべての人にお願いします。主が、具体的な平和の計画の実現に向けて、人々の思いと心を一つに集めてくださいますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の年間第四主日に、福音は、主がガリラヤ湖のほとりの美しい丘の上で民衆に語った最初の偉大な説教を示します。聖マタイは述べます。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(マタイ5・1-2)。新しいモーセであるイエスは「山という『教壇』に腰を下ろしたのです」(『ナザレのイエス』:Gesù di Nazaret, Milano 2007, p. 88〔里野泰昭訳、春秋社、99頁〕)。そして、心の貧しい人、悲しむ人々、あわれみ深い人々、義に飢え渇く人々、心の清い人々、迫害される人々は「幸いである」と宣言しました(マタイ5・3-10参照)。これは新しい思想ではありません。むしろそれは、天から来て、人間の条件に触れる教えです。主は受肉によってこの人間の条件を受け入れることを望まれました。それはこの人間の条件を救うためです。それゆえ、「山上の説教は世界の広がりの中へ、現在と未来の広がりの中へと向けられています。・・・・イエスの説教は、イエスの倣びにおいて、イエスとともに歩むことにおいてのみ理解され、生きられるのです」(『ナザレのイエス』:Gesù di Nazaret, p. 92〔邦訳、103頁〕)。真福八端は新しい生活の計画です。それは世のさまざまな誤った価値観からわたしたちを解放して、現在と未来のまことの善へとわたしたちの心を開きます。実際、神が慰め、義への渇きをいやし、悲しむ人々の涙をぬぐってくださるとは、神が、すべての人に感覚的なしかたで報いを与えてくださるだけでなく、天の国を開いてくださるということです。「真福八端は、十字架と復活を弟子としての実存の中に移し替えたものです」(同:ibid., p. 97〔邦訳108-109頁〕)。真福八端は神の子の生涯を映し出しています。神の子は迫害され、死刑判決を受けるに至るまでさげすまれました。それは人間に救いをもたらすためです。
 ある古代の隠修士はこう述べました。「真福八端は神が与えてくださるたまものです。わたしたちはこのたまもののゆえに、そしてこのたまものからもたらされる報いのゆえに神に深く感謝しなければなりません。このたまものからもたらされる報いとは、来世における天の国であり、現世における慰めであり、神が与えてくださるあらゆる完全な善とあわれみです。・・・・わたしたちは地上でキリストの像となるからです」(ダマスコスのペトロス、Filocalia, vol. 3, Torino 1985, p. 79)。教会の歴史、キリスト教的聖性の歴史は、真福八端の注解です。なぜなら、聖パウロが述べるとおり、「神は・・・・力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(一コリント1・27-28)。だから教会は、物質的幸福や地上の権力にしばしば心を引かれる社会の中で、貧しいこと、さげすまれること、迫害されることを恐れません。聖アウグスティヌス(354-430年)はわたしたちにこう思い起こさせてくれます。「有益なのは、それらの災いを耐え忍ぶことではなく、それらをキリストのみ名のために単に平静な心をもって耐え忍ぶということにとどまらず、喜んで耐え忍ぶことである」(『主の山上のことば』:De sermone Domini in monte I, 5, 13, CCL 35, 13〔熊谷賢二訳、創文社、1970年、41頁〕)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。優れた意味で「幸いなかた」である、おとめマリアに祈り求めようではありませんか。主を求める力(ゼファニヤ2・3参照)、いつも喜びをもって主に従いながら、真福八端の道を歩む力が与えられますように。

略号
CCL Corpus Christianorum Series Latina

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