教皇ベネディクト十六世の258回目の一般謁見演説 聖ペトルス・カニシウス

2月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の258回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年2月2日から開始した「教会博士」に関する連続講話の第2回として、「聖ペトルス・カニシウス」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は聖ペトルス・カニシウス(Petrus Canisius 1521-1597年)についてお話ししたいと思います。「カニシウス」は彼の姓のラテン語形です。カニシウスは1500年代のカトリック教会のきわめて重要な人物です。カニシウスは1521年5月8日、オランダのネイメーヘンに生まれました。父はネイメーヘンの市長でした。ケルン大学で学んでいたとき、彼は、(カトリック生活を推進する中心だった)聖バルバラ修道院のカルトゥジア会修道士や、いわゆる「新しい敬虔(devotio moderna)」の霊性を深めた他の敬虔な人々を頻繁に訪ねました。聖イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de Loyola 1491-1556 年)の最初の仲間の一人の福者ピエール・ファーヴル(Pierre Favre; Petrus Faber 1506-1546年)の指導のもとで霊操を行った後、1543年5月8日にマインツ(ラインラント・プファルツ州)でイエズス会に入会しました。1546年6月、ケルンで司祭叙階を受け、早くもその翌年、アウグスブルク司教のオットー・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルク枢機卿(Otto Truchsess von Waldburg 1514-1573年)の顧問神学者としてトリエント公会議(1545-1563年)に参加しました。カニシウスは公会議においてイエズス会の二人の同僚、ディエゴ・ライネス(Diego Laínes 1512-1565年)とアルフォンソ・サルメロン(Alfonso Salmerón 1515-1585年)に協力しました。
  1548年、聖イグナティウスは、霊的養成を完成させるためにカニシウスをローマに派遣し、次いでメッシーナ学院に彼を派遣して、謙遜な会宅の仕事を務めさせました。1549年10月4日、ボローニャで神学博士号を取得したカニシウスは、聖イグナティウスからドイツにおいて使徒職を果たす任命を受けました。同じ1549年9月2日、カニシウスは教皇パウルス3世(Paulus III 在位1534-1549年)をカステル・ガンドルフォに訪ねた後、サンピエトロ大聖堂に赴いて祈りました。カニシウスはこの大聖堂で、聖なる偉大な使徒ペトロとパウロに、自分の重要な任務である新しい宣教のため、絶えざる使徒的祝福の力を与えてくれるよう祈り求めたのです。日記の中に彼はこのときの祈りのことばの一部を記しています。カニシウスはいいます。「わたしはこの大聖堂で、大きな慰めと恵みの現存が(ペトロとパウロの)執り成しを通じてわたしに与えられたのを感じた。二人はわたしのドイツにおける宣教を力づけ、ドイツの使徒であるわたしに恩典の支えを与えてくれたかのように思われた。主よ、あなたはご存じです。この同じ日にあなたが多くのしかたで、何度もわたしにドイツをゆだねてくださったことを。わたしは、今後、このドイツを司牧し続け、このドイツのために生き、そして死のうと望みます」。
  わたしたちは今、ルター(Martin Luther 1483-1546年)の宗教改革の時代にいることを念頭に置かなければなりません。当時、ドイツ語を話す国々のカトリック信仰は、宗教改革の魅力を前にして、消え去ってしまうかのように思われました。カニシウスにゆだねられた使命を果たすことはほとんど不可能に見えました。カニシウスの使命は、ドイツ語圏諸国のカトリック信仰を生き返らせ、刷新することだったからです。それは祈りの力によって初めて可能なことでした。イエス・キリストとの深い個人的な友愛という中心から出発して、初めて可能なことでした。イエス・キリストとの深い個人的な友愛とは、教会というキリストのからだのうちに、イエスの友となることです。そして教会は、イエスの現実の現存である聖体によって養われます。
  カニシウスは、イグナティウスと教皇パウルス3世から与えられた任務を果たすために、ドイツに向けて出発し、最初にバイエルン公国に赴きました。彼はバイエルン公国で、少なからぬ期間、奉仕職を務めました。カニシウスはインゴルシュタット大学の学部長、学長、副総長として、大学の学術的活動への配慮と、民衆の宗教的・道徳的改革に努めました。短期間、教区管理者を務めたウィーンでは、市内と郊外の病院や刑務所で司牧活動を行い、自らの『カテキズム』の刊行を準備しました。1556年、カニシウスはプラハに学院を創立し、1569年までイエズス会ドイツ管区の最初の管区長を務めました。
  ドイツ管区長職を務めながら、カニシウスはドイツ語圏諸国のイエズス会共同体、とくに学院の間に堅固なネットワークを作りました。これらの学院がカトリック改革とカトリック信仰の刷新の出発点となりました。この時期カニシウスは、ヴォルムスでのプロテスタント教会の指導者との対話に参加しました(1557年)。この指導者の中にはフィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon 1497-1560年)がいました。彼はまた2回、アウグスブルク帝国会議に出席しました(1559年、1565年)。教皇ピウス4世(Pius IV 在位1559-1565年)の代理として皇帝フェルディナント(Ferdinand 1503-1564年、神聖ローマ帝国皇帝在位1558-没年)のもとに赴いたスタニスラウス・ホシウス枢機卿(Stanislaus Hosius 1504-1579年)に随行しました(1560年)。トリエント公会議最終会期で発言し、両形態による聖体拝領と禁書目録の問題について述べました(1562年)。
  1580年、カニシウスはスイスのフリブールに赴き、説教と著作に専念しました。そして1597年12月21日、同地で亡くなりました。カニシウスは1864年、福者教皇ピウス9世(Pius IX 在位1846-1878年)により列福され、1897年、教皇レオ13世(Leo XIII 在位1878-1903年)により「ドイツの第二の使徒」と宣言され、1925年、教皇ピウス11世(Pius XI 在位1922-1939年)により列聖され、教会博士と宣言されました。
  聖ペトルス・カニシウスは生涯の長い期間、当時の社会でもっとも重要な人物と接触し、その著作によって特別な影響を与えました。彼はアレクサンドレイアの聖キュリロス(Kyrillos 370/380-444年)と大聖レオ(Leo Magnus 400頃-461年、教皇在位440-没年)の著作全集、聖ヒエロニュムス(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)の書簡集、フリューエの聖ニコラウス(Nikolaus von Flüe 1417-1487年)の祈りを刊行しました。さまざまな言語の信心書、幾人かのスイスの聖人の伝記、多くの説教集を出版しました。しかし、もっとも流布した彼の著作は1555年から1558年の間に書かれた3種類の『カテキズム』です。第一の『カテキズム』(Summa doctrinae christianae, Wien 1555)は、神学の基本概念を理解できる学生のために書かれました。第二のもの(Catechismus minimus, Ingolstadt 1556)は一般の若年者の初等宗教教育のために書かれました。第三のもの(Catechismus minor seu Parvus Catechismus catholicorum, Köln 1558)は中高等学校レベルの若者の学校教育のために書かれました。カニシウスはカトリック教理を、問答形式で、簡潔に、聖書のことばを用いて、きわめて分かりやすく、いっさいの批判なしに説明しました。存命中の時期だけで、この『カテキズム』は200版あまり刊行されました。そしてその後1900年代まで、数百版が刊行されています。ですからドイツでは、わたしの父親の世代でも、人々は『カテキズム』のことを単に『カニシウス』と呼んでいました。本当に、カニシウスは数世紀にわたってカテキスタを務めました。彼は数世紀にもわたって人々の信仰を育んだのです。
  聖ペトルス・カニシウスの特徴はこれです。彼は教義の原則への忠実を、すべての人に対して払うべき尊敬と調和的に結びつけることができました。聖カニシウスは、自覚的な罪深い背教と、状況に基づく、罪のない信仰の喪失とを区別しました。彼はローマに対して、プロテスタントに移ったドイツ人の大部分は罪がないと宣言しました。教派間が激しく対立していた歴史的時期にあって、彼は(これは特別なことですが)辛辣な態度や怒りに満ちた表現を避けました(すでに述べたとおり、これは当時のキリスト者の間の議論において稀なことでした)。そして、霊的に根本的なことがらを示し、教会の信仰を生き返らせることだけを目指しました。聖書と教父に関する彼の広く深い知識がそのために役立ちました。この知識は、彼の神との個人的な関係と、「新しい敬虔」とラインラント神秘主義に基づく禁欲的な霊性をも支えました。
  聖カニシウスの霊性の特徴は、イエスとの深く個人的な友愛です。たとえば彼は、1549年9月4日の日記の、主について述べたくだりでこう書いています。「ついにあなたは、あたかも至聖なる御からだの心をわたしに開いてくださったかのように(わたしはそれを目の前に見ているかのように思いました)、この源泉から飲むようわたしにお命じになりました。そして、ああ、わが救い主よ、あなたはご自分の泉からわたしの救いの水をくむよう招いてくださいました」。その後、カニシウスは、主が彼に三つの部分から成る服を与えてくださるのを見ます。この三つの部分は平和と愛と堅忍と呼ばれます。そしてカニシウスは、この平和と愛と堅忍から成る服を着て、カトリック教会の刷新のわざを果たしたのです。彼のイエスとの友愛(これが彼の個性の中心です)は、聖書と秘跡と教父への愛によって養われました。イエスとの友愛は、自分が教会の中で使徒の使命を受け継ぐ者だという自覚とはっきり結びついていました。このことはわたしたちに次のことを思い起こさせてくれます。真の福音宣教者は皆、つねにイエスと教会と一つに結ばれた道具です。だからこそその人は実を結びます。
  聖ペトルス・カニシウスは、イエスとの友愛をケルンのカルトゥジア会修道院の霊的雰囲気の中で学びました。この修道院の中で、彼は二人のカルトゥジア会の神秘家と密接なかかわりをもちました。すなわち、ヨハネス・ランスペルガー(Johannes Justus Landsberg; Lansperger; Johannes Gerecht 1490-1539年)、ラテン名ランスペルギウス(Lanspergius)と、ニコラス・ファン・エスケ(Nicolas van Esche; Nicolaus van Essche 1507頃-1578年)、ラテン名エスキウス(Eschius)です。その後カニシウスは、この友愛の経験、すなわち「まことに驚くべき親しさ(familiaritas stupenda nimis)」を、聖イグナティウスの『霊操』(Ejercicios espirituales; Exercitia spiritualia)の大部分を占める、 イエスの生涯の神秘の観想によって深めました。サンピエトロ大聖堂での使徒的奉仕職の奉献で頂点に達した、彼の主のみ心への深い信心の基盤はここにあります。
  聖ペトルス・カニシウスのキリストを中心とした霊性は、次の深い確信に基づいていました。自らの完徳を熱心に目指す魂は皆、日々、祈り、すなわち心の祈りを実践します。心の祈りは、イエスの弟子が神なる師との親しい友愛を体験することを可能にする通常の手段だからです。そのため聖カニシウスは、人々の霊的教育のために書いた著作の中で、福音書、祝日、ミサと他の秘跡の儀式の意味を解説しながら、典礼の重要性を強調します。しかし、同時に彼は、日々の個人的な祈りが、教会の公的礼拝への参加を助け、促す上で必要であり、優れていることをも信者に示そうと努めました。
  この勧告と方法は、今もその価値を失いません。とりわけ第二バチカン公会議が『典礼憲章』の中でこのことを権威をもってあらためて示したからです。典礼、とくに主日のミサへの参加、日々の個人的な祈り、そして神との個人的な関係によって養われなければ、キリスト者の生活は深まりません。多くの活動とわたしたちを取り巻くさまざまな刺激のただ中で、毎日、主の前で心を落ち着かせ、主のことばに耳を傾け、主に語りかける時間を見いだすことが必要です。
  同時に、その著作だけでなく、何よりもその生涯を通じて、聖ペトルス・カニシウスが残してくれた模範は、永遠に現代的な意味と価値をもち続けます。カニシウスははっきりとこう教えてくれます。使徒的奉仕職が効果的で、人々の心に救いの実りをもたらすためには次のことがどうしても必要です。それは、説教者がイエスを自らあかしすることです。イエスに進んで仕える道具であることです。そして、福音と教会への信仰と、道徳的に一貫した生活と、絶えざる愛と祈りによって、イエスと固く一つに結ばれていることです。これは、熱意と忠実をもってキリストと一致して生きようと望むすべてのキリスト信者にもいえることです。ご清聴ありがとうございます。

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