教皇ベネディクト十六世の259回目の一般謁見演説 十字架の聖ヨハネ

2月16日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の259回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年2月2日から開始した「教会博士」に関する連続講話の第3回として、「男子跣足カルメル修道会司祭、教会博士十字架の聖ヨハネ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 2週間前、スペインの偉大な神秘家イエスの聖テレサをご紹介しました。今日はスペインのもう一人の重要な聖人についてお話ししたいと思います。すなわち、聖テレサの霊的友人であり、聖テレサと同じようにカルメル会修道家族の改革者である、十字架の聖ヨハネです。十字架の聖ヨハネは1926年教皇ピウス十一世(在位1922-1939年)によって教会博士と宣言され、伝統的に「神秘博士(Doctor mysticus)」と呼ばれます。
 十字架のヨハネは1542年、アビラ近郊の、カスティーリャ・ラ・ビエハのフォンティベロスという小さな村に、ゴンサロ・デ・イエペス(Gonzalo de Yepes)とカタリナ・アルバレス(Catalina Alvarez)の子として生まれました。家族はとても貧乏でした。なぜなら、トレドの貴族の家庭に生まれた父ゴンサロは、身分の低い絹織物職人のカタリナと結婚したために家から出され、相続権を奪われたからです。ヨハネは父ゴンサロと幼い頃に死別し、9歳のとき、母と兄フランシスコ(Francisco)とともに、バリャドリッド近郊のメディナ・デル・カンポに移り住みました。メディナ・デル・カンポは経済と文化の中心地でした。このメディナ・デル・カンポでヨハネは「要理学校(Colegio de los Doctrinos)」に通いながら、マグダレナ教会付属修道院の修道女のためにつつましい仕事を行いました。その後ヨハネは、人間的な性格と勉学の成績のゆえに、まず聖母の御宿り病院の看護師となり、次いでメディナ・デル・カンポに設立されたばかりのイエズス会の学院に入ることを許されました。ヨハネはこの学院に18歳で入学し、3年間、文学、弁論術、古典語を学びました。養成を終えたとき、彼の召命が修道生活であることはきわめてはっきりしていました。そして、メディナにあった多くの修道会の中で、ヨハネはカルメル会への召し出しを感じました。
 1563年夏、ヨハネはメディナのカルメル会士のもとで修練を始め、修道名としてマティアス(マティア)を名乗りました。翌年ヨハネは有名なサラマンカ大学に派遣され、そこで3年間自由学芸と哲学を学びました。1567年、司祭叙階を受け、メディナ・デル・カンポに帰って、家族の愛に囲まれながら初ミサをささげました。このメディナ・デル・カンポで、ヨハネとイエスのテレサは初めて出会いました。この出会いは二人にとって決定的な意味をもちました。テレサは、男子修道会を含めたカルメル会の改革計画を説明し、ヨハネが「神のより大いなる栄光のために」この計画に賛同するよう提案しました。若き司祭ヨハネはテレサの考えに心を捕らえられ、テレサの計画を心から支持しました。二人は跣足カルメル修道会の最初の修道院をできるだけ早く設立することに関して考えと提案を共有しながら、数か月間ともに働きました。この修道院は1568年12月28日、アビラ県の寒村ドゥルエロに創立されました。
 最初の男子共同体はヨハネと他の3人の同志とともに形成されました。原始会則に従って自らの修道誓願を更新する際、4人は新しい名前を名乗りました。このときからヨハネは「十字架の」ヨハネと名乗りました。後に彼は世界中でこの名によって知られるようになります。1572年末、聖テレサの求めに応じて、ヨハネは、テレサが修道院長を務めるアビラのエンカルナシオン修道院の聴罪司祭・副院長になりました。この間の密接な協力と霊的友愛は、二人を互いに豊かにしました。テレサの最も重要な著作とヨハネの初期の著作が書かれたのもこの時期です。
 カルメル会の改革に参加することは容易なことではなく、ヨハネに深い苦しみを与えました。もっとも悲惨な出来事は、1577年にヨハネが捕らえられ、トレドの緩律カルメル会修道院に幽閉されたことです。それは不当な告発に基づくものでした。聖ヨハネは6か月間軟禁され、身体的・精神的なはずかしめと脅迫を受けました。彼はこのとき、他の詩とともに有名な『霊の賛歌』(Cántico espiritual)を書きました。ついに1578年8月16日から17日にかけての夜、ヨハネは危険を冒して牢から脱け出すことに成功し、トレドの跣足カルメル会修道院にかくまってもらいました。聖テレサとヨハネの同志の改革派修道士たちは大きな喜びをもってヨハネの解放を祝いました。ヨハネはしばらくの間元気を回復するのを待った後、アンダルシア地方に赴きました。ヨハネは10年間、アンダルシア地方のとくにグラナダのさまざまな修道院で過ごしました。彼はカルメル会のますます重要な職務に就き、ついにはアンダルシア管区長代理となって、霊的論考の著作を完成しました。やがて彼はテレサの修道家族の顧問会の顧問として生地に戻りました。テレサの修道家族は当時完全な法的自治を獲得していました。ヨハネはセゴビアのカルメル会修道院に住み、この共同体の長上の職務を果たしました。1591年、彼はあらゆる職責を解かれ、新しくできたカルメル修道会メキシコ管区に行くよう命じられました。他の10人の同志とともに長旅の準備をする間、彼はハエン近郊の人里離れた修道院に退き、そこで重い病にかかりました。ヨハネは模範的な落ち着きと忍耐をもって大きな苦しみに耐えました。1591年12月13日から14日にかけての晩、修友が読書課を唱える中、亡くなりました。「今日わたしは天国に行って、聖務を唱えます」。彼はこういって息を引き取りました。ヨハネの亡骸はセゴビアに移されました。ヨハネは1675年クレメンス十世(在位1670-1676年)によって列福され、1726年ベネディクト十三世(在位1724-1730年)によって列聖されました。
 ヨハネはスペイン文学の中でもっとも重要な抒情詩人と考えられています。もっとも重要な著作は次の4つです。『カルメル山登攀』(Subida del Monte Carmelo)、『霊魂の暗夜』(Noche oscura del alma)、『霊の賛歌』、そして『愛の生ける炎』(Llama de amor viva)です。
 『霊の賛歌』の中で、聖ヨハネは霊魂の清めの道を示します。霊魂の清めの道は、霊魂が神から与えられる愛と同じ愛をもって神を愛すると感じるに至るまで、神を少しずつ喜びをもって享受していく過程です。『愛の生ける炎』は、この展望を引き継ぎながら、神との一致と変容をさらに詳しく記述します。ヨハネはつねに火のたとえを用います。火は、木を熱し、燃やせば燃やすほど、ますます白熱して炎となります。聖霊もそれと同じように、暗夜の中で霊魂を清め、「洗い」、やがて霊魂を炎のように輝かし、熱します。霊魂の生涯は、たえず聖霊を賛美することです。聖霊は、神との永遠の一致の栄光をかいま見させてくださるからです。
 『カルメル山登攀』は、霊魂の段階的な清めという観点に基づいて霊的な歩みを解説します。霊魂の清めは、キリスト教的完徳の頂に上るために必要とされます。このキリスト教的完徳の頂を象徴的に示すのが、カルメル山の頂上です。清めは、神のわざと協力しつつ人間が歩む道として示されます。それは、神のみ心に反するあらゆる執着や愛情から霊魂を解放することを目指します。清めは、神との愛の一致に達するために完全なものでなければなりません。それは、感覚的生活の清めから始まり、3つの対神徳(信仰、希望、愛)を通じて得られる清め、すなわち、意図、記憶、意志の清めがこれに続きます。『暗夜』は「受動的」側面を解説します。「受動的」側面とは、霊魂の清めの過程における神からの働きかけです。実際、人間の努力だけでは、人格の悪い傾向や習慣の深い根源に達することができません。人間には、このような根源を抑制することしかできず、それを完全に引き抜くことはできません。そのためには神の特別な働きが必要です。神は霊魂を徹底的に清め、ご自身との愛の一致にふさわしい者にしてくださるからです。聖ヨハネはこのような清めを「受動的」と呼びました。なぜなら、この清めは、たとえ霊魂がそれを受け入れたとしても、聖霊の不思議なわざによって実現されるからです。燃え盛る炎である聖霊は、あらゆる不純なものを焼き尽くします。清めの状態にある霊魂は、暗夜の中にいるかのように、あらゆる試練にゆだねられます。 
 聖ヨハネの主要著作が示唆する以上のことは、わたしたちが彼の広く深い神秘的教えの重要な点に近づくことを可能にしてくれます。聖ヨハネの教えの目的は、聖性、すなわち神がわたしたち皆を招く完徳の状態に達するための確実な道を示すことです。十字架の聖ヨハネの考えでは、神によって造られた、存在するすべてのものはよいものです。わたしたちは被造物を通じて、これらの被造物に自らの刻印を残してくださったかたを見いだすことができます。しかし、神をそれ自体として、すなわち三位一体の神として知るために人間に与えられた唯一の力は、信仰です。神は、人間に伝えようと望まれたすべてのことを、イエス・キリストのうちに語られました。イエス・キリストは肉となった神のことばだからです。イエス・キリストは父のもとに行くための唯一、決定的な道です(ヨハネ14・6参照)。造られたものは皆、神と比べれば無です。神を離れては何も意味がありません。それゆえ、神との完全な愛に達するために、他のすべての愛をキリストにおいて神への愛に造り変えていただかなければなりません。これが、神のうちで造り変えていただくためには、清めと内的な無化が必要だと十字架の聖ヨハネが述べる理由です。神のうちで造り変えられることこそが、清めの唯一の目的なのです。この「清め」は、単に物質的なものをもたないこと、あるいは用いないことではありません。むしろ、霊魂を清め、自由にするのは、事物に対する無秩序な依存を排除することです。すべてのことを、神を人生の中心また目的として位置づけなければなりません。確かに、長く辛い清めの過程は、個人の努力を必要とします。しかし、真に中心となって清めを行うのは神です。人間にできるのはただ、「準備すること」、神の働きに心を開き、神の働きを妨げないことだけです。対神徳を実践するとき、人は自らを高め、自分の努力に価値を置きます。信仰、希望、愛が成長するリズムは、清めのわざ、すなわち、神のうちで造り変えられるに至るまで神と少しずつ一致していく過程とともに歩みます。この目標に達したとき、霊魂は三位一体のいのちそのものの中に溶け込みます。だから聖ヨハネは、霊魂が、神が愛してくださるのと同じ愛をもって神を愛するに至るというのです。なぜなら、霊魂は聖霊のうちに神を愛するからです。それゆえ神秘博士聖ヨハネは、三位一体との一致の頂に至っていなければ、それは真の意味での神との愛の一致ではないと断言します。この最高の状態にある聖なる霊魂は、すべてのものを神のうちに知り、もはや被造物を通して神に達する必要がありません。霊魂は神の愛に満たされているのを感じ、神のうちで完全な喜びを味わいます。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。最後に一つの問いが残ります。この聖人が述べる、崇高な神秘思想、完徳の頂に向かう熱心な歩みは、わたしたちにも何かを語りかけることができるでしょうか。現代生活のさまざまな状況の中で生きる、普通のキリスト信者にも何かを語りかけることができるでしょうか。それとも彼は、この清めと霊的上昇の道を実際に歩むことのできるわずかな選ばれた霊魂のために模範となるにすぎないのでしょうか。この問いにこたえるために、まず次のことを思い起こさなければなりません。十字架の聖ヨハネの生涯は「神秘的な雲の上の飛行」ではありませんでした。むしろそれは、きわめて過酷な、実践的、具体的生活でした。修道会の改革者として、彼は多くの反対に遭いました。修道会の管区長だったときもそうです。同じ修道会の修道士によって投獄されたときもそうです。彼は獄中で信じがたい侮辱と身体的虐待を受けました。それは過酷な生涯でしたが、彼はまさに数か月間、牢獄にいたとき、もっともすばらしい著作を書いたのです。そこから次のことが分かります。キリストとの道、すなわち「道」そのものであるキリストとともに歩むことは、すでに十分なわたしたちの生涯の重荷にさらに重荷を加えることではありません。この重荷をさらに重くすることではありません。それはまったく別のことがらです。それは光です。わたしたちがこの重荷を担う助けとなる、力です。もし人が自らのうちに深い愛を抱いているなら、この愛はその人にいわば翼を与えます。そして、人生の苦しみをもっとたやすく耐え忍ぶことができるようにしてくれます。なぜなら、その人は自らのうちに大きな光をもっているからです。この光が、信仰です。わたしたちは神から愛されています。キリスト・イエスのうちに神から愛してもらいます。このように神から愛してもらうことが、日々の労苦を耐え忍ぶための助けとなる、光です。聖性はわたしたちが作り出すものではありません。わたしたちが苦労して作り出すものではありません。むしろそれは、このように「心を開くこと」です。神の光が差し込めるように、自分の心の窓を開こうではありませんか。神を忘れずにいようではありませんか。わたしたちは、まさに神の光に心を開くことによって、力を見いだすからです。あがなわれた喜びを見いだすからです。主に祈りたいと思います。わたしたちを助けてください。このような聖性を見いだすことができますように。神から愛していただくことができますように。これこそが、わたしたち皆の召命であり、まことのあがないです。ご清聴ありがとうございます。

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