教皇ベネディクト十六世の261回目の一般謁見演説 聖フランソア・ド・サル

3月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の261回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年2月2日から開始した「教会博士」に関する連続講話の第5回として、「ジュネーヴ司教、教会博士聖フランソア・ド・サル(フランシスコ・サレジオ)」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「神は人間の心の神である(Dieu est le Dieu du cœur humain)」(『神愛論』:Traité de l’amour de Dieu I, XV〔岳野慶作訳、中央出版社、1962年、102頁〕)。わたしたちはこの単純に見えることばのうちに、今日皆様にお話ししたい一人の偉大な教師の霊性の特徴をとらえることができます。すなわち、司教にして教会博士、聖フランソア・ド・サル(François de Sales 1567-1622年)です。聖フランソア・ド・サルは1567年、フランスの国境地域で、由緒あるサヴォアの貴族の家柄であるボアジー公の息子として生まれました。16世紀と17世紀という二つの世紀をまたいで生きた彼は、終わりを迎えた世紀の教えと文化の最良のものを自分のものとし、人文主義の遺産と、神秘主義的な絶対者へのあこがれを結びつけました。彼はまったく申し分のない教育を受けました。高等教育はパリで学び、神学も研究しました。またパドヴァ大学で、父親の望みに従って法学を学び、教会法と市民法の両方の法(utroque iure)の学位を得ました。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)と聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)の思想を考察していた、バランスのとれた青年時代に、彼は深い危機に陥ります。この危機から、彼は自らの永遠の救いと自分に関する神の予定について疑問をもつに至り、当時の主要な神学的問題を真の意味での霊的悲劇として体験しました。彼は熱心に祈りましたが、疑いは彼を大いに苦しめ、数週間の間、食事も睡眠もまったくとれなくなるほどでした。この試練が頂点に達したとき、彼はパリのドミニコ会の教会に赴いて、心を開いてこう祈りました。「主よ。何が起ころうとも、あなたはすべてをみ手のうちにもっておられます。あなたの道は正義であり真理です。いかなることをあなたがわたしについて定められても・・・・あなたは正しい裁き手であり、あわれみ深い父です。主よ。・・・・わたしの神よ。わたしはあなたをこれからも愛します。わたしはあなたのあわれみにいつも希望を置きます。・・・・ああ主イエスよ。あなたは生ける者の地で、永遠にわたしの希望、わたしの救いです」(『列聖申請記録』:I Proc. Canon., vol. I, art 4)。20歳のフランソアは、徹底的で、解放をもたらす神の愛の現実のうちに平安を見いだしました。それは何の見返りも求めずに神を愛することです。神の愛に信頼することです。神が自分に何をなさるのか、決して問わないことです。わたしは、神がわたしに何を与え、何を与えてくださらないかに関係なく、単純に神を愛します。こうして彼は平安を見いだしました。そして、当時議論されていた予定についての問題は解決しました。なぜなら、彼は神から何を得られるかについてもはや問わなくなったからです。彼は単純に神を愛しました。神のいつくしみに身をゆだねました。そしてこれが彼の生涯を解く秘密です。この秘密は主著『神愛論』に示されることになります。
 フランソアは父の抵抗に打ち勝って、主の招きに従い、1593年12月18日、司祭に叙階されました。1602年ジュネーヴ司教となりました。時はジュネーヴがカルヴァン派の本拠地となっていた時代でした。そのため司教座はアネシーに「亡命」していました。貧しく苦しみのうちにある教区の牧者である彼は、自らその厳しさと美しさをよく知る山々の景色を前にして述べます。「わたしはこのもっとも高く峻厳な山々のうちに、甘美と優しさに満ちた(神)を見いだします。この山々で、多くの単純な魂が神を愛し、真理と真心をこめて神を敬ってきました。牝鹿とカモシカが恐ろしい氷河の間を駆け回り、神をたたえました」(『シャンタル夫人への手紙(1606年10月)』:Œuvres, éd. Mackey, t. XIII, p. 223)。しかし、当時とその後の時代のヨーロッパに対して彼の生涯と教えはきわめて大きな影響を及ぼしました。彼は使徒であり、説教者であり、著作家であり、活動と祈りの人でした。トリエント公会議の精神の実現に努めました。プロテスタントの人々との論争と対話に参加しました。そして、必要な神学的対決を超えて、個人的な関係と愛のわざがもつ力を体験しました。彼はヨーロッパのさまざまなレベルでの外交活動や、仲裁と和解のための社会的任務を果たすことを命じられました。しかし、聖フランソア・ド・サルは何よりもまず霊魂の指導者でした。一人の若い女性、シャルモアジー夫人(Mme de Charmoisy; Louise de Châtel)との出会いから、彼は近世においてもっともよく読まれた著作の一つである『信心生活入門』(Introduction à la vie dévote)を執筆する糸口を引き出しました。一人の特別な人物である聖ジャンヌ・フランソアーズ・フレミオ・ド・シャンタル(Jeanne Françoise Frémyot de Chantal 1572‐1641年)との深い霊的交流から、新たな修道家族であるマリア訪問会が生まれました。マリア訪問会は、聖フランソアの望みに従って、神への完全な奉献によって特徴づけられます。この奉献は、単純さとへりくだりのうちに、日々のことがらを特別によく果たすことを通じて行われます。聖フランソアは述べます。「・・・・わたしはわたしの娘たちが、へりくだりをもって(わたしたちの主を)たたえる以外の理想をもたないことを望みます」(『ド・マルケモンへの手紙(1615年6月)』)。聖フランソアは1622年、55歳で亡くなりました。その生涯は、時代の厳しさと使徒的な労苦によって特徴づけられるものでした。
 聖フランソア・ド・サルの生涯は比較的に短いとはいえ、きわめて充実したものでした。この聖人から流れ出るのは、たぐいまれな完全な人の印象です。それは静かな知的探求だけでなく、豊かな感情、教えの「優しさ」に示されます。彼の教えはキリスト教的良心に大きな影響を与えました。彼は、「人間性」ということばが過去においても現代においてもとりうるさまざまな意味を体現しました。すなわち、教養と礼儀、自由と優美、高貴と連帯です。彼の姿は、彼が住んだ風景の威容を示しました。しかし彼は単純さと自然さも保っていました。彼が用いる昔のことばとイメージは、わたしたち現代人が耳にしても、意外にも、素朴で親しみやすいものに感じられます。
 『信心生活入門』(1607年)の架空の名宛て人であるフィロテア(Philothea)に向けて、フランソア・ド・サルはある招きを行います。この招きは当時にあって革命的なものに見えたと思われます。この招きは、完全に神のものとなりながら、世における生活と自分の身分の務めを完全に果たしなさいというものです。「わたしは、市街(まち)の中に、仕事の中に、あるいは宮廷の中にとどまって・・・・生活を営まねばならない人々に教えたいのです」(『信心生活入門』序言〔戸塚文卿訳、『信心生活の入門』中央出版社、1963年、27-28頁〕)。教皇レオ13世(在位1878-1903年)が2世紀以上後にフランソア・ド・サルを教会博士と宣言した文書は、この完徳と聖性への招きの拡大のことを強調します。教皇はいいます。「(真の信心は)軍隊の指導者のテント、裁判官の官邸、事務所、商店、さらには羊飼いの小屋の中であっても、王の玉座にまで達する」(小勅書『ディヴェス・イン・ミゼリコルディア(1877年11月16日)』:Dives in misericordia)。そこから、この世のものごとを奉献し、日常生活を聖化するよう心がけなさいという、信徒への呼びかけが生まれました。これを第二バチカン公会議と現代の霊性が強調しているのです。フランソア・ド・サルは和解をもたらす人間性の理想について述べます。人間性は、神の恵みの助けによって、世における活動と祈りを、世俗の身分と完徳の追求を調和させます。神の恵みは、人間性の中に浸透し、それを破壊することなく清め、神の高さにまで高めます。聖フランソアは数年後、『神愛論』(1616年)を、テオティムス(Theotimus)という、霊的に成熟した大人のキリスト信者にあてて書きます。このテオティムスに、聖フランソアはより複雑な教えを与えます。この教えは、初めに、ある正確な人間観、人間論を前提します。人間の「理性」、より正確にいえば「理性的霊魂」は、調和のとれた建物とみなされます。それは中心を囲む多くの空間によって分けられた神殿です。この中心をフランソアは偉大な神秘家たちと同様に、霊の「頂」、「頂点」、あるいは霊魂の「奥底」と呼びます。この頂点において、理性は、あらゆる段階を通過した後、「目を閉じ」、認識は愛と一致します(同第1巻第12章参照)。神的次元における愛は、不和も隔たりも知らないように思われる上昇の階梯の中で、万物の存在理由となります。このことを聖フランソア・ド・サルは次の有名なことばで要約します。「人間は宇宙の冠、精神は人間の冠、愛は精神の冠、慈愛は愛の冠である」(同第10巻第1章〔前掲岳野慶作訳、709頁〕)。
 神秘的にきわめて成熟した時期に書かれた『神愛論』は、真に固有の意味での「大全(summa)」といえます。それは魅力的な文学作品でもあります。神への道程の記述は、万事に超えて神を愛する「自然的傾き」(第1巻第16章)の認識から出発します。この「自然の傾き」は、罪人であっても、人間の心のうちにしるされています。聖フランソア・ド・サルは、聖書の模範に従い、人格の相互関係に関する一連のたとえ全体を展開させながら、神と人間の一致について語ります。フランソアにとっての神は、父であり主です。夫であり友人です。神は母また乳母の特徴ももっています。神は太陽です。夜ですらこの太陽を神秘的なしかたで示します。この神は人間を愛のきずな、すなわちまことの自由のきずなをもってご自身へと引き寄せます。「愛は囚人も奴隷も有しない。すべてのものを、いかにも心地よい力をもって服従させる愛ほど強いものはないが、また、愛の力ほど快いものはないのである」(同第1巻第6章〔前掲岳野慶作訳、63頁〕)。わたしたちは聖フランソアの論考のうちに人間の意志に関する深い考察と、意志が流れ、過ぎ去り、死ぬことについての記述を見いだします(同第9巻第13章参照)。それは、神のみ心のためだけでなく、神を喜ばせること、神の「思し召し(bon plaisir)」、神がよしとすることに完全に身をゆだねて生きるためです(同第9巻第1章参照)。神との一致の頂点に、観想の脱魂の恍惚だけでなく、再び現れる具体的な愛のわざが位置づけられます。この愛のわざは他の人が必要としていることすべてに注意を向けます。フランソアはこれを「生活と働きの脱魂」(同第7巻第6章〔前掲岳野慶作訳、526頁参照〕)と呼びます。
 聖フランソアの神の愛についての著作や、霊的指導・霊的友愛のための多くの書簡を読むと、聖フランソア・ド・サルがどれほど人間の心を知り尽くしていたかがよく分かります。彼は聖ジャンヌ・ド・シャンタルにあてた手紙でいいます。「・・・・これこそ、大文字で書かれた、わたしたちの従順の規則です。『万事を愛を通して行いなさい。何ごとも力づくで行ってはなりません。不従順を恐れるより以上に、従順を愛しなさい』。自由な心をもってください。この自由は従順を排除するものではありません。そのような自由は、世がもっている自由です。むしろここでいう自由とは、暴力、不安、疑悩を排除する自由です」(『書簡(1604年10月14日)』)。現代の教育学や霊性に関する多くの方法の起源に、この教師フランソア・ド・サルの痕跡が見いだされることには、十分な理由があります。フランソア・ド・サルがいなければ、聖ジョヴァンニ・ボスコ(Giovanni Bosco 1815-1888年)もリジューの聖テレーズ(Thérèse de Lisieux 1873-1897年)の勇敢な「小さな道」も存在しなかったことでしょう。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。暴力や不安をもって自由を求める現代のような時代において、この霊性と平和の偉大な教師がもつ現代的な意味を見逃してはなりません。彼は弟子に「自由な心」を与えました。まことの「自由な心」は、愛の現実に関する、魅力的で完全な教えの頂点をなすものです。聖フランソア・ド・サルはキリスト教的ヒューマニズムの模範的なあかしです。彼はその親しみやすい文体と、ときには詩の響きをもつことばをもってわたしたちに次のことを思い起こさせてくれます。人間の自己の奥底には、神へのあこがれがしるされています。人間は神のうちにのみ、まことの喜びと完全な充溢を見いだすことができるのです。

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