教皇ベネディクト十六世の262回目の一般謁見演説 四旬節の意味

3月9日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の262回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「四旬節の意味、とくに灰の水曜日」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 おごそかな灰の象徴によって特徴づけられた今日から四旬節に入ります。わたしたちは過越の神秘をふさわしく祝うために自分を整える霊的な旅を始めます。わたしたちの頭にかけられた祝福された灰のしるしは、わたしたちに自分の被造物としての身分を思い起こさせます。悔い改めへと招きます。そして、ますます主に従うための回心の取り組みを強めます。
 四旬節は一つの道です。それはエルサレムへと上っていくイエスとともに歩むことです。エルサレムはイエスの受難と死と復活の神秘が行われた場所です。四旬節はわたしたちに次のことを思い起こさせます。キリスト教的生活は歩むべき一つの「道」です。この「道」は、単に法律を守ることから成るのではなく、キリストというかたのうちにあります。わたしたちはキリストと出会い、キリストを受け入れ、キリストに従わなければなりません。実際、イエスはわたしたちにこういわれます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)。つまりイエスはわたしたちにこういっておられます。わたしとともに復活の光と喜びに、すなわち、いのちと愛といつくしみの勝利に達するには、あなたがたも日々、十字架を背負わなければなりません。『キリストに倣いて』の美しい箇所が勧めるとおりです。「ゆえにおのが十字架を取ってイエスに従え。そうすれば永遠の生命に入るであろう。彼はその十字架を取ってお前の先に行き(ヨハネ19・17)、お前のため十字架の上で死にたもうたが、それはお前にも十字架を負い十字架の上で死ぬことを望ませるためであった。それはお前がもし彼とともに死ぬならば、また彼とともに生きるであろうし、お前がもし彼と苦しみをともにするならば、また彼とその栄えをともにするであろうからである」(同第2巻第12章2〔光明社、1958年、158頁〕)。わたしたちは四旬節第一主日のミサでこう祈ります。「わたしたちの父である神よ、わたしたちの回心のしるしである四旬節の典礼を通して、信じるわたしたちに、キリストの神秘を深く悟らせてください。ふさわしい生活をもってキリストをあかしすることができますように」(集会祈願)。これは神に対する祈願です。なぜならわたしたちは、わたしたちの心を回心させることがおできになるのは神だけであることを知っているからです。そして、何よりも典礼の中で聖なる神秘にあずかることを通して、わたしたちは主とともにこの道を歩むよう導かれます。わたしたちは典礼の中で、イエスの学びやに入ります。わたしたちに救いをもたらした出来事を思い起こします。しかしこの想起は、単に過去の事実を思い出し、記念することではありません。典礼の中では、聖霊のわざを通じてキリストが現存され、救いの出来事が現実のものとなります。このことを示すために典礼の中でしばしば用いられる、鍵となることばがあります。それは「今日」ということばです。この「今日」ということばを、比喩的な意味でではなく、本来の具体的な意味で理解しなければなりません。「今日」、神はご自分の律法を示し、「今日」、わたしたちに善と悪、生と死を選ばせます(申命記30・19参照)。「今日」、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。「今日」、キリストはカルワリオ(されこうべ)で死に、死者の中から復活しました。そして、天に上って、父の右の座に着かれます。「今日」、わたしたちに聖霊が与えられます。「今日」は恵みの時です。ですから、典礼にあずかるとは、キリストの神秘に、キリストの永遠の現存に、自分のいのちを浸すことです。いのちを得るために、キリストの死と復活へと導いてくれる道を歩み始めることです。
 とくに今年のA年の典礼暦の四旬節の主日の中で、わたしたちは洗礼の旅路を体験するよう導かれます。そして、いわば、洗礼を受けるための準備を行う洗礼志願者の道を歩みます。それは、自分のうちで洗礼のたまものをよみがえらせ、自分の生活が洗礼の秘跡の約束と要求を取り戻すためです。洗礼はわたしたちのキリスト教的生活の基盤だからです。わたしは今年の四旬節のために書いたメッセージで、四旬節と洗礼を結びつける特別なきずなを思い起こそうと望みました。教会はますます復活徹夜祭を洗礼式と結びつけるようになりました。洗礼式において偉大な神秘が実現します。この神秘によって、罪に死んだ人は、復活したキリストの新しいいのちにあずかり、イエスを死者の中から復活させた神の霊を受けます(ローマ8・11参照)。これから四旬節の主日の中で読まれる聖書朗読箇所に特別な注意を払ってくださるようお願いします。これらの朗読箇所は、洗礼を受ける洗礼志願者に同伴した、古くからの伝統に従って選ばれたものです。そこでは洗礼の秘跡の中で神が行われることに関する偉大な告知がなされます。それはわたしたち一人ひとりのために行われる驚くべきカテケージスです。四旬節第一主日――この主日は荒れ野でのイエスの誘惑を示すために「誘惑の主日」と呼ばれます――は、わたしたちをこう招きます。神を決定的なしかたで選ぶ決断を更新し、神に忠実に従い続けようとするわたしたちを待ち受ける困難に勇気をもって立ち向かいなさい。わたしたちはつねに新たに決断し、悪に逆らい、イエスに従わなければなりません。教会はこの主日に、代父母とカテキスタのあかしを聞いた後、過越の秘跡にあずかることを許された人々を選びます。四旬節第二主日は「アブラハムと変容の主日」と呼ばれます。洗礼は信仰の秘跡、神の子とされる秘跡です。信じる者の父であるアブラハムと同じように、わたしたちも、自分の土地を出発し、自分たちが作った安定を離れ、あらためて神に信頼を置くように招かれます。わたしたちは目指す目的を、愛する子であるキリストの変容のうちに垣間見ます。このかたに結ばれて、わたしたちも「神の子」となるのです。続く主日の中で、洗礼は水と光といのちの象徴によって示されます。四旬節第三主日に、わたしたちはサマリアの女と出会います(ヨハネ4・5-42参照)。エジプトを脱出したイスラエルと同じように、わたしたちも洗礼によって救いの水を受けます。サマリアの女にいわれたように、イエスはいのちの水をもっておられます。この水はすべての渇きをいやします。この水はイエスご自身の霊です。教会はこの主日に、洗礼志願者の審査を行い、続く週の中で信条(信仰宣言)を授与します。四旬節第四主日に、わたしたちは「生まれつきの盲人」(ヨハネ9・1-41参照)の体験を考察します。わたしたちは洗礼によって悪の闇から解放され、キリストの光を受けます。光の子として生きるためです。わたしたちもキリストのみ顔のうちに神の現存を見、そこから光を見ることを学ばなければなりません。洗礼志願者の歩みとしては、第二の審査が行われます。最後に、四旬節第五主日はラザロの復活を示します(ヨハネ11・1-45参照)。わたしたちは洗礼を受けて死からいのちへと移り、神のみ心にかなう者となります。古い人は死んで、復活した主の霊によって生きることができるようになります。洗礼志願者の第三の審査が行われ、この週の間に「主の祈り」が授与されます。
 四旬節の間わたしたちが歩むよう招かれた、四旬節の旅は、教会の伝統の中で、いくつかのわざによって特徴づけられます。すなわち、断食と施しと祈りです。断食とは、食事を控えることですが、節度ある生活を送るための他の形の自己放棄も含みます。しかし、これらのことも断食のすべてではありません。断食は、内的な現実を表す外的なしるしです。内的な現実とは、わたしたちが神の助けによって、悪を離れ、福音に従って生きようと努力することです。神のことばを糧とすることを知らない人は、本当の意味で断食しているとはいえません。
 キリスト教的伝統の中で、断食は施しと密接に関連します。大聖レオ(Leo Magnus 400頃-461年、教皇在位440-没年)は四旬節の説教の一つの中でこう教えています。「われわれは、キリスト信者がたえず実行すべきことを、今、もっと熱心に、もっと信心深く実行しなければならない。そうすれば、われわれは使徒の時代からの四十日間の断食という制度を、食物を節制するだけでなくとくに悪徳を矯正して守るのである。さて、聖なる合理的な断食に加えて行われる善業のうちで、もっとも有益なのは施しである。これは『慈善』と呼ばれるが、『慈善』という一つのことばは多くのほむべき善業を表している。善業は広く開いており、多様なものである。施しの分担にあたり、富裕な者だけでなくあまり恵まれていない貧者も、それぞれの役割を果たすことができる。そして、施す財に差異があっても、愛情は等しくなる」(『四旬節についての説教』:Sermones, PL 54, 286〔熊谷賢二訳、『キリストの神秘――説教全集――』創文社、1965/1993年、379-380頁〕)。大聖グレゴリウス(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)は『司牧規則書』(Regula pastoralis)の中でいいます。断食が聖なるものとなるのは、それに伴う徳、何よりもまず愛のわざのゆえにです。すなわち、貧しい人、困っている人に、自分の自己放棄の実りを与える、寛大なわざによってです(『司牧規則書』:Regula pastoralis 19, 10-11参照)。
 さらに四旬節は祈りのための特別な時です。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)はいいます。断食と施しは「祈りの二つの翼」です。それらは神に達するための飛翔を容易にしてくれます。聖アウグスティヌスはいいます。「こうしてへりくだりと愛のわざ、断食と施し、節制と侮辱へのゆるし、悪に対して仕返しせず、かえって善を行うこと。これらのことをもってささげるわたしたちの祈りは、わたしたちを悪から引き離し、善を行うことを通じて、平和を求め、平和をもたらします。これらの徳の翼によって、わたしたちの祈りは確実に空を翔け、容易に天に達します。天においてはわたしたちの平和であるキリストがわたしたちに先立っておられます」(『説教206――四旬節について』:Sermones 206, 3, PL 38, 1042)。教会は知っています。わたしたちの弱さのゆえに、沈黙して神の前に身を置き、神に依存する被造物であり、神の愛を必要とする罪人である自分の身分を自覚することは困難です。 だから教会は、四旬節の間、より忠実かつ熱心に祈り、神のことばを長時間黙想するよう招きます。聖ヨアンネス・クリュソストモス(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)は勧めていいます。「あなたの節度とへりくだりの家を、祈りで飾りなさい。あなたの住まいを正義の光によって輝かせなさい。家の壁をよいわざで美しく飾りつけなさい。純金の箔を施すように。そして、信仰と本性を超えた寛大さを、壁と高価な石の代わりに置きなさい。すべてのものの上に、屋根の上高く、建物全体の飾りとして祈りを置きなさい。そうすれば、あなたは主のためにふさわしい住まいを整えることができる。そうすれば、あなたは主を輝かしい宮殿に迎え入れることができる。主はご自身が現存する神殿で、あなたの魂を造り変えてくださる」(『祈りについて』:De precatione, PG 64, 466)。
 親愛なる友人の皆様。この四旬節の旅路の中で、決意と一貫した態度をもってわたしに従いなさいというキリストの招きを心して受け入れようではありませんか。洗礼の恵みと約束を更新することによって。それは、自分の中にある古い人を捨て、キリストを身にまとうためです。そうすれば、新たにされて復活祭を迎え、聖パウロとともにこういうことができるでしょう。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。どうか皆様がよい四旬節を過ごされますように。ご清聴ありがとうございます。

略号
PG Patrologia Graeca
PL Patrologia Latina

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