教皇ベネディクト十六世の263回目の一般謁見演説 ブリンディシの聖ロレンツォ

3月23日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の263回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年2月2日から開始した「教会博士」に関する連続講話の第6回として、「ブリンディシの聖ロレンツォ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  2008年にブリンディシでわたしが盛大な歓迎を受けたことを今も覚えています。ブリンディシは、有名な教会博士、ブリンディシの聖ロレンツォ(Lorenzo da Brindisi 1559-1619年)が生まれた町です。聖ロレンツォは、ジュリオ・チェザレ・ロッシ(Giulio Cesare Rossi)がカプチン・フランシスコ修道会に入会するときに名乗った修道名です。ロレンツォは若いときからアッシジの聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/1182-1226年)の修道家族に心を引かれました。実際、7歳で父親を失ったとき、母親はロレンツォをブリンディシのコンベンツアル聖フランシスコ修道会にゆだねました。しかし、数年後、彼は母親とともにヴェネツィアに移り、このヴェネト州でカプチン・フランシスコ修道会と出会いました。カプチン・フランシスコ修道会は当時、全教会に惜しみなく奉仕し、トリエント公会議が推進した偉大な霊的改革を拡大していました。1575年、ロレンツォは修道誓願を立ててカプチン・フランシスコ修道会士となり、1582年に司祭叙階を受けました。神学を学んでいたときから、彼は天性の傑出した知的才能を示しました。彼はギリシア語、ヘブライ語、シリア語などの古代語と、フランス語、ドイツ語などの近代語を容易に習得して、イタリア語とラテン語の知識に加えました。当時はラテン語が聖職者と教養人によって流暢に話されていたのです。
  多くの言語を使いこなせたロレンツォは、さまざまな種類の人々に対して活発な使徒職を果たすことができました。力強い説教者だった彼は、聖書だけでなくラビ文学にも深い造詣をもっていました。そのためラビも驚きと感嘆をもって彼を称賛し、尊敬しました。聖書と教父に精通した神学者として、彼は、とくに宗教改革に従っていたドイツのキリスト信者にも模範的なしかたでカトリックの教えを説明することができました。彼はマルティン・ルター(Martin Luther 1483-1546年)が問題にしたすべての信仰箇条が聖書と教父を基盤とすることを、明快で落ち着いた説明をもって示しました。彼が説明したのはとりわけ次のものです。すなわち、ペトロとその後継者の首位性、司教職が神に由来すること、人間を内的に造り変えるものとしての義化(義認)、救いのためのよいわざの必要性です。ロレンツォが成功を収めたことは、次のことを理解する助けとなります。現代においても、エキュメニカル対話を大きな希望をもって前進させるために、教会の聖伝の中で聖書を読み、検討することが、根本的に重要で、不可欠な要素です。使徒的勧告『神のことば』(同46)で述べようとしたとおりです。
  深い教養をもたない、きわめて素朴な信者にとっても、ロレンツォの説得力のあることばはためになりました。ロレンツォは身分の低い人々にも語りかけ、自分の生活を、告白した信仰と一致させるよう招いたからです。これはカプチン・フランシスコ修道会やその他の修道会の大きな功績でした。彼らは、生活のあかしと教えをもって社会に深く浸透することにより、16世紀と17世紀のキリスト教的生活の刷新に貢献したのです。現代の新しい福音宣教も、よく準備のできた、熱心で勇気ある使徒を必要としています。それは、福音の光とすばらしさによって、倫理的相対主義と宗教的無関心に基づく文化的傾向に打ち勝ち、さまざまな思考様式と行動様式を真のキリスト教的人間中心主義(ヒューマニズム)に造り変えるためです。ブリンディシのロレンツォが、他の骨の折れる重大な責務を果たしながら、イタリアをはじめとする諸国の多くの都市で、うむことのない優れた説教者としての活動を中断することなく行えたことは、驚くべきことです。実際彼は、カプチン・フランシスコ修道会内で、神学教授と修練長を務め、何度か管区長また総長顧問となり、ついには1602年から1605年まで総長となったのです。
  ロレンツォはこのような多くの職務の中で、特別な熱心さをもって霊的生活を深めました。そのために彼は、祈りと、とくにミサをささげることに多くの時間を割きました。彼は、主の受難と死と復活の記念に専心し、感動しつつ、しばしば何時間にもわたってミサをささげました。最近開催された「司祭年」の間しばしば強調されたとおり、すべての司祭は、聖人の学びやで、内的生活を大事にすることによって、初めて活動主義の危険を避けることができます。活動主義とは、奉仕職の深い目的を忘れて活動することです。聖ロレンツォが生まれた町ブリンディシの司教座聖堂で行った司祭と神学生への講話の中で、わたしはこう述べました。「祈りのときは、司祭生活の中でもっとも重要です。祈るとき、神の恵みはもっとも力強く働いて、司祭の奉仕職を実り豊かなものとします。祈ることは、司祭が共同体に対して果たすべき第一の奉仕です。それゆえ、わたしたちの生活の中で、祈りのときを本当に第一に優先しなければなりません。・・・・内的に神と交わりをもっていなければ、わたしたちは他の人に何も与えることができません。だから、神を第一に優先しなければならないのです。わたしたちの主と祈りによる交わりをもつために必要な時間をいつも確保しなければなりません」。さらにロレンツォは、まぎれもない熱心さをもって、司祭だけでなく、すべての人に祈りの生活を深めるよう勧めました。それは、祈りを通じてわたしたちが神と語り、神がわたしたちに語りかけてくださるためです。彼は大声で叫んでいいます。「ああ。このことを考えてほしい。わたしたちが祈りをもって語りかけるとき、神は本当にわたしたちのところにいてくださる。心と思いをもって祈りさえすれば、神は実際にわたしたちの祈りに耳を傾けてくださる。わたしたちのところにいて、わたしたちのことばに耳を傾けてくださるだけではない。そればかりか、神は進んで、大きな喜びをもって、わたしたちの願いをかなえることができるし、かなえることを望まれるのだ」。
  聖フランチェスコの弟子であるロレンツォの業績を特徴づけるもう一つの点は、平和のための活動です。歴代の教皇とカトリックの君主たちが、ヨーロッパ諸国間の争いを鎮め、一致を深めるための重要な外交使命を繰り返し彼にゆだねました。ヨーロッパ諸国は当時、オスマン帝国の脅威にさらされていたからです。彼はその道徳的権威により、助言者として意見を求められ、またその意見が聞き入れられました。聖ロレンツォの時代と同じように、現代世界も深く平和を必要としています。平和な人、平和を作り出す人を必要としています。神を信じるすべての者は、つねに平和の源また働き手とならなければなりません。まさにこのような外交使命を果たしていたとき、1619年、リスボンで、ロレンツォはその地上の生涯を終えました。このリスボンで、ロレンツォはスペイン王フェリペ3世(Felipe III 在位1598-1621年)のもとに赴き、地域の権威者の圧政の下に置かれたナポリ市民のために訴えたのでした。
  ロレンツォは1881年に列聖され、また、その力強く徹底した活動と、幅広く調和した学識のゆえに、1959年の生誕400周年記念の折に、教皇ヨハネ二十三世から「使徒的博士(Doctor apostolicus)」の称号を与えられました。この称号がブリンディシのロレンツォに認められたのは、彼が聖書釈義と神学に関する多数の著作と、説教用の書物を書いたためでもあります。これらの著作の中で、ロレンツォは救いの歴史を有機的な形で説明します。救いの歴史の中心は、受肉の神秘に置かれます。受肉は、人間に対する神の愛をもっとも偉大な形で現すからです。さらに、優れたマリア神学者であり、『マリア説教集』(Mariale)という標題の聖母についての説教集を著した彼は、おとめマリアの独自の役割を明らかにしました。彼は、マリアの無原罪の御宿りと、マリアがキリストの成し遂げたあがないのわざに協力したことをはっきりと主張しました。
  ブリンディシのロレンツォは、繊細な神学的感覚をもって、信者の生活において聖霊が働くことも強調しました。彼はわたしたちに次のことを思い起こさせてくれます。至聖なる三位一体の第三のペルソナは、そのさまざまなたまものにより、喜びをもって福音のメッセージを生きようと努めるわたしたちを照らし、助けてくださいます。ロレンツォは述べます。「聖霊は神の律法のくびきを甘美なものとし、その重さを軽くしてくださる。それは、わたしたちが神のおきてをいともたやすく、あまつさえ喜びをもって守れるようにするためである」。
  ブリンディシの聖ロレンツォの生涯と教えに関するこの簡単な紹介を、次のことを強調することをもって終えたいと思います。ロレンツォの活動の全体を促したのは、聖書への深い愛と――彼は聖書のほとんどすべてを記憶していました――、次の確信です。すなわち、神のことばを聞いて受け入れるなら、人は内的に造り変えられ、そこからわたしたちは聖化されるということです。ロレンツォはいいます。「主のことばは、人が神を知り、愛することができるために、知性にとっての光、意志にとっての火です。恵みにより聖霊に従って生きる内的な人にとって、それはパンであり水です。しかし、それは蜜よりも甘いパンであり、ぶどう酒と乳よりもよい水です。・・・・それは悪徳によって固くこわばった心をたたく槌(つち)です。それは、あらゆる罪を破壊するために、世と悪魔の肉を断つ剣です」。ブリンディシの聖ロレンツォはわたしたちに教えていいます。聖書を愛しなさい。聖書にもっと親しみなさい。日々、祈りの中で神との友愛の関係を育みなさい。そうすれば、わたしたちのすべての行いと活動は、主から始まり、主のうちに終わるでしょう。わたしたちはこの泉から水をくまなければなりません。そうすれば、わたしたちはキリスト者としてのあかしを輝かし、現代人を神へと導くことができるのです。

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