教皇ベネディクト十六世の2011年3月27日の「お告げの祈り」のことば イエスの渇き

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第三主日の3月27日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第三主日の3月27日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「リビアから届くいつもきわめて悲惨な知らせに接し、市民の無事と安全に対する不安と、現実の武力行使によって特徴づけられた、状況の成り行きに対する懸念を募らせています。大きな緊張の中で、恒久的な平和的解決を求めて、用いうるあらゆる外交手段を使い、関係国間の和解への展望と望みのかすかなしるしも支えることがますます緊急に必要です。
  このような展望において、リビアと北アフリカ地域における平和の回復のために主に祈りをささげるとともに、国際機関と政治・軍事指導者に対して、武力行使を中止し、ただちに対話を開始することを心から呼びかけます。
  最後にわたしの思いは中東の公権と市民に向かいます。中東ではこの数日間、さまざまな暴力行為が生じているからです。公正で友愛に満ちた共存に向けて、対話と和解の道が優先されますように」。
中東ではイスラーム教の金曜日の集団礼拝日の3月25日(金)、各地で大規模なデモが起き、デモの鎮圧により多数の死傷者が出ています。シリア南部ダルアーでは、これまでに少なくとも55人が死亡したと報道されています。ヨルダンの首都アンマンでも、政治改革を求めるデモ隊に対する警察の鎮圧で、男性1人が死亡しました。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日の四旬節第三主日は、ヨハネ福音書記者が語る、有名なイエスとサマリアの女の対話によって特徴づけられます。女は毎日、太祖ヤコブにさかのぼる古い井戸のところまで、水をくみに通っていました。そして、その日、「旅に疲れて」(ヨハネ4・6)、井戸のそばに座っておられたイエスと出会いました。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)は解説していいます。「イエスがお疲れになったのは理由なきことではなかった。・・・・キリストの強さがあなたを創造した。キリストの弱さがあなたを新たに創造した。・・・・キリストはご自身の強さをもってわたしたちを作り上げ、ご自身の弱さをもってわたしたちを捜されたのだ」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 15, 2〔水落健二訳、『アウグスティヌス著作集23 ヨハネによる福音書講解説教(1)』教文館、1993年、262-263頁〕)。そのまことの人間性のしるしである、イエスの疲れは、受難の序奏とみなすことができます。イエスはこの受難によって、わたしたちのあがないのわざを成し遂げられました。とくに井戸でのサマリアの女との出会いのうちに、キリストの「渇き」というテーマが現れます。このテーマは、十字架上での「渇く」(ヨハネ19・28)という叫びにおいて頂点に達します。たしかにこの渇きには、疲れと同様に、身体的な理由がありました。しかしイエスは、アウグスティヌスもいうとおり、「この女の信仰に」、そしてわたしたち皆の信仰に「渇いておられた」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 15, 11)のです。父である神は、わたしたちの永遠のいのちへの渇きをいやすために、イエスを遣わし、わたしたちにご自身の愛を与えてくださいました。しかしイエスは、このたまものをわたしたちに与えるために、わたしたちの信仰を求めます。全能の愛であるかたは、いつも人間の自由を尊重します。このかたは人間の心の戸をたたき、辛抱強く人間のこたえを待っておられます。
  サマリアの女との出会いの中で何よりも際立っているのは、水の象徴です。水は明らかに洗礼の秘跡を暗示します。洗礼は、神の恵みのうちに信仰を与える、新しいいのちの泉です。実際、この福音は――灰の水曜日の講話で述べたとおり――、おごそかな復活徹夜祭で行われるキリスト教入信に向けた洗礼志願者の古来の準備の過程の一部をなします。イエスはいわれます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)。この永遠のいのちに至る水とは、優れた意味での「たまもの」である、聖霊のことです。イエスは、この「たまもの」を父である神からもたらすために来られました。洗礼を受けて、水と聖霊から新たに生まれる者は、神との現実の関係をもつようになります。それは、子としての関係です。そして、「霊と真理をもって」(ヨハネ4・23、24)神を礼拝することができるようになります。イエスがサマリアの女に示したとおりです。イエス・キリストと出会い、聖霊を与えられることにより、人間の信仰は、神の完全な啓示へのこたえとして、完全なものとなります。
  わたしたちは皆、サマリアの女と同じようになることができます。とくにこの四旬節の間、イエスはわたしたちに語りかけようと、わたしの心に語りかけようと、待ち構えておられます。自分の部屋や、教会堂や、人里離れたところで、沈黙のときを過ごそうではありませんか。わたしたちに語りかけるイエスの声に耳を澄まそうではありませんか。「もしあなたが、神のたまものを知って・・・・いたならば」(ヨハネ4・10)。おとめマリアの助けによって、わたしたちがこのよい時を逸することがありませんように。わたしたちのまことの幸福はこの時にかかっているからです。 

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