教皇ベネディクト十六世の2011年4月3日の「お告げの祈り」のことば 喜びの主日

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第四主日の4月3日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第四主日の4月3日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。昨日はわたしの敬愛する前任者である尊者ヨハネ・パウロ二世の6回目の命日祭でした。列福が間近であるため、わたしは安息を祈るための恒例のミサをささげませんでしたが、祈りのうちに愛情をこめて教皇を思い起こしました。皆様も同じようにされたと思います。四旬節の歩みを通して、わたしたちは復活祭の準備をしていますが、同時に、喜びのうちに、この偉大な教皇にしてキリストの証人を福者として崇敬し、ますますその執り成しにより頼むことができるようになる日が近づいています」。


  親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちが過ごしている四旬節の歩みは、特別な恵みのときです。この期間、わたしたちに対する主の恵みのたまものを味わうことができるからです。「喜び(Laetare)の主日」と呼ばれる今日の主日の典礼は、わたしたちをこう招きます。喜び祝いなさい。感謝の祭儀の入祭唱が叫び声を上げるとおりです。「エルサレムよ、喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ、彼女を愛するすべての者よ、ともに集え。悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足りよ」(イザヤ66・10-11参照)。この喜びの深い理由は何でしょうか。イエスが生まれつきの盲人をいやす今日の福音が、それを語ります。主イエスが目の見えなかった人に発した問いは、物語の頂点をなすものです。「あなたは人の子を信じるか」(ヨハネ9・35)。この人はイエスが行ったしるしを認めて、目の光から信仰の光へと導かれます。「主よ、信じます」(ヨハネ9・38)。素朴で真面目な一人の人が、少しずつ信仰の道を歩むさまに目をとめなければなりません。彼は最初、多くの人の中の一人の「人」としてのイエスに出会います。その後、彼はイエスを「預言者」と考えます。ついに彼の目は開け、イエスを「主」と宣言します。目の見えなかった人の信仰と対照的なのが、ファリサイ派の人々の頑なな心です。彼らは奇跡を受け入れようとしません。イエスをメシアとして受け入れることを拒むからです。これに対して、群衆はこの出来事について論じ合いますが、そこから距離を置き、無関心なままでいます。目の見えなかった人の両親さえも、ほかの人の判断に対する恐れに打ち負かされます。
 それでは、わたしたちはイエスにどのような態度をとるのでしょうか。わたしたちもアダムの罪によって「目の見えない人」として生まれました。しかし、洗礼の泉の中でキリストの恵みに照らされました。罪は人類を傷つけ、死の闇へと向かわせました。しかし、キリストのうちに、新しいいのちが輝きます。新しいいのちこそが、わたしたちがそこへと招かれている目的です。わたしたちはキリストに結ばれ、聖霊に強められて、悪に打ち勝ち、善を行う力を与えられます。実際、キリスト教的生活は、新しい人のかたどりであるキリストに似た者に絶えず造り変えられることです。それは、神との完全な交わりに達するためです。主イエスは「世の光」(ヨハネ8・12)です。なぜなら、イエスのうちに「神の栄光を悟る光が輝く」(二コリント4・6)からです。この光が、歴史の複雑な行路の中で、人生の意味を示し続けます。洗礼式の中で、復活のろうそくから火をともしたろうそくを授与することは、この秘跡の中で行われることを理解するための助けとなるしるしです。わたしたちは、自分の人生をキリストの神秘によって照らしていただくことによって、人生が完全に実現することを脅かすすべてのものから解放される喜びを味わいます。復活祭に向けて自分を整えるこの日々の中で、洗礼のときに与えられたたまものを生き返らせようではありませんか。ときには消えそうな炎を燃え立たせようではありませんか。祈りと隣人への愛によって、この炎をさらに輝かそうではありませんか。
 教会の母であるおとめマリアに四旬節の歩みをゆだねたいと思います。すべての人が世の救い主であるキリストと出会うことができますように。

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