教皇ベネディクト十六世の266回目の一般謁見演説 聖性への普遍的召命

4月13日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の266回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2011年2月2日から開始した「教会博士」に関する連続講話の第9回(1999年2月11日から開始した中世の神学者をはじめとする教父・神学者・神秘家・教会博士に関する講話の締めくくり)として、「すべてのキリスト信者が聖性へと招かれていること」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの2年間の一般謁見の中で、多くの男性と女性の聖人がわたしたちとともに歩いてくださいました。わたしたちは彼らをもっとよく知ることができるようになりました。そして、教会の歴史全体はこれらの人々によって特徴づけられていることを理解できました。彼らはその信仰と愛と生涯によって、多くの時代の人々にとって導き手となってきましたし、今もわたしたちの導き手となっています。聖人は、復活した主がともにいて、力強くわたしたちを造り変えてくださることを、さまざまなしかたで示します。彼らの生涯は完全にキリストによって捕らえられていました。そこで彼らは聖パウロとともに次のようにいうことができました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。聖人の模範に従い、その執り成しにより頼み、彼らとの交わりに入ることは、「わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、すべての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭(かしら)からのようにキリストから流れ出る」(第二バチカン公会議『教会憲章』50)のです。そこで、これまでの連続講話の終わりに、聖性とは何かについてすこし考えてみたいと思います。
 聖人であるとは、いかなることでしょうか。だれが聖人と呼ばれるのでしょうか。聖性とは少数の選ばれた人だけが到達しうるものだと、しばしば考えられています。これに対して、聖パウロは神の偉大なご計画を述べて、次のようにいいます。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1・4)。聖パウロはわたしたち皆のことを述べています。神のご計画の中心にいるのはキリストです。神はキリストのうちにそのみ顔を示されます。何世紀もの間隠されていた神秘が、肉となったみことばのうちに完全に現されたのです。パウロは後にこういいます。「神は、み心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせました」(コロサイ1・19)。生きておられる神は、キリストのうちにわたしたちに近づき、ご自身を、目で見ることができ、耳で聞くことができ、手で触れることのできるものとなさいました。それは、すべての人が恵みと真理を豊かに受けることができるためです(ヨハネ1・14-16参照)。そのため、すべてのキリスト信者は唯一最高の律法を知っています。聖パウロはそれを、彼の著作のあらゆるところに現れる定式で言い表します。すなわち、「キリスト・イエスに結ばれて」です。聖性、すなわち完全なキリスト教的生活とは、特別な事業をなし遂げることではありません。むしろそれは、キリストと一つに結ばれることです。キリストの神秘を生きることです。キリストの生き方、考え方、態度を自分のものとすることです。聖性の度合いは、キリストがわたしたちのうちで達する背丈によって決まります。聖霊の力で、わたしたちがどれだけキリストの生き方に基づいて自分の生き方を形づくるかによって決まります。聖性とはイエスと同じ姿に造り変えられることです。聖パウロがいうとおりです。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(ローマ8・29)。聖アウグスティヌスは大声で叫んでいいます。「そのとき、わたしの生はまったくあなたにみたされ、真に生ける者となることでしょう」(『告白』:Confessiones 10, 28〔山田晶訳、『世界の名著14 アウグスティヌス』中央公論社、1968年、366頁〕)。第二バチカン公会議は『教会憲章』の中で、すべての人が聖性へと招かれていると、はっきりと述べます。公会議は一人の例外もないと強調していいます。「神の霊に導かれ、・・・・キリストの栄光にあずかるために、貧しく謙虚にして十字架を担いたもうキリストに従うすべての人は、さまざまな生活のしかたと種々の職務のうちに、唯一の聖性を追求しているのである」(同41)。
 しかし、次の問いが残ります。わたしたちはどのようにして聖性への道を歩むことができるでしょうか。どのようにしてこのような招きにこたえることができるでしょうか。そのようなことを自分の力でなしうるでしょうか。答えははっきりしています。聖なる生活は、主として自分の力や行為によって作り出せるものではありません。なぜなら、わたしたちを聖なる者とするのは、三重に聖なるかたである(イザヤ6・3参照)神だからです。それは、わたしたちを内側から促す聖霊の働きだからです。聖なる生活とは、復活したキリストのいのちそのものだからです。このいのちがわたしたちに伝えられ、わたしたちを造り変えるのです。再び第二バチカン公会議とともに、こういうことができます。「キリストに従う者は、自分のわざによってではなく神の計画と恩恵によって、神から召されて主イエスにおいて義とされ、信仰の洗礼を受けて真に神の子となり、神の本性にあずかるものとされ、したがって真に聖なるものとされたのである。それゆえ、彼らは受けた聖性を、神の助けのもとに生活の中で守り完成するようにしなければならない」(同40)。それゆえ、聖性の究極の源は、洗礼の恵みのうちにあります。キリストの過越の神秘に接ぎ木されることのうちにあります。わたしたちはこの過越の神秘によって、キリストの霊を与えられるからです。キリストの霊とは、復活した主のいのちです。聖パウロは、洗礼の恵みによって人間のうちで変容が行われることをはっきりと強調します。そのために彼は、接頭辞「ともに」を結びつけた新しい用語を作り出します。わたしたちはキリストと「ともに死に」、「ともに葬られ」、「ともに復活し」、「ともに生きる」のです。わたしたちは将来、キリストと切り離しえないしかたで結ばれます。パウロはいいます。「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが・・・・死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6・4)。しかし、神はつねにわたしたちの自由を尊重し、わたしたちがこのたまものを受け入れて、このたまものが要求することを生きることを求めます。神は、わたしたちが聖霊のわざによって造り変えられ、自分の意志を神のみ心と同じものにすることを求めるのです。
 どうすれば、わたしたちの思考様式と行動様式を、キリストとともに考え、行動することにし、そればかりか、キリストの思いと行動にすることができるでしょうか。聖性の秘訣とは何でしょうか。ここでも第二バチカン公会議は正確に述べます。キリスト教的聖性とは、完全に愛を生きることにほかなりません。「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」(一ヨハネ4・16)。今や神は、わたしたちに与えられた聖霊によって、ご自分の愛をわたしたちの心に豊かに注いでくださいます(ローマ5・5参照)。そのため、第一のもっとも必要とされるたまものは愛です。わたしたちは愛によってすべてを超えて神を愛し、神への愛のゆえに隣人をも愛します。しかし、愛がよい種のように心の中で育ち、実を結ぶために、信者は皆、神のことばに進んで耳を傾けなければなりません。そして、恵みの助けによって、自らのわざをもって、神のみ心を果たさなければなりません。秘跡、とりわけ聖体の秘跡と、聖なる典礼に頻繁にあずからなければなりません。祈りと、自己放棄と、兄弟への積極的な奉仕と、あらゆる徳の実行にたえず励まなければなりません。実際、愛は、律法を完成させ、まっとうするきずなです(コロサイ3・14、ローマ13・10参照)。愛は聖化のあらゆる手段を監督し、形づくり、目的へと導きます。もしかするとこの第二バチカン公会議のことばはわたしたちにあまりにも荘厳に聞こえるかもしれません。もっと単純なしかたで語るべきかもしれません。必要不可欠なことは何でしょうか。必要不可欠なのは、主日には必ず、聖体のうちに復活したキリストと出会うようにすることです。これは負担ではなく、むしろ週全体を照らす光となります。毎日、必ず神との短い触れ合いをもって一日を始め、一日を終えることです。そして、人生の歩みの中で、神が与えてくれた「道しるべ」、すなわち十戒に従うことです。わたしたちは十戒をキリストによって読まなければなりません。十戒とは、特定の状況の中で愛するとはいかなることかについての解説にほかなりません。主日に復活した主と出会うこと。一日の始めと終わりに神に触れること。決断において、神が与えてくださった「道しるべ」――それは愛の形式にほかなりません――に従うこと。これこそが、聖なる生活の単純さであり、偉大さだと、わたしは思います。それゆえ、まことのキリストの弟子の特徴をなすものは、神への愛と、隣人への愛です(『教会憲章』42)。これこそが、キリスト教的生活、すなわち聖人の生活の単純さであり、偉大さであり、深みです。
 だから聖アウグスティヌスはヨハネの手紙一の第4章の解説の中で、大胆にこう述べたのです。「愛しなさい。そしてあなたが望むことを行いなさい(Dilige et fac quod vis)」。アウグスティヌスは続けていいます。「沈黙するときは、愛のゆえに沈黙しなさい。語るときは、愛のゆえに語りなさい。罰するときは、愛のゆえに罰しなさい。ゆるすときは、愛のゆえにゆるしなさい。愛に根ざしなさい。愛という根からは、善のほかは何も生まれないからです」(『ヨハネの手紙一講解』:In Johannis epistulum ad Parthos tractatus 7, 8, PL 35)。愛に導かれる人、愛を完全に生きる人は、神に導かれています。これが、「愛しなさい。そしてあなたが望むことを行いなさい(Dilige et fac quod vis)」という偉大なことばがいわんとすることです。
 もしかするとわたしたちは自らにこう問いかけるかもしれません。たくさんの限界と弱さをもつわたしたちに、このように崇高な目的を目指すことができるでしょうか。教会は典礼暦の中で、多くの聖人を記念するよう招きます。聖人は完全に愛を生きた人々です。日常生活の中でキリストを愛し、キリストに従うことのできた人々です。教会史のあらゆる時代において、世界のあらゆる場所において、聖人はどの時代にも、どのような生活を送る人の中にも存在しました。聖人はあらゆる国民、言語、民族の具体的な姿を示します。聖人の種類はさまざまです。実際のところ、すべての聖人がとはいえないまでも、多くの聖人は、歴史の空に輝くまことの星だといわなければなりません。これはわたし個人の信仰にとってもいえることです。付け加えていいたいと思います。わたしにとって「道しるべ」となるのは、自分が好きな、よく知っている偉大な聖人だけではありません。素朴な聖人たち、すなわち、決して列聖されることはないけれども、わたしが生涯の中で出会ったいつくしみ深い人々もそうなのです。彼らは、いわば目に見えるような英雄的いさおしのない、普通の人です。しかし、わたしは彼らの日々のいつくしみのわざの中に信仰の真理を見いだします。わたしにとって、彼らが教会の信仰の中で深めたこのいつくしみこそが、キリスト教のもっとも確実な弁明であり、真理がそこに宿るしるしなのです。
 教会は、キリストによって、教会に属するすべての人々のうちに、列聖された人もされていない人も含めた聖徒の交わりを生きています。わたしたちはこの聖徒の交わりの中で、聖人たちがわたしたちとともにいて、ともに歩んでくれることを体験します。そして、聖人の歩みに倣い、いつの日か、彼らと同じ幸いな生、すなわち永遠のいのちにあずかることができるという固い希望を深めます。
 親愛なる友人の皆様。このような光に照らされて見るなら、キリスト者の召命とはなんと偉大ですばらしく、また単純なものでしょうか。わたしたちは皆、聖性へと招かれています。聖性こそが、キリスト教的生活の基準です。このことを再び聖パウロは強調していいます。「しかし、わたしたち一人ひとりに、キリストのたまもののはかりに従って、恵みが与えられています。・・・・そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕のわざに適した者とされ、キリストのからだを造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4・7、11-13)。皆様にお願いしたいと思います。聖霊のわざに心を開いてください。聖霊はわたしたちを造り変えてくださいます。それは、わたしたちも聖性の偉大なモザイク画の一部となるためです。神はこの聖性のモザイク画を歴史の中で造り上げます。キリストのみ顔がその完全な光をもって輝くためです。高い目的を、すなわち神のいますいと高きところを目指すことを恐れてはなりません。神がわたしたちに多くのことを求めるのを恐れてはなりません。むしろ、日々のあらゆる行動において、みことばに導いていただこうではありませんか。自分が貧しく、ふさわしくない罪人であることを自覚しながらも。神が、ご自分の愛に従って、わたしたちを造り変えてくださいます。ご清聴ありがとうございます。

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