教皇ベネディクト十六世の267回目の一般謁見演説 聖なる過越の三日間の意味

4月20日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の267回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「四旬節の歩みの頂点である、聖なる過越の三日間の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  わたしたちはすでに四旬節の歩みを終え、聖週間の半ばに到達しています。明日から、わたしたちは聖なる過越の三日間に入ります。この聖なる三日間の中で、教会はイエスの受難、死、復活の神秘を記念します。神の子は、御父に忠実に従って人となり、罪のほかはすべてにおいてわたしたちと同じような者となった後(ヘブライ4・15参照)、御父のみ心を徹底的に果たすことを受け入れました。すなわち、わたしたちへの愛のゆえに受難と十字架に立ち向かいました。わたしたちをご自分の復活にあずからせるためです。こうしてわたしたちは、イエスのうちに、イエスのゆえに、慰めと平和のうちに永遠に生きることができるのです。それゆえわたしは皆様に勧めます。この救いの神秘を受け入れてください。聖なる過越の三日間に深くあずかってください。この三日間は、典礼暦年全体の頂点であり、すべてのキリスト信者にとって特別な恵みのときだからです。皆様にお願いします。この三日間、精神の集中と祈りに努めてください。この恵みの泉からもっと深く水をくんでください。そのため、復活祭を間近にして、すべてのキリスト信者は、キリストの死と復活と特別に一致する機会である、ゆるしの秘跡にあずかるよう招かれます。それは、聖なる過越にあずかって豊かな実りを得るためです。
  聖木曜日に、わたしたちは聖体と役務としての司祭職の制定を記念します。午前中、各教区共同体は司教座聖堂で司教を囲んで集まり、聖香油のミサをささげます。聖香油のミサの中では、聖香油、洗礼志願者のための油、そして病者の油が祝福されます。聖なる過越の三日間から始まって、典礼暦年全体を通じて、これらの油は、洗礼、堅信、司祭と司教の叙階、病者の塗油のために用いられます。このことから、秘跡のしるしを通して与えられる救いが、まさにキリストの過越の神秘からわき出ることが示されます。実際、わたしたちはキリストの死と復活によってあがなわれます。そしてわたしたちは、秘跡を通して同じ救いの泉に達します。明日の聖香油のミサの中では、司祭の約束の更新も行われます。世界中で、すべての司祭が叙階の日に行った約束を更新します。それは、兄弟に奉仕する聖なる奉仕職を果たすことを通じて、自らを完全にキリストにささげるためです。祈りをもって自分たちの司祭に同伴したいと思います。
  聖木曜日の晩、最後の晩餐の記念をもって、聖なる過越の三日間が実際に始まります。最後の晩餐の中で、イエスは、ユダヤ人の過越祭を終わらせ、ご自身の過越の記念を制定しました。すべてのユダヤ人の家族は、伝統に従って、過越祭に食卓に集まり、焼いた小羊を食べました。イスラエルの人々がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念するためです。それゆえ、まことの過越の小羊であるイエスは、ご自分の死が迫っていることを知り、二階の広間で、わたしたちの救いのためにご自身をささげられます(一コリント5・7参照)。イエスは、パンとぶどう酒を祝福することばを唱えながら、十字架のいけにえを先取り、ご自分が弟子たちの間に永遠に現存するという意向を示します。イエスは、パンとぶどう酒の形態のもとに、ご自身が与えるからだと流す血をもって、現実に現存します。使徒たちは最後の晩餐の中で、この救いの秘跡の奉仕者として立てられました。イエスは使徒たちの足を洗うことによって(ヨハネ13・1-25参照)、彼らを招きます。わたしがあなたがたにいのちを与えることによってあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。わたしたちも、典礼の中で同じわざを繰り返すことによって、自分たちのあがない主の愛を力強くあかしするよう招かれます。
  最後に聖木曜日の終わりに、わたしたちは聖体礼拝を行って、ゲツセマネの園での主の苦悶を思い起こします。主は二階の広間を出て、御父のみ前で、一人で祈られました。この深い交わりのときに、福音は語ります。イエスは大きな苦悶を味わい、汗が血の滴るように落ちるほど苦しまれました(マタイ26・38参照)。十字架の死が迫っていることを知っておられたイエスは、大きな苦悶と、死が近づいていることを感じました。このような状況の中で、全教会にとってきわめて重要なことも示されます。イエスは弟子たちにいいます。ここを離れず、目を覚ましていなさい。目を覚ましているようにという呼びかけは、裏切る者がやって来る、苦悶と不吉なときを述べていますが、それは、教会の歴史全体のことも述べています。これはすべての時代のための永遠のメッセージです。なぜなら、弟子たちの眠気は、そのときの問題だけでなく、歴史全体の問題だからです。次のことが問われます。この眠気とは何でしょうか。主がわたしたちを招いている、目覚めていることとは、いかなることでしょうか。わたしは、こういいたいと思います。歴史を通じて見られる弟子たちの眠気とは、悪の力に対するある種の霊魂の無感覚のことです。世のあらゆる悪に対する無感覚のことです。わたしたちはこうしたことにあまり煩わされることを望みません。むしろわたしたちはこうしたことを忘れたいと望みます。わたしたちは、それをそれほど深刻ではないと考えて、忘れるのです。わたしたちは目を覚まして、善を行い、善の力のために戦わなければならないのに、悪に対して無感覚です。しかし、それだけではありません。わたしたちは神に無感覚なのです。そしてこれが、わたしたちの真の眠気です。神の現存に対する無感覚こそが、わたしたちを悪に対して無感覚にするのです。わたしたちは神に耳を傾けません(それが煩わしいからです)。そこからわたしたちは自然に、悪の力にも気がつかなくなります。こうしてわたしたちは安楽な生き方を続けます。聖木曜日の夜に礼拝し、主とともに目を覚ましているとき、わたしたちは反省しなければなりません。弟子たちが、イエスを守るべき者が、使徒が、そしてわたしたちが眠っていたことを。わたしたちは悪のあらゆる力を見ず、見ようともしません。イエスの受難のうちに入ることを望みません。イエスは、よいことのために、世に神が現存するために、隣人と神への愛のために受難に入られたのです。
  次いで主は祈り始めます。ペトロとヤコブとヨハネの三人の使徒は眠っていましたが、何度か目を覚まして、主が祈るときに用いることばを聞きました。「わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」。主が述べられた、このわたしの願うこととは何でしょうか。み心に適うこととは何でしょうか。わたしの願うこととは、「わたしが死ぬことのないように」ということです。苦しみの杯を取りのけてほしいということです。これが人間の望みです。人間本性の望みです。そしてキリストは、完全な自己意識をもって、いのちと、死の深淵と、無の恐怖と、苦しみの脅威を感じられたのです。わたしたちは自然に死を厭います。自然に死を恐れます。しかし、キリストはわたしたちよりもはるかに深く悪の深淵を感じ取りました。キリストは死とともに、人類のあらゆる苦しみを感じました。彼は感じました。これこそが、自分が飲まなければならない杯です。自ら飲まなければならない杯です。わたしは世の悪を、すべての恐るべきものを、神に敵対するものを、すべての罪を受け入れなければなりません。そこからわたしたちは、イエスがこの現実を前にして、ご自分の人間としての霊魂をもってどれほど恐れおののいたかを理解できます。イエスはこの残酷な現実を余すところなく感じ取られたからです。わたしの望みは、できることなら、杯を飲まないことです。しかし、わたしの望みはみ心に従います。神のみ心に、御父のみ心に従います。これも御子のまことの望みです。こうしてイエスは、祈りのうちに、自然な抵抗を、杯に対する抵抗を、わたしたちのために死ぬ使命に対する抵抗を変容させました。ご自分の自然な望みを、神のみ心へと、神のみ心への「然り」へと造り変えたのです。人間は自分自身の傾向としては、神のみ心に逆らいます。自分の望みに従うことを望み、自律することによって初めて自分は自由だと考えます。人間は、自分の自律と、神のみ心に従う他律を対立させます。これが人類のドラマのすべてです。しかし、実際には、このような自律は間違っています。神のみ心に従うことは、自己と対立するものではありません。それはわたしの望みを侵害する隷属ではありません。むしろそれは、真理と愛と善に歩み入ることです。イエスは、神のみ心に逆らい、自律を求めるわたしたちの望みを引き寄せます。イエスはわたしたちの望みを高いところへと、神のみ心へと引き寄せます。これがわたしたちのあがないのドラマです。イエスはわたしたちの望みを高いところへと引き寄せます。神のみ心への抵抗を、死と罪に対する抵抗を引き寄せます。そして、それらを御父のみ心と一つに結びつけます。「わたしの願いどおりではなく、み心のままに」。イエスは、「否」を「然り」に変え、被造的な望みを御父のみ心に接ぎ木することによって、人類を変容させ、わたしたちをあがなうのです。そしてイエスはわたしたちを招きます。このような自分の動きに入りなさい。自分たちの「否」から出て、御子の「然り」に入りなさい。わたしの望みは存在します。しかし、決定的なのは御父のみ心です。御父のみ心こそが、真理と愛だからです。
  イエスの祈りのもう一つの要素も大切だとわたしは思います。三人の証言は(聖書の中に示されるとおり)、主が御父に語りかけるときに用いたヘブライ語ないしアラム語のことばをとどめています。イエスは御父に「アッバ(父よ)」と呼びかけました。これは、父親に親しく呼びかけるときのことば遣いです。それは家庭の中でのみ用いられ、決して神に対しては使われないことばです。ここでわたしたちは、イエスの内面のうちに、彼が家庭の中で語った語り方、本当に子として御父と語った語り方を見いだします。わたしたちは三位一体の神秘を見いだします。御父と語り、人類をあがなった御子を見いだすのです。
  もう一つのことを考えてみたいと思います。ヘブライ人への手紙は、この主の祈り、すなわちゲツセマネでのドラマに関する深い解釈を行います。ヘブライ人への手紙はいいます。イエスの涙、叫び声、苦悶は皆、決して単なる肉の弱さ(そのような言い方が許されるなら)を認めたものではありません。イエスはまさにこのようなしかたで大祭司の務めを果たしたのです。大祭司は、人間を、人間が抱えるさまざまな問題と苦しみとともに、神のいます高いところへと導かなければならないからです。そこでヘブライ人への手紙はいいます。主は、この叫び声と涙と苦しみと祈りを尽くして、わたしたちの現実を神へと導かれました(ヘブライ5・7以下参照)。著者は「プロスフェレイン」というギリシア語のことばを用います。これは、大祭司がささげものをするにはどれほど手を高く上げなければならないかを示す、専門用語です。
  まさに神の力がもはや存在しなくなったかのように思われるゲツセマネのドラマの中で、イエスは大祭司の職務を果たしたのです。さらにヘブライ人への手紙はいいます。この従順のわざによって、すなわち、人間の自然な望みを神のみ心と一致させることによって、イエスは祭司として完全な者となりました。ここでもヘブライ人への手紙は祭司を叙階するときの専門用語を用います。こうしてイエスは本当に人類の大祭司となり、そこから、天と復活への門を開くのです。
  このゲツセマネのドラマを考えてみるなら、イエスと偉大な哲学者ソクラテスの大きな違いをも見いだすことができます。イエスは苦悶し、苦しみました。ソクラテスは平静を保ち、死を前にしても動揺しませんでした。ソクラテスのほうが理想的であるように思われます。わたしたちはこの哲学者を尊敬することができます。けれども、イエスの使命は別のものでした。イエスの使命は、このような完璧な不偏心と自由ではありませんでした。イエスの使命は、自らのうちに、わたしたちのすべての苦しみと、人間のすべての悲惨を担うことでした。だから、ゲツセマネのはずかしめは、神であり人であるイエスの使命にとって不可欠なものなのです。イエスは自らのうちにわたしたちの苦しみと貧しさを担います。そして、それらを神のみ心に従って造り変えます。こうしてイエスは天の門を開きます。天を開きます。それまで人間が神に対して閉ざしていた、至聖所の天幕が、このイエスの苦しみと従順によって開かれるのです。以上、聖木曜日と、聖木曜日の夜の典礼について、いくつかのことを申し上げました。
  聖金曜日には、主の受難と死を記念します。わたしたちは十字架につけられたキリストを礼拝し、悔い改めと断食をもってキリストの苦しみにあずかります。「自分たちの突き刺した者」(ヨハネ19・37参照)を仰ぎ見ながら、わたしたちは、血と水とがそこから泉のように流れ出た、刺し貫かれたみ心から水を飲むことができます。すべての人に対する神の愛がわき出た、このみ心から、わたしたちはキリストの霊を与えられるのです。それゆえわたしたちも、聖金曜日に、カルワリオ(されこうべ)に上るイエスとともに歩もうではありませんか。イエスによって十字架へと導いていただこうではありませんか。イエスがいけにえとしてささげたからだを受けようではありませんか。最後に、聖土曜日の夜、わたしたちは復活徹夜祭を祝います。この復活徹夜祭の中で、キリストの復活がわたしたちに告げられます。キリストが死に対して決定的に打ち勝ったことが告げられます。この勝利は、わたしたちがキリストに結ばれて新しい人になるよう呼びかけます。典礼暦年全体の中心である、この聖なる徹夜祭にあずかりながら、わたしたちは自分の洗礼も記念します。わたしたちも、洗礼のときに、キリストとともに葬られました。それは、キリストとともに復活して、天の婚宴にあずかれるようになるためです(黙示録19・7-9参照)。
  親愛なる友人の皆様。わたしたちは、イエスが究極の試練のときに味わった心の状態を理解しようと努めてみました。それは、何がイエスの行動を方向づけていたかを知るためです。全生涯を通してイエスのすべての決断を導いた基準は、御父を愛し、御父と一つになり、御父に忠実に従おうとする堅固な望みです。御父の愛にこたえようとするこの決断に促されて、イエスはどんなときにも御父の計画を受け入れました。すべてのものを御父のうちに再び一つに集め、すべてのものを御父へと連れ戻すという、ゆだねられた愛の計画を自らのものとしました。聖なる過越の三日間を追体験しながら、自分の生活においても神のみ心を受け入れるために、心の準備をしようではありませんか。たとえ自分の意図に反し、辛く思われようとも、神のみ心のうちにこそ、まことの善といのちへの道があることを知ろうではありませんか。おとめマリアがわたしたちの歩みを導いてくださいますように。神である御子へのマリアの執り成しによって、わたしたちが、兄弟への奉仕のうちに、イエスへの愛のために自分の生涯を用いることのできる恵みが与えられますように。ご清聴ありがとうございます。

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