教皇ベネディクト十六世の268回目の一般謁見演説 キリストの復活の意味

4月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の268回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「キリストの復活の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  聖霊降臨祭まで続く復活節の最初の時期にあたり、わたしたちも、典礼祭儀がわたしたちの心にもたらしてくれた新鮮さと新たな喜びに満たされています。それゆえ、今日わたしは、キリスト教の神秘の中心である復活について簡単にお話ししたいと思います。実際、死者の中から復活したキリストは、わたしたちの信仰の基盤です。すべてはここから出発します。輝く光の中心から光が輝き出るように、教会の典礼全体は復活から流れ出て、そこから内容と意味を引き出します。キリストの死と復活を祝う典礼は、これらの出来事の単なる記念ではありません。むしろ典礼は、すべてのキリスト信者と教会共同体の生活のために、すなわちわたしたちの生活のために、これらの出来事を神秘的に現前させます。実際、復活したキリストへの信仰は、人生を造り変えます。この信仰はわたしたちのうちで働いて、復活を継続させます。聖パウロが最初の信者たちに述べたとおりです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――」(エフェソ5・8-9)。
  では、わたしたちはどうすれば復活を「生活」にすることができるでしょうか。どうすればわたしたちの内的生活と外的生活が復活の「形」をとることができるでしょうか。わたしたちはイエスの復活を正しく理解することから出発しなければなりません。イエスの復活という出来事は、ラザロや、ヤイロの娘や、ナインの息子の場合と同じように、単にそれまでのいのちに戻ることではありません。むしろそれは完全に新しく、異なる出来事です。キリストの復活は、過ぎゆく時間に決して屈服することのないいのち、すなわち、神の永遠性に満たされたいのちに到達することです。イエスの復活によって、人間の新たな状態が始まります。この新しい状態が、わたしたちの日々の歩みを照らし、人類全体に質的に異なる新たな未来を開きます。だから聖パウロは、キリスト信者の復活とイエスの復活を切り離しがたいしかたで結びつけるだけでなく(一コリント15・16、20参照)、わたしたちが日々の生活の中で復活の神秘を生きなければならないことを示します。
  聖パウロはコロサイの信徒への手紙の中でいいます。「さて、あなたがたは、キリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイ3・1-2)。この箇所を読むと、最初、使徒は地上の現実をないがしろにしなさいといっているように思われます。すなわち、この苦しみと不正と罪に満ちた世を忘れ、天の楽園を先取りして生きなさいといっているように思われます。そうであれば、「天」という思想はいわばわたしたちと無縁のものとなります。しかし、パウロの主張の真の意味を理解するには、テキストを文脈から切り離してはなりません。使徒は、キリスト信者が求めるべき「上にあるもの」と、注意すべき「地上のもの」ということばで何をいいたいかを明確にします。聖パウロはいいます。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(同3・5-6)。わたしたちは、あらゆる罪の根源である、飽くことを知らない物質的な善への欲望と利己主義を捨て去らなければなりません。それゆえ、使徒が「地上のもの」を選ぶことから自由になるようにと招くとき、彼がはっきりといおうとしているのは、キリスト信者は、キリストを身にまとうために、「古い人」に属するものを脱ぎ捨てなさいということなのです。
  聖パウロは、わたしたちが心を留めるべきでないものについて明らかにすると同時に、キリスト信者が求め、味わうべき「上にあるもの」とは何であるかもわたしたちに示してくれます。「上にあるもの」は「新しい人」に属するものとかかわります。すなわち、すべての人が洗礼によって、生涯、キリストを身にまとうことです。しかしわたしたちは、「造り主の姿に倣う」(コロサイ3・10)ために、つねに新たにされなければなりません。異邦人の使徒はこの「上にあるもの」について次のように述べます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、ゆるし合いなさい。・・・・これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3・12-14)。それゆえ、聖パウロは、キリスト信者に、わたしたち皆に、世から逃れるよう命じているのではありません。神はこの世の中にわたしたちを置かれたからです。確かにわたしたちはもう一つの「国」の住人です。わたしたちの祖国はこのもう一つの「国」にあります。しかし、わたしたちはこの目的を目指す道を、日々、地上で歩まなければなりません。わたしたちは、すでに地上において、復活したキリストのいのちにあずかりながら、この世で、地上の国のただ中で、新しい人として生きなければならないのです。
  これは、わたしたち自身を造り変える方法であるだけでなく、世を造り変える方法でもあります。それは地上の国に新しい姿を与えることです。人間と社会の発展を、連帯といつくしみに基づく考え方に従って、一人ひとりの人間に備わる尊厳を深く尊重しながら推進することです。使徒は、キリスト教的生活に伴うべき美徳とは何かをわたしたちに思い起こさせてくれます。美徳の頂点にあるのは愛です。他の美徳は皆、この愛という源泉また原型と関連づけられます。愛は「上にあるもの」をまとめ、要約します。愛は、信仰と希望とともに、キリスト信者の生活の偉大な規則を示し、その深い本性を規定します。
  それゆえ、復活は、罪の奴隷となっていた生活から、自由な生活への深く完全に新たな変化をもたらします。この自由な生活を促すのは、愛です。愛の力は、あらゆる壁を打ち滅ぼし、自分の心と、他の人やものに対する関係のうちに新たな調和を造り出します。すべてのキリスト信者と共同体は、この復活による変化を体験したなら、世の新たなパン種とならずにはいられません。緊急の正義の問題のために惜しみなく献身せずにはいられません。あらゆる時代と場所における聖人のあかしが示すとおりです。現代にあっても、わたしたちには大きな期待がかけられています。キリストの復活は、歴史が築かれる場である世から奪い去ることなしに、人類を刷新しました。このことを固く信じるわたしたちキリスト信者は、復活がもたらしたこの新しいいのちの輝かしいあかしとならなければなりません。それゆえ、復活はつねに深い信仰をもって受け入れるべきたまものです。それは、あらゆる状況の中で、キリストの恵みにより、神の考え方に従って、すなわち愛の考え方に従って働くためです。わたしたちはキリストの復活の光で現代世界を満たさなければなりません。わたしたちはキリストの復活の光を、日々のあかしを通して、真理といのちの知らせとして、すべての人に伝えなければなりません。
  親愛なる友人の皆様。そうです。キリストは本当に復活されました。わたしたちは、キリストがご自身の復活によって与えてくださったいのちと喜びを、自分だけにとどめておくことができません。むしろ、近くにいる人々にそれを与えなければなりません。隣人の心の中で、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、死のあるところにいのちをよみがえらせること。これが、わたしたちの務めであり、使命です。日々、復活した主の喜びをあかしするとは、いつも「復活した姿で」生きることです。喜びの知らせを響き渡らせることです。キリストは思想でも、過去の記憶でもありません。むしろキリストは、わたしたちとともに、わたしたちのために、わたしたちのうちに生きておられるかたです。そしてわたしたちは、キリストとともに、キリストによって、キリストのうちに万物を新しくすることができるのです(黙示録21・5参照)。

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