教皇ベネディクト十六世の269回目の一般謁見演説 祈りについて――序論

5月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の269回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「祈り」についての新しい連続講話を開始しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日から新しい連続講話を始めたいと思います。教父、中世の偉大な神学者、偉大な女性たちについての講話を行った後、これからわたしは、すべての人が深く心にかけているテーマを選ぶことにしました。それは祈り、とくにキリスト教の祈りというテーマです。キリスト教の祈りは、イエスが教えてくださった祈りであり、教会がわたしたちに教え続けている祈りでもあります。実際、人はイエスのうちに、父と子の深く親しい関係をもって神に近づくことができるようになりました。わたしたちは最初の弟子たちとともに、へりくだりと信頼をもって、師であるかたに向かって願います。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)。
 わたしたちは次回の講話から、聖書と、教父の偉大な伝統と、霊性の師と典礼に近づきながら、主との関係をより深く生きることを学びたいと思います。これはいわば「祈りの学びや」となります。実際わたしたちは、祈りが当然のもののように与えられるのではないことをよく知っています。わたしたちは、新しい技術をつねに新たに習得するようにして、祈ることを学ばなければなりません。霊的生活において大いに進歩した人々も、イエスの学びやに入り、真の祈り方を学ばなければならないとつねに感じます。わたしたちは第一の教訓を主の模範を通して与えられます。福音は、イエスが御父とつねに親しく対話していたと述べます。それは世に来られたかたの深い交わりでした。イエスが世に来られたのは、自分の意志を行うためではなく、人間の救いのために自分を遣わした御父のみ心を果たすためだったからです。
 今日の第一回の講話の中で、序論として、古代文化に見られるいくつかの祈りの例を示したいと思います。それは、現実に、つねにどこにおいても人々が神に語りかけたことを示すためです。
 古代エジプトの例から始めます。一人の目の見えない人が、視力の回復を神に願います。ここにはどこの人間も行うことがらが示されます。それは苦しみのうちにある人がささげる、純粋で単純な祈願の祈りです。この人はこう祈ります。「わたしの心は御身を見たいと望みます。・・・・御身、わたしを造られたかたよ、暗闇を見て、わたしのために光を造り出してください。御身を見ることができますように。愛する御身のみ顔をわたしの上に傾けてください」(A. Barucq-F. Daumas, Hymnes et prières de l’Egypte ancienne, Paris 1980, trad. it. in Preghiere dell’umanità, Brescia 1993, p. 30)。御身を見ることができますように。これこそが祈りの核心です。
 メソポタミアの宗教においては、人を麻痺させる不思議な罪意識が支配していました。しかし、この罪意識は、神が救い、解放してくださることへの希望を奪うものではありませんでした。そこから、メソポタミアの古代宗教の信者がささげる祈願を理解することができます。彼はこう述べます。「ああ、もっとも重大な咎(とが)をもゆるしてくださる神よ。わたしの罪をゆるしてください。・・・・主よ、弱り果てたあなたのしもべに目をとめ、この者にあなたの息を吹きかけてください。速やかにこの者をゆるしてください。あなたの厳しい裁きを軽くしてください。いましめを解き、わたしが再び息ができるようにしてください。わたしの鎖を砕き、わたしを罠から解き放ってください」(M.-J. Seux, Hymnes et prières aux Dieux de Babylone et d’Assyrie, Paris 1976, trad. it. in Preghiere dell’umanità, op. cit., p. 37)。これらのことばは、神を探し求める人間が、あいまいな形ではあっても、自分の罪と同時に、神のあわれみといつくしみを見抜いていたことを示しています。
 古代ギリシアの異教的宗教のうちには、きわめて重要な進展が見いだされます。そこでの祈りは、相変わらず、日常生活のあらゆる状況の中で天から恵みが与えられるよう、それも物質的な恩恵が得られるように、神の助けを祈り求めます。しかし、この祈りは次第にもっと私心のない願いに向かうようになります。つまり、信じる人が神との関係を深め、よりよい者となることを可能にするような願いです。たとえば、偉大な哲学者プラトンは、師であるソクラテスの祈りを伝えています。ソクラテスは西洋思想の創始者とみなすべき人物です。ソクラテスの祈りはこれです。「このわたしを、内なるこころにおいて美しい者にしてくださいますように。わたしが、知恵ある人をこそ富める者と考える人間になりますように。また、わたしのもつお金の高は、ただ思慮ある者のみが、にない運びうるほどのものでありますように――まだ何かほかに、ぼくたちがお願いすることがあるかね」(『パイドロス』:Phaedrus 279c, Opere I. Fedro, trad. it. P. Pucci, Bari 1966〔藤沢令夫訳、岩波書店、1967/2010年、146頁〕)。ソクラテスは、お金によって富むことではなく、内面において美しく知恵ある者となることを望んだのです。
 ギリシア悲劇は、あらゆる時代の文学のうちで最高傑作です。2500年を経た今も、人々はこれを読み、考察し、上演しています。このギリシア悲劇には祈りも含まれています。この祈りは、神を知り、その御稜威(みいつ)をあがめたいという願いを表します。そうした祈りの一つはこう述べます。
 「おお、大地を支え、大地の上に座を占めるおかた、
 いかにおわしますか、推し量りがたいおかた、
 ゼウスさまとは自然の理(ことわり)、それとも人間の知恵のまたの名でしょうか、
 そのいずれにもせよ、あなたに祈りをささげます、音もなく道をたどって、
 人の世のことすべてを、正義に従ってお導きのゆえに」(エウリピデス『トロアーデス――トロイアの女たち――』:Troades 884-886, trad. it. G. Mancini, in Preghiere dell’umanità, op. cit., p. 54〔水谷智洋訳、『ギリシア悲劇全集7』岩波書店、1991年、175頁〕)。神はいわばぼんやりとした存在のままです。しかし、にもかかわらず、人間はこの知られざる神を知っており、この地上の道を導いてくださるかたに祈るのです。
 ローマ人は大帝国を築きました。初期キリスト教はその大部分がこのローマ帝国の中で生まれ、広まりました。ローマ人の祈りも、基本的に国家の共同生活を神が守護してくれるようにという願いと関連する、現世利益的な考え方と結びついていました。とはいえ、時としてこの祈りが、個人の熱心な信仰心のゆえに、驚くべき祈願となることもあります。そして、この信仰心は、賛美と感謝に変わります。キリスト紀元後2世紀のローマ帝国領アフリカの著作家(マダウラの)アプレイウス(Apuleius 125頃-170年以降)はこのことの証人です。アプレイウスは著作の中で、同時代の人々が伝統宗教に不満を抱き、より真実な神との関係をもつことを願っていることを示します。『黄金の驢馬』(Metamorphoses)という標題の彼の傑作の中で、ある信者は女神に次のことばをささげます。「御身は、げにも聖なる御身は、つねに変わらぬ人類の救い主、御身は死すべきものに惜しみなき慈悲を垂れ給い、哀れなる身の上に母のごときやさしい愛を恵み給う。御身の御守りなくて、一日といえども、一夜といえども、いや瞬く間といえども、すぎて行くこと能わず」(『黄金の驢馬』:Metamorphoses XI, 25, trad. it. C. Annaratone, in Preghiere dell’umanità, op. cit., p. 79〔『黄金のろば』下巻、呉茂一・国原吉之助訳、岩波書店、1957/1989年、165頁〕)。
 同じ時期に、皇帝マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius 121-180年、ローマ皇帝在位161-没年)――彼は人間の条件について思索をめぐらした哲学者でもありました――は、神のわざと人間のわざの間に実りある協力関係を打ち立てるために、祈ることが必要だと主張しました。『自省録』(Ta eis heauton)は述べます。「『われわれ次第のものに関してまでもは、神々はわれわれを加護してはくださらない』とだれが君にいったか。とにかく、これらのものについても祈ることを始めたまえ。そうすれば君は(その効果を)見るだろう」( Dictionnaire de Spiritualité, XII/2, col. 2213 ; Ta eis heauton IX, 40〔水地宗明訳、『西洋古典叢書第Ⅰ期第9回配本』、京都大学学術出版会、1998年、208頁〕)。哲学者皇帝のこの勧告は、キリスト以前の多くの世代の人々によって具体的に実践されました。そして、祈りがなければ人間の生は意味も基準も失うことを示しました。祈りはわたしたちの人生を神の神秘へと開くものだからです。実際、あらゆる祈りはつねに被造物としての人間の真実を表します。一方で、人間は無力と乏しさを体験します。それゆえに天の助けを願い求めます。他方で、人間は特別な尊厳を与えられています。なぜなら、神の啓示を受け入れることのできる人間は、自分が神との交わりに入ることができることを見いだすからです。
 親愛なる友人の皆様。これらのさまざまな時期と文明の祈りの例から浮かび上がることはこれです。人間は、自分が被造物であり、自分より優れた、あらゆる善の起源である他者に依存する存在であることを自覚してきました。あらゆる時代の人は祈りました。なぜなら、人は自分の存在の意味は何かを問わずにはいられないからです。そして、神の神秘と世に関する神の計画とかかわりをもたないかぎり、人生は暗く、失望をもたらすだけだからです。人間の生涯は、善と悪、不当な苦しみと喜びと美がより合わさったものです。そこからわたしたちは自然に、あらがいがたいしかたで、内なる光と力を神に願い求めるよう促されます。この内なる光と力が、地上にあるわたしたちを助け、死の境界を超えたところにまで達する希望を示してくれるからです。異教的宗教は、地上から天のことばを待ち望んで祈り求めるにとどまりました。キリスト教の最盛期を生きた、最後の偉大な異教的哲学者の一人、コンスタンティノポリスのプロクロス(Proklos 410/412-485年)は、この待望を次のように言い表しました。「知られざるかたよ、だれもあなたを把握し尽くすことはできません。わたしたちが思惟するすべてのことはあなたに属します。わたしたちの善も悪もあなたに由来します。わたしたちのすべての息もあなたに依存しています。ああ言い表しがたいかたよ。わたしたちの魂があなたのいますことを感じ、静かな賛歌をあなたにささげることができますように」(Hymni, ed. E. Vogt, Wiesbaden 1957, in Preghiere dell’umanità, op. cit., p. 61)。
 以上考察したさまざまな文化の祈りの例から、わたしたちは、すべての人の心に宗教的次元と神への望みがしるされていることの一つの証拠を見いだすことができます。この神への望みは、旧約と新約において実現し、完全なしかたで示されました。実際、啓示は、人が本来もっている神への望みを清め、完全なものとします。啓示は、祈りのうちに、人が天の父とより深くかかわることを可能にするからです。
 「祈りの学びや」を歩み始めるにあたり、今、主に祈り願いたいと思います。わたしたちの思いと心を照らしてください。わたしたちが祈りのうちに主との関係をもっと深く、熱く、持続的なものとすることができますように。あらためて主にいおうではありませんか。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)。

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