教皇ベネディクト十六世の270回目の一般謁見演説 人間の宗教的感覚

5月11日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の270回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第2回として、「人間の宗教的感覚」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は、祈りと宗教的感覚が歴史全体を通じて人間の一部をなしてきたことについての考察を続けたいと思います。
 わたしたちは世俗主義の特徴がはっきりと見られる時代に生きています。神はさまざまな人の視野から消え失せたか、どうでもよいことがらとなったかのように思われます。しかし、同時にわたしたちは多くのしるしを見いだします。これらのしるしは、宗教的感覚の覚醒、人間生活にとっての神の重要性の再発見、霊性――すなわち、人間生活についての単なる水平的・物質的見方を乗り越えることの緊急の必要性を示しています。最近の歴史を顧みると、人々の予想ははずれました。これらの人々は、啓蒙の時代に、宗教の消滅を予告し、信仰と切り離された絶対的な理性を礼賛しました。この理性は、宗教的教義の暗闇を打ち払い、「聖なるものの世界」を解体し、人間の自由と尊厳と神からの自律を回復するはずでした。20世紀の経験と2つの悲惨な世界大戦は、自律した理性と、神なしで存在する人間によって保証できるかのように思われた、このような進歩を危機にさらしました。
 『カトリック教会のカテキズム』は述べます。「創造によって、神は無から万物に存在を与えられました。・・・・人間は・・・・罪を犯して神に似た者ではなくなった後でさえ、創造主の似姿はとどめています。自分に存在を与えてくれた神へのあこがれを失ってはいません。すべての宗教は、人間にはこの本質的な探究心があることを教えています」(同2566)。先の講話でお示ししたように、大昔の時代から現代に至るまで、宗教をもたない偉大な文明は一つもないということができます。
 人間は本性的に宗教的な存在です。人間は「知恵ある人間(homo sapiens)」、「制作する人間(homo faber)」であると同時に「宗教的な人間(homo religiosus)」です。『カテキズム』が述べるとおり、「神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです」(『カトリック教会のカテキズム』27)。創造主の像は人間の存在の中に刻印されています。そして人間は、現実の深い意味にかかわる問いに答えるために光を見いだす必要があると感じます。人間はこの答えを自力で、進歩によって、経験科学の力で見いだすことができません。「宗教的人間(homo religiosus)」は古代世界だけでなく、人類の歴史全体を通じて現れるのです。そのため、人間的経験の豊かな地平においては、さまざまな形の宗教性が見いだされます。これらの宗教性は、完成と幸福へのあこがれ、救いの必要性、意味の探求にこたえようとしてきました。「デジタル」世界の人間も、洞窟で暮らしていた人間と同じように、自らの有限性を乗り越え、地上におけるつかの間の幸いを確かなものとするための道を宗教経験のうちに捜し求めます。さらに、超越的な展望をもたない生活は、完全な意味をもちえません。そこから、すべての人が望む幸福は、自然に未来へと、すなわち、これから到達しなければならない明日へと投げ出されます。第二バチカン公会議は『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』の中で、このことを総括して強調します。「人々は種々の宗教から、昔も今も同じく人の心を深くゆさぶる人間存在の秘められた謎に対する解答を期待している。その謎は、人間とは何か、人生の意義と目的は何か、善とは何か、罪とは何か、苦しみはなぜ起こり、何のためにあるか、真の幸福を得るための道は何か、死とは何か、死後の審判と報いとは何か、そして最後に、われわれの存在を包み、われわれがそこから起こり、また、そこに向かって行くあの究極の名状しがたい神秘は何であるか、ということである」(同1)。人間は、自分だけでは、知りたいという根本的な欲求にこたえられないことを知っています。人間は、幻想を抱き、なおも自己充足が可能だと誤って考えながらも、やはり自分だけでは満たされないことを経験してきました。人間は、自分に欠けたものを与えることができる他者に――何かまたはだれかに、自分を開くことを必要としています。人間は、自分から出て、自分の望みを深く完全に満たすことのできるかたに向かわなければなりません。
 人間は自らのうちに無限への渇きをもっています。永遠へのあこがれ、美の探求、愛されたい望み、光と真理への欲求をもっています。この欲求に促されて、人間は絶対者に向かいます。人間は自らのうちに神へのあこがれをもっているのです。人間はある程度、自分が神に呼びかけることができることを知っています。神に祈ることができることを知っています。歴史上最大の神学者の一人である聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224/1225-1274年)は、祈りを「人間が神に抱く望みの表現」と定義します。この神に引かれる心――それは神ご自身が人間に抱かせたものです――が、祈りの中心です。祈りは後に、歴史、時代、時、恵み、さらには祈る人それぞれの罪に応じて、さまざまな形式と姿をとりました。実際、人間の歴史にはさまざまな形の祈りが見られます。なぜなら、人間は至高者、超越者に対して自らを開くさまざまな形を発展させてきたからです。だからわたしたちは祈りをあらゆる宗教と文化に見られる経験として考えることができるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。先週の水曜に考察したとおり、実際のところ、祈りは特別な状況と結びついたものではなく、すべての人と文化の中心に刻印されています。もちろん、祈りが「祈る人間(homo orans)」としてのあるがままの人間の経験であるといっても、次のことに留意しなければなりません。すなわち、祈りは、さまざまな実践と形式である以前に、内的な態度です。礼拝行為を行い、ことばを唱える以前に、神の前でのあり方です。祈りの中心と起源は、人格のもっとも深いところにあります。それゆえ、祈りの意味を容易に読み解くことはできません。同じ理由で、祈りは誤解されたり、まがいものとなる可能性があります。「祈ることはむずかしい」という表現を、このような意味で理解することができます。実際、祈りは優れた意味で、無償で与えられる、見ることも、予想することも、言い表すこともできないかたに心を向けるための場です。それゆえ、祈りの体験は、すべての人にとって課題であり、祈り求めるべき「恵み」であり、わたしたちが呼びかけるかたが与えてくださるたまものです。
 歴史のあらゆる時代において、人間は祈りながら、神のみ前で、神から出発して、神とのかかわりの中で、自らと自らの状態を考察しました。そして、自分が助けを必要とし、自分で自分の人生と希望を満たすことのできない被造物であることを体験しました。哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein 1889-1951年)は「祈るとは、世界の意味は世界の外にあると感じることである」と述べました。人生に意味を与えるかたである神とのこの動的な関係の中で、祈りは、ひざまずくという行為のうちにそのもっとも典型的な表現を見いだします。ひざまずくという行為は、それ自体のうちに根本的な両義性をもっています。実際、わたしはひざまずくように強いられることも可能です(貧困や奴隷状態の場合のように)。しかし、自発的にひざまずくことも可能です。それによってわたしは、自分に限界があることを、それゆえ、自分が他なるかたを必要としていることを示します。わたしはこのかたに対して、自分が無力で、貧しく、「罪人」であることを言い表します。祈りの経験の中で、被造物である人間は、自らについて自覚していることを、すなわち、自分の人生について知ることができたことをすべて表明します。同時に人間は、自分がそのみ前にいる存在に全身全霊で向かいます。自分の心を神秘へと向かわせます。この神秘から、自分のもっとも深い望みが満たされ、生活の貧しさを乗り越えるための助けが得られることを待ち望むからです。祈りの本質は、このように他なるかたを仰ぎ見ること、自らを「上にあるもの」に向けることのうちにあります。祈りは感情や非本質的なことがらを超えた現実の体験だからです。
 しかし、ご自身を現してくださる神においてのみ、人間の探求は完全に満たされます。祈りは心を神に向けて開き、高く上げることです。こうして祈りは神との個人的な関係となります。たとえ人が自らの創造主を忘れても、生きておられる真の神はまず第一に、祈りによる神秘的な出会いへと人間を招き続けます。『カテキズム』が述べるとおりです。「祈りはまず忠実な神の愛の呼びかけで始まるものであり、人間が行うことはそれへの応答にすぎません。神がご自分を啓示し、人間自身の真の姿を明らかにされるにつれて、祈りがいわば相互の呼び合い、契約のドラマとなっていきます。そしてこのドラマが、ことばと行為とを介して心を支配するものとなります。そのことは救いの全歴史を通して明らかにされています」(同2567)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。神はご自身をイエス・キリストのうちに現してくださいました。この神のみ前でますます多くの時間を過ごすことを学ぼうではありませんか。沈黙のうちに、自分自身の心の奥深くで、神のみ声を聞くことを学ぼうではありませんか。神のみ声はわたしたちを招き、自分の存在の深いところへと、いのちの泉へと、救いの源へと連れ戻してくれます。それは、わたしたちを自分の生活の限界を超えて歩ませ、神のはかりしれなさへと、神との関係へとわたしたちを開いてくださるためです。神は限りない愛だからです。ご清聴ありがとうございます。

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