教皇庁開発援助促進評議会議長ロベール・サラ枢機卿の仙台教区カテドラル元寺小路教会におけるミサ説教

2011年5月15日(日)午前9時30分から、仙台教区カテドラル元寺小路教会にて、東日本大震災被災地視察のため5月13日から17日まで来日した教皇庁開発援助促進評議会議長ロベール・サラ枢機卿主司式により、復活節第4主日のミサがささげられました。以下はミサにおけるサラ枢機卿の説教の全文の邦訳です(原文英語)。当日の朗読箇所は、使徒言行録2・14a、36-41、詩編23、一ペトロ2・20b-25、ヨハネ10・1-10でした。

 親愛なる日本国民の皆様
 主の平和と喜びが皆様とともに。

 皆様の偉大な国を恐るべき地震と津波が襲ってから2か月後に、わたしは教皇ベネディクト十六世の代理としてローマからまいりました。教皇は、愛と人道支援を担当する聖座機関である教皇庁開発援助促進評議会議長であるわたしを通じて、主イエスと全教会が皆様に寄り添い、本当に愛とあわれみをもって皆様とともにいることを表したいと望まれました。多くの皆様のご家族がいまだ悲しみのうちにおられます。子ども、両親、兄弟姉妹、友人――これらのいのちを失ったすべての人々のために、わたしたちと同じく、深い悲嘆を味わっておられます。一瞬のうちに無数の人が財産を奪われました。そのうちの幾人かのかたがここにおられます。ご親族で被害に遭われたかたもおられます。数週間が経っても悲しみはいえることがありません。放射線と続く余震は多くの人々に恐怖を与えています。
 それゆえ、どのようにしてわたしたちは今日の詩編作者とともに歌うことができるでしょうか。
 「主はわたしの羊飼い、・・・・
 死の陰の谷を行くときも
 わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしとともにいてくださる。 ・・・・
 いのちのある限り
 恵みといつくしみはいつもわたしを追う」(詩編23)。
「神のいつくしみと愛」(テトス3・4)を信じる人さえも、皆様が味わった災害に震えおののきます。皆様の悲しみは十字架上のイエスの叫び声のうちにこだまします。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。
 しかし、にもかかわらず、神のことばは今日わたしたちに示します。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23・1)。イエスはよい羊飼いです。イエスはわたしたちに求めます。わたしがあなたがたとともにいて、あなたがたを心にかけていることを信じなさい。神はわたしたちを心にかけてくださいます。神はわたしたちから遠く離れたところにいて、いのちに意味を見いださないかたではありません。世界の多くの宗教にとって、神は遠く離れた神です。この神は自然の運行を他の諸力や神々にゆだねます。キリスト教徒を自称する人でも、神が自分にかまう必要はないと考える人がいることがありえます。それはとくにその人が自己満足的な精神をもっている場合です。神がいなくても自己実現が可能であるかのようないつわりの考えを抱いて生きること――これこそがあらゆる苦しみの中でも最大の苦しみです。すると、個人であれ、集団であれ、国家であれ、自分こそが唯一の基準となります。自分だけのためにすべてのものをとり、生きるなら、わたしたちはイエスが今日の福音の中で述べる「盗人」や「強盗」のように生きることになります。
 このような現実の中で、教会は、今日の第一朗読で読まれた 聖ペトロと同じ勇気をもって、自らの信仰の核心を宣言しなければなりません。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2・36)。わたしたちもこう告げ知らせなければなりません。人は他の人に自分を与え、神を愛し、神と交わりをもつことによって、初めて自分を満たすことができるのです。教会はいつも、愛のわざのしるしを、この中心的なメッセージと結びつけてきました。 この愛のわざの源泉は、神が与えてくださった愛です。だからこの愛のわざは、わたしたちが閉じた扉と壁を打ち砕き、他の人のいるところへと、つまるところ、神ご自身へと歩み入ることを可能にしてくれるのです。ですから、神はこの「大震災」からでも、わたしたちをご自身へと、他の人々へと導いてくださいます。
 この数週間の間、皆様もこのことを体験なさらなかったでしょうか。人々はともに集まり、連帯しました。皆様は家族と財産を失った人々を心にかけました。他の国々からかつてない規模の支援が寄せられました。今日、わたしたちはこれらの具体的に表された愛に対して神に感謝します。これらの愛は、カトリックとカトリック以外の援助機関、日本の行政と救援機関、国内・国外の支援団体から寄せられました。これからも助け合いの心を持ち続けようではありませんか。わたしたちは互いに責任を負っています。イエスは地震のような恐ろしい出来事が起こることを否定しません。けれどもイエスはわたしたちに力強く思い起こさせてくださいます。わたしたちは、自分を愛し、必要なときにわたしたちを心にかけてくれる他の人々を必要としています。
 しかし、物質的な援助よりもはるかに重要なのは、わたしを知り、愛し、心にかけてくださる神がおられると信じることです。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10・14)。イエスにとって、「自分の羊を知る」とは、イエスが内面的にもわたしのそばにいてくださるということです。心の奥深くで恐れと不安と疑いと疑問を抱いている、そのようなわたしを愛してくださるということです。
 「死の陰の谷」にいるわたしたちを主が導いてくださるということばは、このことを理解するための助けとなります。生涯のいつか、わたしたちは死の陰の谷へと導かれます。そこではだれもわたしとともに歩むことができません。しかし、イエスはそこにいてくださいます。キリストご自身が死の陰の谷に降られました。イエスはそこでわたしたちを見捨てません。詩編139がいうとおりです。
 「 陰府(よみ)に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます」。
死の苦しみの中でも。だれもが通らなければならない誘惑と失望と試練の暗い谷にあっても、イエスはそばにいて、わたしを死の陰の谷からいのちの青草の原へと導き出してくださいます。
 だからイエスは羊を招きます。わたしに従いなさいと。イエスはいわれます。「羊はわたしに従う」。ここにわたしたちはよい羊飼いの特別な特徴を見いだします。普通、羊飼いは羊の後を歩きます。しかし、イエスの場合は違います。 イエスはわたしたちに先立って歩みます。なぜなら、イエスはわたしたちを知っておられるからです。イエスは、わたしたちが危険な場所に行くことを、穴の中に落ちるのを知っておられます。だからイエスはわたしたちの前を行くのです。わたしたちが落ちても、イエスはそこで待っておられます。イエスはわたしたちを引き上げ、肩にかついでくださいます。イエスはこの上なくわたしたちを愛して、無事に家に連れ戻してくださいます。
 しかし、この羊飼いにはさらに注目すべき特徴があります。これからわたしたちがあずかろうとしている聖体の中で、羊飼いご自身が小羊となり、十字架の苦しみを受けることを選び、わたしのために自分のいのちを与えられます。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(一ペトロ2・24)。ほふられた小羊は、十字架の残酷なわざを、他者のために自分のいのちを自由にささげるわざに造り変えます。祭壇上で、イエスのからだが裂かれるのは、わたしが悲しみと罪と失意によって引き裂かれたとき、イエスがわたしと一つになってくださるためです。イエスの血が注ぎ出されるのは、わたしが押し流され、焼かれ、引き裂かれたときに、イエスがわたしと一つになってくださるためです。これがキリスト教のあわれみの中心にあるものです。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(一ペトロ2・21)。
 今日、いつもの感謝の祭儀と同じように、小羊は、苦しめる者を前にしてもわたしたちのために食卓を用意してくださいます。 小羊はわたしたちを招きます。あなたがたの砕かれた心をパテナとカリスの中に入れなさい。小羊はパテナとカリスの中でわたしたちを待っていてくださいます。それは、わたしたちのからだを、裂かれ、注がれたご自身のからだと一つに結びつけてくださるためです。そして小羊は、イエスを死の谷から引き上げた聖霊の力によって、わたしたちから引き上げなければならないものを引き上げてくださいます。これが「天から降って来たパン」(ヨハネ6・51)です。この食物だけが人間の飢えと渇きを完全にいやすことができるのです。
 それゆえ、わたしたちはどうして喜ばずにいられるでしょうか。よい羊飼いはいのちを受けず、それを捨てるのです。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。わたしたちはどうして喜ばずにいられるでしょうか。神は地上を生きるわたしたちにご自身の現実の現存を残してくださったのです。わたしたちはどうして喜ばずにいられるでしょうか。いつの日かわたしたちは神の食卓に招かれ、永遠に主の家に生きるのです。まことにわたしたちは感謝すべきです。ともに感謝の祭儀をささげながら祈ろうではありませんか。神がわたしたちを知り、すでに必要なものを与えてくださっていることを信頼しながら。「いのちのある限り、恵みといつくしみはいつもわたしを追う」。
 アーメン。

(カトリック中央協議会事務局 訳)

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