教皇ベネディクト十六世の271回目の一般謁見演説 聖書における祈り――アブラハムの生涯における祈り

5月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の271回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第3回として、「聖書における祈 […]


5月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の271回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第3回として、「聖書における祈り――アブラハムの生涯における祈り」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、中国の教会のために祈るよう、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「復活節の間、典礼は、死者の中から復活されたキリストを賛美します。キリストは、死と罪に打ち勝ち、教会生活と世界の出来事の中に生きて、ともにおられます。神の愛についてのよい知らせは、ほふられた小羊、よい羊飼いであるキリストのうちに明らかにされました。よい羊飼いは自分の羊のためにいのちを与えます。このよい知らせは、地の果てにまで広がり続けます。同時に、それは世界のあらゆるところで拒絶され、妨げられます。かつてと同じように、今も復活は十字架からもたらされます。
 5月24日(火)は、上海の佘山(シェシャン)の聖母大聖堂で『キリスト信者の助け』として深くあがめられている、おとめマリアの記念日です。全教会は中国の教会とともに一つになって祈ります。他の地域と同じように、中国でも、キリストは受難を体験しています。キリストを自分の主として受け入れる人の数は増えていますが、キリストを拒絶し、無視し、迫害する人もいます。『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』(使徒言行録9・4)。中国の教会は、普遍教会の祈りを必要としています。まずすべての中国のカトリック信者にお願いします。とくに力強いおとめであるマリアに対して、自らの祈りをささげ続け、また深めてください。しかし、世界のすべてのカトリック信者も、中国の教会のために祈ることを務めとしなければなりません。中国の教会の信者は、わたしたちに祈ってもらう権利があります。彼らはわたしたちの祈りを必要としています。
 わたしたちは使徒言行録によって次のことを知っています。ペトロが牢に入れられていたとき、すべての人が熱心に祈っていました。そのおかげで、天使がペトロを救い出しました。わたしたちも同じようにしようではありませんか。皆で、ともに中国の教会のために祈ろうではありませんか。わたしたちは祈りによってこの教会のためにきわめて現実的なことを行えると信じています。
 彼らが何度も述べてきたとおり、中国のカトリック信者は、普遍教会との、また最高の牧者であるペトロの後継者との一致を望んでいます。わたしたちの祈りによって、中国の教会は、唯一の聖なるカトリックの教会として、教会の教えと規律に忠実かつ堅実に従い続ける恵みを得ることができます。中国の教会はわたしたちから愛されるべき存在です。
 わたしたちは、わたしたちの兄弟である司教の中のある人々が、苦しみ、司教職を果たす上で圧迫を受けているのを知っています。わたしたちは、自由に信仰告白をすることがむずかしい司教、司祭、そしてすべてのカトリック信者に寄り添うことを表明したいと思います。わたしたちは祈りによって、この人々が生き生きとした信仰と、力強い希望と、すべての人に対する燃えるような愛を保ち、教会の教えを守るための方法を見いだす助けとなることができます。わたしたちはこの教会の教えを、主と使徒たちから受け継ぎ、現代まで忠実に伝えてきました。わたしたちは祈ることによって、唯一の普遍の教会のうちにとどまりたいという中国の教会の望みが、ペトロから独立する道を歩む誘惑に打ち勝つ恵みを得ることができます。祈りによって、中国の教会もわたしたちも、誠実に、何の妨げも受けずに、喜びと力をもって告げ知らせ、あかしする恵みを与えられます。イエス・キリストは、十字架につけられて復活したかた、新しい人、罪と死に打ち勝ったかただと。
 皆様とともにマリアの執り成しを願い求めます。中国の教会のすべての人がますますキリストに似せて形づくられ、いっそう惜しみなく兄弟に自らをささげることができますように。マリアに願います。疑いのうちにある人を照らし、道に迷った人を呼び戻し、苦しむ人を慰め、便宜主義の誘惑に駆られた人を強めてください。佘山(シェシャン)の聖母、キリスト信者の助けであるおとめマリアよ。わたしたちのために祈ってください」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの二回の講話で、普遍的現象としての祈りについて考察しました。祈りは、たとえ形は違っても、あらゆる時代の文化の中に存在します。しかし、今日からこのテーマに関する聖書の歩みの考察を始めたいと思います。この考察によってわたしたちは、神と人間の契約の対話について深く思いめぐらすよう導かれます。契約の対話は救いの歴史を導きます。その頂点は、決定的なことばである、イエス・キリストです。聖書の歩みの考察の中で、わたしたちは、旧約聖書と新約聖書のいくつかの重要なテキストと模範的な人物を考察することになります。
 偉大な太祖であり、すべての信じる者の父(ローマ4・11-12、16-17参照)であるアブラハムは、ソドムとゴモラの町のために執り成した出来事によって、祈りの最初の模範をわたしたちに示します。わたしは次のことも皆様にお願いしたいと思います。これから行う講話を、聖書をもっとよく学び、知るための機会として用いてください。皆様の家に聖書があることを希望します。そして、一週間の間、祈りのうちに聖書を読んで黙想する時間をもち、神と人間の関係についての驚くべき歴史を知ってください。神はご自身をわたしたちに知らせ、人間はこれにこたえ、祈るのです。
 わたしたちが考察したい第一のテキストは、創世記18章に見いだされます。そこでは、次のことが語られます。ソドムとゴモラの住民の悪行は頂点に達しました。その悪行は、神が働きかけて正義のわざを行い、二つの町を滅ぼすことによって、悪を止めなければならないほどでした。そこにアブラハムが割って入り、執り成しの祈りを行います。神は、これから起こることをアブラハムに示し、重大な悪とその恐るべき結末を知らせようと決めます。なぜなら、アブラハムは神に選ばれた者、すなわち、大いなる民となり、神の祝福を全世界にもたらすために選ばれた者だからです。アブラハムの使命は、救いの使命です。この救いは、人間の現実に入り込んだ罪にこたえなければなりません。主はアブラハムを通じて人類を信仰と従順と正義に連れ戻すことを望みます。今、この神の友は、現実と世界の必要に開かれます。そして、罰を与えられようとしている人々のために祈り、彼らが救われることを願います。
 アブラハムはただちにきわめて深刻な問題に立ち向かいます。彼は主に向かって述べます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をおゆるしにはならないのですか。 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。まったくありえないことです。全世界を裁くおかたは、正義を行われるべきではありませんか」(23-25節)。アブラハムはこのように語り、大きな勇気をもって、神の前で、ただちに正義を行うことを避けるべきだと述べたのです。もしもこの町が罪深いなら、罪を罰し、罰を与えることは正しいことです。しかし――と偉大な太祖はいいます――、住民全員を無差別に罰することは不当です。もし町の中に罪を犯していない人がいれば、その人々を罪人として扱ってはなりません。正しい裁き主である神がそのようなことをなさることはありえません。正当にもアブラハムはこのように神に述べたのです。
 しかし、もっと注意深くテキストを読むなら、次のことに気づきます。アブラハムの要求はさらに真剣で激しいものでした。なぜなら、彼は罪のない人のために救いを願うだけではないからです。アブラハムは町全体のためにゆるしを願います。そのために彼は神の義に訴えかけます。実際、彼は主に向かっていいます。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、・・・・その五十人の正しい者のために、町をおゆるしにはならないのですか」(24b節)。こうしてアブラハムは新しい正義の概念を用います。それは、人々が用いるような、罪人を罰するだけの正義の概念ではありません。むしろそれは、これとは異なる、神の正義です。神の正義は善を求め、ゆるしを通じていつくしみを造り出します。ゆるしは罪人を造り変え、回心させ、救うからです。それゆえ、アブラハムはその祈りによって、単なる報いとしての正義だけではなく、救いのわざを願い求めます。救いのわざは、罪のない人を顧みながら、邪悪な者をもゆるし、罪から解放します。逆説的に思われるかもしれませんが、アブラハムの考えを次のようにまとめることができます。罪のない人を罪人として扱うべきでないことは当然です。そのような扱いは不当です。しかし、罪人を罪のない人として扱うことも必要です。そのために、「優れた」正義を行い、彼らに救いの可能性を与えなければなりません。なぜなら、もし悪人が神のゆるしを受け入れ、罪を告白して、救われるなら、彼らはもはやそれ以上悪を行わず、義人となり、もう罰せられる必要はないからです。
 アブラハムがその執り成しの中で表明したのは、このような正義への願いです。この願いは、主があわれみ深いかたであるという確信に基づいています。アブラハムは神の本質に反することを神に願ったのではありません。彼は神の心の扉をたたきます。真のみ心を知っていたからです。いうまでもなくソドムは大きな町でした。五十人の正しい者はわずかな数のように思われます。しかし、神の義とゆるしは、いつくしみの力の表れではないでしょうか。たとえいつくしみが悪よりも小さく、無力であるように思われるとしても。ソドムを滅ぼせば、その町の悪を止められるかもしれません。しかし、アブラハムは、神には悪の広まりを防ぐための別のやり方、方法があることを知っていました。それが、罪の連鎖を断ち切るゆるしです。そしてアブラハムは、神との対話の中で、まさにこのゆるしに訴えかけます。そして、主が、もし正しい者が五十人いるならば、町をゆるすことを受け入れたとき、アブラハムの執り成しの祈りは神のあわれみの奥底へと降り始めます。ご存じのとおり、アブラハムは、救いに必要な罪のない人の数を少しずつ減らしていきます。もし五十人いなくても、四十五人いれば十分ではないでしょうか。その数をその後ますます減らして、ついに十人に至るまで、アブラハムは祈願を続けます。彼は大胆なまでに主張します。「もしかすると、四十人・・・・三十人・・・・二十人・・・・十人しかいないかもしれません」(29、30、31、32節参照)。そして、数が小さくなればなるほど、より大きな神のあわれみが示され、表されます。神は忍耐強く祈りに耳を傾け、祈りを聞き入れ、願いが行われるたびに繰り返していいます。「ゆるそう・・・・滅ぼさない・・・・それをしない」(26、28、29、30、31、32節参照)。
 こうして、アブラハムの執り成しにより、町にもしわずか十人の正しい者がいれば、ソドムは救われることが可能となったのです。これが祈りの力です。他の人の救いのための神への執り成しと祈りを通じて、神が罪人に対してつねに抱いておられる救いの望みが示され、表されます。実際、悪を受け入れることはできません。悪を指摘し、罰を通じて滅ぼさなければなりません。ソドムが滅ぼされたのはまさにそのためです。しかし、主は悪人の死を望まれず、むしろその人が立ち帰って生きることを望まれます(エゼキエル18・23、33・11参照)。主の望みは、つねに、ゆるし、救い、いのちを与え、悪を善に変えることです。ところで、まさにこの神の望みが、祈りの中で、人間の望みとなり、執り成しのことばを通じて言い表されます。アブラハムは祈願によって、神のみ心を、自分のことばだけでなく、心によって表しました。神の望みは、あわれみと愛と救いの望みです。そしてこの神の望みが、アブラハムとその祈りのうちに、人類の歴史の中で具体的なしかたで示され、恵みを必要とするところに現されることが可能になりました。アブラハムは神の望みをことばで表しました。神の望みは、ソドムを滅ぼすことではなく、救うことです。回心した罪人にいのちを与えることです。
 これが主の望みです。そして主とアブラハムとの対話は、主のあわれみ深い愛を、詳細かつ明確に示します。町の中に正しい者を見いださなければならないという必要性は、次第に切迫したものではなくなり、ついには住民全員が救われるには十人で十分となります。なぜアブラハムが十人でやめたかは、テキストの中で語られていません。おそらくそれは共同体の最小単位を表す数字だったのかもしれません(現代においても、十人はユダヤ人が公的に祈るために必要な定足数です)。いずれにせよ、それはわずかな数です。この小さないつくしみの一かけらから、大きな悪からの救いが始まります。しかし、十人の正しい者すら、ソドムとゴモラにはいませんでした。こうして二つの町は滅ぼされました。この滅びは、逆説的ながら、どれほどアブラハムの執り成しの祈りが必要だったかを証明します。この祈りは神の救いのみ心を示すためのものでした。主はゆるす準備ができており、ゆるすことを望んでおられました。しかし、二つの町は心を麻痺させる悪に完全に染まっていました。悪を善に変えることのできる、わずかな罪のない人もいませんでした。アブラハムが願ったのも、まさにこのような救いの道でした。救われるとは、単に罰を逃れることではなく、わたしたちのうちに巣食う悪から解放されることです。なくさなければならないのは、罰ではなく、罪です。神と愛を拒むことです。これらを拒むことは、それ自体において罰をもたらします。預言者エレミヤは、神に逆らう民に向かっていいました。「あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。あなたが、わたしを畏れず、あなたの神である主を捨てたことが、いかに悪く、苦いことであるかを味わい知るがよい」(エレミヤ2・19)。主は、人間を罪から解放することを通じて、この悲しみと苦しみから救おうと望まれます。しかし、それゆえに、内面の変革が必要です。いつくしみのきっかけが、すなわち、悪を善に、憎しみを愛に、復讐をゆるしに変えるために、何かを始めることが必要です。そのために正しい者が町の中にいなければなりません。そしてアブラハムは繰り返していいます。「もし(そこに)・・・・いるならば」。「そこ」とは、病んだ現実の内側です。この現実が、いつくしみの種とならなければなりません。いつくしみは、いやし、いのちを取り戻すことができるからです。このことばはわたしたちにも語りかけています。いつくしみの種は、わたしたちの町の中にもなければなりません。わたしたちは、わずか十人の正しい者しかいないようなことがないように、全力を尽くさなければなりません。それは、わたしたちの町を本当の意味で生かし、生き延びさせ、神の不在という、内的な悲しみから救われるためです。ソドムとゴモラの病んだ現実の中には、いつくしみの種がなかったのです。
 しかし、神の民の歴史の中で、神のあわれみはさらに広がります。ソドムを救うために十人の正しい者がいれば十分でした。預言者エレミヤは全能の神のみ名においていいます。そうであれば、エルサレムを救うには、一人でも正しい者がいれば十分である。「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムをゆるそう」(エレミヤ5・1)。数はさらに小さくなりますが、神のいつくしみはますます大きく示されます。にもかかわらず、これでも足りませんでした。神の豊かなあわれみに対して、神が求めるいつくしみはこたえませんでした。エルサレムは敵の包囲の中で陥落します。神ご自身が正しい者となることが必要となります。これが受肉の神秘です。正しい者を守るために、神ご自身が人となられます。正しい者は永遠に存在します。なぜなら、神こそが正しい者だからです。しかし、神ご自身がこの正しい者にならなければなりませんでした。神の子が人となられたとき、決定的に正しい者、完全に罪のないかたとなったとき、限りなく驚くべき神の愛が完全に示されました。この完全に罪のないかたは、十字架上で死に、「自分が何をしているのか知らない」(ルカ23・34)人々をゆるし、彼らのために執り成すことによって、全世界に救いをもたらすからです。そのとき、すべての人の祈りが聞き入れられます。そのとき、わたしたちのすべての執り成しは完全に聞き届けられます。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちの信仰の父であるアブラハムの祈願は、わたしたちに教えていいます。神の豊かなあわれみにますます心を開きなさい。それは、わたしたちが日々の祈りの中で人類の救いを望み、粘り強く、信頼をこめて、深い愛に満ちた主にこの救いを願い求めることができるためです。ご清聴ありがとうございます。

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