教皇ベネディクト十六世の272回目の一般謁見演説 創世記におけるヤコブの姿

5月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の272回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第4回として、「創世記におけるヤコブの姿」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日は皆様とともに創世記のテキストを考察したいと思います。このテキストは、太祖ヤコブの物語におけるきわめて特別な出来事を語っています。これは解釈がむずかしい記事ですが、わたしたちの信仰生活と祈りの生活にとって重要です。テキストはヤボクの渡しでの神との格闘を物語ります。わたしたちはその一部が朗読されるのを聞きました。
 ご存じのとおり、ヤコブはレンズ豆の料理と引き換えに双子の兄のエサウから長子権を取り上げ、後に策略をもって父イサクの祝福をだまし取りました。イサクが歳をとって、目が見えないことを利用したのです。エサウの怒りから逃れたヤコブは、親戚のラバンのところに逃れました。ヤコブは結婚し、豊かになり、故郷に帰ろうとします。いくつかの賢明な手立てを講じた後、兄と対面する準備ができたからです。しかし、この会見の準備が整い、同行者にエサウの地との境をなす川を渡らせた後、独りでとどまっていたヤコブは、突然見知らぬ者に襲われ、夜中、この者と争いました。創世記32章に見いだされる、この接近戦が、ヤコブにとっての特別な神体験となったのです。
 夜はひそかに行動するのに好都合な時間です。それゆえ、それはヤコブにとって、見られることなく、兄の地に入るのによい時間です。もしかすると彼はエサウに不意打ちを食わすことができると錯覚していたのかもしれません。しかし反対に、奇襲を受けたのはヤコブのほうでした。ヤコブはこの奇襲に対して準備をしていませんでした。ヤコブは危険な状況から逃れるために機智を用い、すべてを思いのままにできると考えていました。ところが彼は不思議な戦いに直面させられます。彼はこの戦いに独りで臨み、適切な防御策を講じることもできません。太祖ヤコブは無防備で何者かと戦います。テキストは攻撃者がだれなのかを示しません。一般的なしかたで「人」、「ある人、何者か」を意味するヘブライ語のことばが用いられます。それゆえ、攻撃者はあいまいで漠然とした形で示されます。意図的に襲撃者を神秘のままにとどめているのです。暗闇の中で、ヤコブは敵をはっきりと見ることができず、読者であるわたしたちにも、敵はだれだか分からないままです。何者かが太祖ヤコブに敵対します。語り手が示す確かなことはそれだけです。最後に、戦いが終わり、「何者か」が去ったときに初めて、ヤコブはこの「何者か」の名を呼び、自分は神と闘ったということができました。
 それゆえ、この出来事はあいまいなまま進行し、ヤコブを襲った者がだれであるかということだけでなく、戦いの結果も読み取ることが困難です。記事を読んでも、争い合った二人のうちのどちらが優位に立つことができたかを決めかねます。用いられた動詞はしばしばはっきりした主語を欠き、行動はほとんど矛盾したしかたで進行します。二者のどちらかが勝ったように思われても、すぐ次の行動はそれを否定し、もう一方の者が勝者だと示します。実際、初めはヤコブのほうが力が強いように思われます。テキストはいいます。敵は「勝てない」(26節)のです。にもかかわらず、敵はヤコブの腿の関節を打ち、はずします。そこから人は、ヤコブが負けたと考えるかもしれません。しかし、逆にもう一方の者が去らせてくれとヤコブに願います。太祖ヤコブはそれを拒み、条件をつけます。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(27節)。兄から策略をもって長子の祝福をだまし取った人が、今や見知らぬ者に祝福を求めます。ヤコブはこの見知らぬ者のうちに神的な特徴を見いだし始めていましたが、まだ本当の意味でこの者がだれだと認めることはできませんでした。
 ヤコブによって引き留められ、それゆえ負けたかのように思われる敵は、太祖の願いに従う代わりに、ヤコブの名を尋ねます。「お前の名は何というのか」。太祖はこたえます。「ヤコブです」(28節)。ここで戦いは重要な転機を迎えます。実際、ある人の名を知ることは、その人に対してある種の権能をもつことを意味します。なぜなら、聖書の考え方によれば、名は個人のもっとも深い存在を含むからです。名は人の秘密と運命を露わにします。それゆえ、名を知ることは、他の人の真実を知ることを意味します。そこから、その人を支配できる力が与えられるのです。それゆえ、見知らぬ人の要求に応じてヤコブが自分の名前を明らかにしたとき、彼は敵の手に身をゆだねたのです。それは、降伏し、自分を完全に他者に手渡す形式です。
 しかし、ヤコブはこの降服者としての振る舞いをもって、逆説的にも勝利者として現れます。なぜなら、ヤコブは敵から勝利者と認められるとともに、新しい名を与えられるからです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。「ヤコブ」はこの太祖の問題のある初めの姿を思い起こさせる名でした。実際、ヘブライ語で「ヤコブ」は「かかと」ということばを想起させます。そして読者にヤコブの誕生のときを思い起こさせます。ヤコブは母の胎内から出るとき、双子の兄のかかとをつかんでいました(創世記25・26参照)。あたかもヤコブが大人になってから兄のものを奪うことを予告するかのように。また、ヤコブという名は「だます、奪い取る」という動詞も思い起こさせます。今、太祖ヤコブは、戦いの中で、敵対者に対して、従順と屈服の態度をもって、だまし、奪い取る者の固有のあり方を示します。しかし、もう一人の者、すなわち神は、この悪いあり方をよいあり方に造り変えます。略奪者ヤコブは、イスラエルとなります。彼は、新しいあり方を表す、新しい名を与えられます。しかし、ここでも物語は意図的に両義性を残しています。なぜなら、イスラエルという名のもっとも確からしい意味は、「神は力強い、神は勝利する」だからです。
 それゆえヤコブは勝ち、勝利を収めました。敵対者自身がいうとおりです。しかし、同じ敵から与えられた彼の新しいあり方は、神が勝利したと主張し、あかしします。そして、ヤコブのほうから敵の名を尋ねると、敵は名を語ることを拒みます。そして、むしろ自分の祝福を与えるというはっきりとした行為をもって、自らを表します。太祖ヤコブが戦いの初めに願った祝福が、今や彼に与えられます。それは策略によってつかみ取った祝福ではなく、神が無償で与えた祝福です。ヤコブはこの祝福を受けることができます。なぜなら、今や彼は独りきりで、保護も策謀も策略もなしに、無防備で自らを与え、降伏することを受け入れ、自分自身について真実を告白するからです。こうして戦いの終わりに祝福を受けた後、太祖ヤコブはついに、相手が祝福をもたらす神であることを認めました。ヤコブはいいます。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(31節)。こうしてヤコブは渡しを渡ります。新しい名をもち、神に「打ち負かされ」、受けた傷のために足を引きずりながら。
 聖書釈義はこの箇所についておびただしい説明を与えています。とくに研究者はこの箇所のうちにさまざまな類型の文学的意味と要素、またいくつかの民間伝承との関連を見いだします。しかし、これらの要素が聖書作者によって用いられ、聖書の記事に組み入れられたとき、それは意味を変え、テキストはより広い次元へと開かれました。ヤボクでの格闘の出来事は、信じる者に範例的なテキストとして与えられます。このテキストの中でイスラエルの民は、自らの起源を語り、神と人の特別な関係の特徴を示します。そのため、『カトリック教会のカテキズム』も述べるとおり、「教会の霊性伝承によると、この物語は信仰の戦いである祈り、また堅忍の勝利である祈りを象徴するものです」(同2573)。聖書のテキストは、神を尋ね求め、神の名を知り、そのみ顔を見ようと奮闘する、長い夜についてわたしたちに語ります。それは祈りの夜です。祈りは粘り強く、堅忍をもって、祝福と新しい名を与えてくださるよう神に願い求めます。この新しいあり方は、回心とゆるしの実りです。
 こうして、ヤボクの渡しでのヤコブの夜は、信じる者にとって、神との関係を理解するための基準となります。神との関係は祈りのうちに最高の表現を見いだします。祈りは信頼すること、象徴的な意味で神の間近に近づくことを必要とします。この神は、敵対者でも敵でもありません。つねに神秘のうちにとどまり、近づきがたいように思われる、祝福をもたらす主です。そのため、聖書作者は戦いという象徴表現を用いました。戦いは、魂の力、望むものに堅忍と粘り強さをもって近づこうとすることを表します。もしも望むものが神との関係であり、神の祝福であり、神の愛であるなら、この戦いは必ずや、自分自身を神にささげ、自分の無力さを認めることのうちに頂点に達します。神のあわれみに自らをゆだねるに至るとき、この無力さが勝利を収めるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちの全生涯は、この長い戦いと祈りの夜のようなものです。わたしたちはこの夜を、神の祝福を望み、願いながら過ごさなければなりません。わたしたちは自分の力に頼って神の祝福を奪い取ることも勝ち取ることもできません。むしろそれを、へりくだって、無償のたまものとして神から受け取らなければなりません。このたまものが、ついには、主のみ顔を見いだすことを可能にしてくれるのです。このようなことが行われるとき、わたしたちのあり方全体が変わります。わたしたちは新しい名と、神の祝福を受けるのです。そればかりではありません。新しい名を与えられて、イスラエルとなったヤコブは、自分が神と戦った場所にも新しい名を与えます。彼はそこで祈り、ペヌエルと新たに名づけました。ペヌエルは「神の顔」という意味です。彼はこの名をもってその場所が主の現存で満ちていることを認めました。彼は神との不思議な出会いの記憶を刻みつけることによって、この地を聖なるものとしたのです。神に祝福していただく人、神に身をゆだねる人、神に造り変えていただく人は、世を祝福されたものとします。主の助けによって、わたしたちが信仰の戦いを立派に戦い抜き(一テモテ6・12、二テモテ4・7参照)、祈りの中で主の祝福を願い求められますように。こうしてわたしたちが主のみ顔をあらためて待ち望むことができますように。ご清聴ありがとうございます。

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