教皇ベネディクト十六世の273回目の一般謁見演説 預言者モーセ

6月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の273回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第5回として、「預言者モーセ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 旧約を読むと、一人の人物の姿が際立ちます。すなわち、祈りの人としてのモーセの姿です。偉大な預言者であり、出エジプトの時代の指導者であるモーセは、神とイスラエルの仲介者の役割を果たしました。そのために彼は、神のことばと命令をイスラエルの民に伝えました。彼らを自由な約束の地へと導きました。そして長い荒れ野における滞在の間、神に従い、信頼することをイスラエルの民に教えました。しかし、わたしがとくにいいたいのは、彼は祈りの人でもあったということです。モーセは、神が災いをもってエジプト人の心を変えようと試みたとき、ファラオのために祈ります(出エジプト8~10章参照)。重い皮膚病にかかった姉のミリアムがいやされるよう、主に祈ります(民数記12・9-13参照)。偵察者の報告を聞いて恐れ、反抗した民のために執り成します(民数記14・1-19参照)。火が宿営を焼き尽くそうとしたとき(民数記11・1-2参照)、また毒蛇が多くの死者を出したときに祈ります(民数記21・4-9参照)。モーセは、自分の使命の重荷があまりに重くなったとき、主に向かって抗議します(民数記11・10-15参照)。彼は神を見、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」神と語ります(出エジプト24・9-17、33・7-23、34・1-10、28-35参照)。
 シナイで民がアロンに黄金の子牛を造るよう願ったときも、モーセは祈り、その執り成し手としての役割を象徴的なしかたで果たします。この出来事は出エジプト記32章に語られますが、申命記9章にも並行記事が見いだされます。今日の講話ではこの出来事について、とくに出エジプト記の物語に書かれたモーセの祈りについてお話ししたいと思います。モーセが山の上で律法の板が与えられるのを待ち、四十日四十夜断食していた間、イスラエルの民はシナイ山のふもとにいました(出エジプト24・18、申命記9・9参照)。四十という数は象徴的な意味をもち、経験全体を表します。断食は、いのちが神に由来し、神がいのちを支えることを示します。実際、食べるという行為は、わたしたちを支える栄養をとることを意味します。それゆえ、断食すること、つまり食物を断つことは、この場合に宗教的な意味をもちます。それは、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのことばによって生きることを示す行為です(申命記8・3参照)。モーセは断食を行うことによって、自分がいのちの源としての神の律法が与えられるのを待ち望んでいることを示します。神の律法は神のみ心を啓示し、人の心に糧を与え、いと高きかたと契約を結ばせます。いと高きかたは、いのちの源であり、いのちそのものだからです。
 しかし、主が山上でモーセに律法を与えたとき、山のふもとでは民が律法に背いていました。仲介者を待つことにも、仲介者がいないことにも我慢できなくなったイスラエルの民は、アロンに願います。「さあ、われわれに先立って進む神々を造ってください。エジプトの国からわれわれを導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(出エジプト32・1)。目に見えない神とともに歩むことに疲れ、今や仲介者であるモーセも姿が見えなくなったために、民は、確かな、手で触れることのできる形で主が現存してくださることを願います。そして彼らは、アロンの造った金属製の子牛のうちに、人間が近づき、操作しうる神を見いだします。自分の枠組みと計画に合った、理解可能な神を作ることによって、神の神秘をごまかそうとすること――これは信仰の歩みの中で絶えず現れる誘惑です。シナイで起きたことは、このような要求の愚かさと空しい幻想を余すところなく示しています。詩編106が皮肉をもって述べるとおりです。「彼らは自分たちの栄光を、草をはむ牛の像と取り替えた」(詩編106・20)。そのため主はこたえて、モーセに下山するよう命じます。そして民が行っていることをモーセに示し、終わりにこう告げます。「今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」(出エジプト32・10)。ソドムとゴモラについてアブラハムに示したように、ここでも神はモーセにご自分がなさろうとしていることを示します。あたかもモーセの同意なしには何をすることも望まないかのように(アモス3・7参照)。主はいわれます。「わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている」。実際のところ、「わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている」といわれたのは、モーセが介入して、そのようなことをしないよう主に願うようにし、そこから、神の望みはつねに救いであることを現すためでした。アブラハムの時代の二つの町にとってそうだったのと同じように、罰と破壊は、悪を拒絶する神の怒りの表れであり、犯した罪が重大であることを示します。同時に、執り成し手の願いは、主のゆるしのみ心が現されることを目指します。これが神の救いです。神の救いはあわれみを伴います。しかしそれは、罪と悪が存在する事実も暴きます。そこから罪人は、自分の咎を認め、それを遠ざけることによって、神にゆるされ、造り変えられることが可能になります。執り成しの祈りは、罪人の堕落した現実の中で、神のあわれみを働かせます。神のあわれみは、祈る人の祈願によってことばとして表され、祈る人を通じて、救いを必要としているところに現れるのです。
 モーセの祈願はすべて主の忠実さと恵みを中心としています。モーセはまず、イスラエルのエジプト脱出によって神が始めたあがないの歴史を述べます。それは、その後、太祖に与えられたかつての約束を思い起こさせるためです。主は、ご自分の民をエジプトでの奴隷状態から解放することによって、救いのわざを行われました。モーセは願います。それならば、「どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』といわせてよいでしょうか」(出エジプト32・12)。始まった救いのわざは、完成されなければなりません。もし神がご自分の民を滅ぼすなら、それは神が救いの計画を実現できないことを示すしるしと解釈される可能性があります。神がそのようなことを許されるはずはありません。神は救いをもたらすいつくしみ深い主、いのちを保証してくださるかた、あわれみ、ゆるし、死をもたらす罪から解放してくださる神です。だからモーセは、表向きの宣告に逆らって、神に訴えかけます。神の内なるいのちに訴えかけます。しかし、その際モーセは主に対してこう論じます。たとえいかに罪深くても、主の選ばれた者が滅びるなら、主は罪に打ち勝つことができないかのように思われるのではないでしょうか。それは受け入れがたいことです。モーセは神の救いを具体的な形で経験しました。そして、神の解放のわざの仲介者として派遣されました。そしてこのとき、モーセの祈りによって、彼は二つの気遣いを代弁する者となります。一つは、神の民の行く末に対する気遣いであり、もう一つは、主に帰せられるべきほまれと、み名の真実に対する気遣いです。実際、執り成し手であるモーセは、イスラエルの民が救われることを望みます。イスラエルの民は、彼にゆだねられた群れだからです。そればかりでなく、イスラエルの民の救いによって神のまことのあり方が現されるからです。兄弟への愛と神への愛は、執り成しの祈りの中で浸透し合います。この二つの愛を切り離すことはできません。執り成し手であるモーセは、この二つの愛の間に立つ人です。二つの愛は、唯一のいつくしみへの望みのうちに重なり合います。
 次にモーセは神の忠実さに訴えかけ、神の約束を思い起こさせます。「どうか、あなたのしもべであるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』といわれたではありませんか」(出エジプト32・13)。モーセはイスラエルの創立された歴史を思い起こさせます。すなわち、その起源、イスラエルの民の太祖、そしてその完全に無償の選びです。この選びは神の働きかけのみに基づくものでした。イスラエルの太祖が約束を与えられたのは、彼らのいさおしによるのではなく、神とその愛の自由な選びのゆえです(申命記10・15参照)。そしてこのとき、モーセは願います。主が、ご自分の民をゆるすことによって、その選びと救いの歴史に忠実にとどまり続けてくださるようにと。執り成し手であるモーセは、自分の民の罪に対する言い訳を述べません。自分の民や自分自身の何らかのいさおしを挙げるのでもありません。むしろ彼は、神の無償の愛に訴えかけます。神は自由であり、まったき愛です。このかたは、遠く離れた人を捜し続けます。ご自身につねに忠実であり、罪人に対しては、神に立ち帰り、ゆるしをもって、正しく忠実な者となる可能性を与えてくださいます。モーセは神に願います。あなたが罪と死よりも強いことを現してください。そして彼は、自分の祈りによってこのようなしかたで神がご自身を現してくださるように仕向けます。いのちの仲介者、執り成し手であるモーセは、民と連帯します。神ご自身が望まれた救いのみを望むモーセは、自分が主のみ心にかなう新しい民となる可能性を放棄します。「わたしはあなたを大いなる民とする」という、神がモーセに語ったことばを、神の「友」は顧みません。モーセは、自分の民の罪だけでなく、その罪がもたらすすべてのことを進んで自ら引き受けようとするからです。金の子牛を打ち砕いた後、山に戻ると、モーセはイスラエルの救いをあらためて願っていいます。「今、もしもあなたが彼らの罪をおゆるしくださるのであれば・・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(32節)。執り成し手モーセは、祈りによって神の望まれることを望みながら、ますます深く主とそのあわれみを知るようになります。そして、自分をすべてささげるに至るまで愛することができるようになります。モーセは山の頂に立って神と顔と顔を合わせ、自分の民のために執り成し、自分自身をささげます(「わたしを消し去ってください」)。教父たちはこのモーセのうちにキリストの予型を見いだしました。キリストは十字架上で本当に神のみ前に立ちました。それも、単に友としてではなく、御子として。キリストはご自分をささげただけでなく(「わたしを消し去ってください」)、刺し貫かれたみ心をもって消し去られ、聖パウロがいうとおり、罪となりました。「わたしたち」を救うために、わたしたちの罪を「ご自分の上に」担われたのです。キリストの執り成しは、単なる連帯ではなく、わたしたちと同じ者になることです。キリストはわたしたち皆をご自身のからだのうちに担われます。こうしてキリストの人間として、また御子としての存在全体は、神のみ心に対する叫び声となります。それはゆるしです。そればかりか、それは、わたしたちを造り変え、新たにするゆるしです。
 わたしたちはこのことをよく黙想しなければならないと思います。キリストは神のみ前に立って、わたしのために祈ってくださいます。キリストは十字架上で、現代のすべての人のために、今、わたしのために祈ってくださいます。キリストはわたしのために祈られます。わたしのために、昔も今も苦しまれます。わたしたちのからだと人間の心をとって、わたしと同じ者になられます。そしてキリストはわたしたちを招きます。わたしの存在に入りなさい。わたしと一つのからだ、一つの心になりなさい。それは、キリストが十字架上から、石の板に書かれた新しい律法ではなく、ご自身を、すなわち、新しい契約として、ご自分のからだと血を与えてくださるためです。こうしてキリストはわたしたちをご自身と血のつながりのある者、一つのからだとしてくださいます。ご自身と一つにしてくださいます。キリストはわたしたちを招きます。このようなしかたでわたしと一つになりなさい。わたしと一つのからだ、一つの心になることを望みながら、わたしと一つに結ばれなさい。主に祈ろうではありませんか。このようにあなたと一つになることによって、わたしたちを造り変え、新たにしてください。ゆるしはわたしたちを新たにし、造り変えるからです。
 使徒パウロのローマの信徒への手紙のことばでこの講話を終えたいと思います。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだかた、否、むしろ、復活させられたかたであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。・・・・死も、いのちも、天使も、支配するものも、・・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・33-35、38、39)。

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