教皇ベネディクト十六世の275回目の一般謁見演説 預言者エリヤ

6月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の275回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第6回として、「預言者エリヤ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 古代イスラエル宗教史の中で、預言者とその教えと説教は、大きな意味をもっていました。この預言者の一人としてエリヤが登場します。エリヤは、民を回心へと導くために神によって立てられた人物です。エリヤという名は「主はわたしの神」を意味します。そして、エリヤの生涯はこの名が表すとおりのものでした。彼の生涯はすべて、民に主が唯一の神であることを認めさせるためにささげられたからです。シラ書はエリヤについていいます。「そして火のような預言者エリヤが登場した。彼のことばは松明(たいまつ)のように燃えていた」(シラ48・1)。イスラエルはこの炎によって神へと歩む道を再び見いだしました。エリヤはその職務の中で祈りました。エリヤは、自分が宿を借りたやもめの息子を生き返らせてくれるよう、主に願います(列王記上17・17-24参照)。王妃イゼベルが彼を殺そうとしたときに逃げた荒れ野の中で、神に疲労と苦悩の叫び声を上げます(列王記上19・1-4参照)。しかし、何よりも彼はカルメル山上で、自らの執り成し手としての力を余すところなく表します。彼はイスラエル全体の前で、主に祈ります。ご自身を現し、民の心を回心させてくださいと。今日は、列王記上18章に語られたこの出来事について考えてみたいと思います。
 ときは紀元前9世紀、アハブ王の時代の北王国です。当時イスラエルではあからさまな宗教混淆の状態が生じていました。民は主だけでなくバアルも礼拝しました。バアルは民を安心させる偶像です。民はこのバアルから雨がもたらされると信じ、それゆえ、バアルには農地に豊作をもたらし、人と家畜にいのちを与える力があると考えました。民は、目に見えない不思議な神である主に従うといいながら、理解し、予見できる神にも安心を求めました。彼らは、この神から犠牲と引き換えに豊穣と幸福を得られると考えたからです。イスラエルは偶像の誘惑に屈しました。それは信じる者が絶えず経験する誘惑です。偶像とは、「神と富とに仕える」(マタイ6・24、ルカ16・13参照)ことができるという錯覚です。人間が造った無力な神に信頼を置くことによって、全能の神を信じるという近づきがたい道を簡単に歩めると考える錯覚です。
 このような態度のいつわりと愚かさを暴露するために、エリヤはイスラエルの民をカルメル山上に集め、彼らにある決断をしなければならないことを示します。「もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記上18・21)。神の愛をもたらす者である預言者は、この決断を前にした自分の民を独りきりにせず、真理を表すしるしを示して彼らを助けます。エリヤも、バアルの預言者たちも、いけにえを用意して祈ります。そうすれば、真の神は、献げ物を焼き尽くす火をもって答え、ご自身を現されるはずです。こうして預言者エリヤとバアルの信者の対決が始まりました。この対決は、実際には、イスラエルの主と、ものもいわず、信頼の置けない偶像の対決でした。イスラエルの神は救いといのちの神です。偶像は、よいことも悪いことも、何もできません(エレミヤ10・5参照)。そこでは、神に向かい、祈るための二つの異なる態度の対決も始まったのです。
 実際、バアルの預言者たちは叫び、騒ぎ立て、飛び跳ねながら踊り、興奮状態に陥りました。ついには「剣や槍でからだを傷つけ、血を流すまでに至った」(列王記上18・28)のです。彼らは自分たちの神に語りかけるために自分自身に向かいました。答えを得るために自分の力に頼ったからです。こうして偶像のいつわりの姿があらわにされました。人は偶像を思いどおりにできるもの、自分の力で管理できるものだと考えます。それは人間が自分自身で、自分の生命力をもって近づくことができるものなのです。偶像崇拝は、人間の心を他なるかたへと、自由な関係へと開くのではありません(この自由な関係によって、人は利己主義の狭い空間を抜け出し、愛し、互いに与え合う次元に歩み入ることができます)。むしろそれは、人格を自己追求の排他的かつ絶望的な循環の中に閉じ込めてしまいます。人はこの深いいつわりである偶像を崇拝することにより、極端な行動をとらざるをえなくなります。偶像を自分の意志に従わせようとする幻想にとらわれるからです。そのためバアルの預言者たちは、皮肉にも、悲しむべき動作によって自分に危害を与え、からだを傷つけるに至ります。何らかの答えを、自分たちの神が生きていることのしるしを得ようとして、彼らは血にまみれ、象徴的なしかたで死を身にまとうのです。
 これに対して、エリヤの祈り方はまったく異なります。エリヤは民に近くに来るように呼びかけます。自分のわざと祈願にあずからせるためです。エリヤがバアルの預言者たちに挑戦したのは、偶像に従って道に迷った民を神に連れ戻すためでした。それゆえエリヤは、イスラエルが自分と一つに結ばれ、自分の祈りとこれから起こることに参与し、その主体となることを望んだのです。次いで預言者エリヤは、テキストが述べるとおり、「主がかつて、『あなたの名はイスラエルである』と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて」(31-32節)祭壇を築きました。これらの石は全イスラエルを表します。それはイスラエルの民に与えられた選びと愛と救いを手で触れられるしかたで記念します。エリヤの典礼行為は決定的な意味をもちます。祭壇は主の現存を示す聖なる場です。しかし、祭壇を築く石は、民を表します。民は今や、預言者の仲介を通じて、象徴的なしかたで神の前に置かれ、奉献と犠牲の場である「祭壇」となります。
 しかし、象徴は現実とならなければなりません。イスラエルはまことの神を認め、主の民としての本来の姿に戻らなければなりません。そのためエリヤはご自身を現してくださるようにと神に願います。また、イスラエルに自らの真の姿を思い起こさせる十二の石も、主にご自身の忠実を思い起こしていただくために役立ちます。預言者が祈りの中で呼びかけるとおりです。エリヤの祈願のことばは深い意味と信仰に満ちています。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたのしもべであって、これらすべてのことをあなたのみことばによって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」(36-37節。創世記32・36-37参照)。エリヤは主に向かうとき、主を太祖たちの神と呼びます。こうして彼は暗黙のうちに、神の約束、選びの歴史、そして主とその民を分かちがたく結びつけた契約を思い起こします。神は人間の歴史に深くかかわりました。そのため、今や神の名は太祖たちの名と分かちがたく結ばれています。預言者はこの聖なるみ名を唱えます。それは、神がご自身の忠実を思い起こし、示してくださるためです。しかしそれは、イスラエルが名をもって呼ばれるのを聞き、自らの忠実に立ち帰るためでもあります。実際、エリヤが唱える神の名は、ある意味で驚くべきものです。エリヤは、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という通常の形式を用いずに、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」という普通あまり用いられない呼び方を使います。「ヤコブ」の名を「イスラエル」に変えたことは、ヤボクの渡しでのヤコブの戦いと、語り手がはっきりと示す名前の変更(創世記32・31参照)を思い起こさせます。これについてはわたしもこの連続講話の一つでお話ししました。この名前の変更は、エリヤの祈願全体の中で深い意味をもちます。預言者エリヤは北王国の民のために祈りました。北王国は、南王国を示すユダと区別して、イスラエルと呼ばれていました。今、太祖たちの神であり、イスラエルの民の神である神の名が唱えられます。そのとき、自分の起源と主との特別な関係を忘れてしまったかのように思われるこのイスラエルの民は、自分が名をもって呼ばれるのを聞きます。「イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること・・・・が、今日明らかになりますように」。
 エリヤが彼らのために祈った民は、自らの真実の前に置かれます。そして預言者は願います。主の真実も現されますように。主がイスラエルを回心させてくださいますように。彼らをいつわりの偶像から引き離し、救いに連れ戻してくださいますように。エリヤの願いはこれです。それは、民がついに本当の自分の神はどなたであるかを知って完全に悟ること、そして、真の神であるこのかただけに従う決断を行うことです。なぜなら、このようにして初めて、他の神々と並べるようなことなしに、神を真実の姿で――すなわち、絶対的で、超越的なかたとして――認めることができるからです。他の神々と並べるなら、神が絶対的であることが否定され、相対化されます。この信仰がイスラエルを神の民とするものです。この信仰は有名な「シェマ・イスラエル(聞けイスラエル)」の祈りの中で唱えられます。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・4-5)。絶対的な神に対して、信じる者は絶対的かつ完全な愛をもってこたえなければなりません。信じる者は、いのちを尽くし、力を尽くし、心を尽くしてこの愛をささげなければなりません。そして預言者エリヤは、まさにこの民の心のために、祈りをもって回心を願い求めます。「そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」(列王記上18・37)。エリヤは自らの執り成しによって、神ご自身がなさろうと望まれることを神に願います。どうかご自分のあわれみをすべて現してください。ゆるし、回心させ、人々を造り変える、いのちの主としての姿に忠実に従ってください。
 すると次のことが起こります。「主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』といった」(38-39節)。火という要素は、必要であると同時に恐ろしいものです。それはシナイ山での燃える柴での神の現れと結びついています。今やこの火が、神の愛のしるしとして用いられます。神は祈りに答え、ご自分の民にご自身を現されたからです。ものいわぬ無力な神であるバアルは、預言者たちの祈願に答えませんでした。しかし、主は答えてくださいます。それもはっきりとしたしかたで答えてくださいます。主は献げ物を焼き尽くすだけでなく、祭壇の周りに注いだ水をなめ尽くしました。イスラエルはもはや疑いようがありません。神のあわれみは、弱く、疑い深く、信仰を欠いた民と出会いに来られます。今や空しい偶像であるバアルは打ち倒され、道に迷ったかのように思われた民は真理の道を、自分自身を再び見いだしました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。この過去の物語はわたしたちに何を語りかけてくれるでしょうか。この物語は現代において何か意味をもっているでしょうか。ここで何よりも問題にされているのは、神のみを礼拝しなさいという、第一戒が第一に重要だということです。神が消え去ったとき、人は偶像の奴隷となります。現代の全体主義体制が示したとおりです。さまざまな形のニヒリズムもこのことを示しています。ニヒリズムは人間を偶像や偶像崇拝に依存させ、人を奴隷とするからです。第二の点はこれです。祈りの第一の目的は、回心です。神の炎はわたしたちの心を造り変え、神を見ることを可能にしてくださいます。そこから、神に従って生き、他者のために生きることを可能にしてくださいます。第三の点はこれです。教父がいうとおり、預言者の歴史も預言的です。教父はいいます。もしも預言者の歴史が未来の影、来るべきキリストの影であるなら、それはキリストへと向かう道の一歩です。教父はいいます。わたしたちはこの箇所に神のまことの火を見いだします。それは、主を、ご自身を完全にささげる十字架へと導いた愛です。それゆえ、神を真に礼拝するとは、自分を神と人々にささげることです。真の礼拝とは、愛することです。神を真に礼拝することは、何かを破壊せず、むしろ刷新し、造り変えます。確かに愛の炎である神の火は、燃やし、変容させ、清めます。しかしまさにそのようにしてそれは、何も破壊せず、むしろわたしたちの存在の真の姿を造り出します。わたしたちの心を元気づけます。このようにして聖霊の炎、神の愛の炎の恵みによって実際に生かされながら、霊と真理をもって礼拝する者となろうではありませんか。ご清聴ありがとうございます。

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