教皇ベネディクト十六世の276回目の一般謁見演説 詩編

6月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の276回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第7回として、「詩編」について […]


6月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の276回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第7回として、「詩編」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
なお、教皇は次週6月29日(水)午前9時30分からサンピエトロ大聖堂で聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日のミサを司式し、7月は夏季休暇に入るため、次回の一般謁見は8月3日(水)の予定です。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 これまでの講話で、祈りの考察にとってとくに重要な幾人かの旧約の人物を取り上げてきました。わたしはアブラハム、ヤコブ、モーセ、エリヤについてお話ししました。アブラハムは異邦人の町のために執り成します。ヤコブは夜の戦いの中で祝福を受けます。モーセは自分の民のためにゆるしを願い求めます。エリヤはイスラエルの回心のために祈ります。今日の講話では、新しいシリーズを開始したいと思います。わたしたちは、祈る人の特別な出来事について解説するのではなく、優れた意味での「祈りの書」である詩編に歩み入ります。これからの講話の中で、もっとも美しい詩編、また教会の祈りの伝統の中でもっとも親しまれてきた詩編のいくつかを読み、黙想したいと思います。今日は導入として、詩編全体についてお話しします。
 詩編は祈りの「式文集」として示されます。それは150の詩編を集めたものです。聖書の伝統はこれらの詩編を信じる者に与えました。それは、詩編が彼らの祈り、わたしたちの祈りとなり、神に向かい、神とかかわるための方法となるためです。詩編の中では、人間の経験のあらゆる側面、人生に伴うあらゆる種類の感情が表現されます。喜びと悲しみ、神への望みと自分がふさわしくないという自覚、幸福と見捨てられた感覚、神への信頼と悲惨な孤独、生の充溢と死への恐れが、より合わされて表されます。信じる者の現実全体が詩編の祈りに流れ込みます。初めにイスラエルの民が、後に教会は、この祈りを、唯一の神とかかわり、歴史の中でご自身を示された神に適切なしかたでこたえるための特別な手段として受け入れました。このような祈りとしての詩編は、魂と信仰の表現です。詩編の中で、すべての人は自らを見いだすことができます。またそこではすべての人が招かれている神との特別な親しいかかわりが示されます。そして、人間存在の複雑さが、さまざまな詩編の異なる複雑な文学形式のうちに余すところなく凝縮されています。すなわち、賛歌、哀歌、個人の祈願と共同体の祈願、感謝の歌、悔い改めの詩編、知恵の詩編、そして、この詩的作品のうちに見いだされるその他の形式です。
 多様な表現が見られるとはいえ、詩編の祈りを二つに大きく区分することが可能です。嘆きと結ばれた祈願と、賛美です。この二つの次元は、関連し合い、ほとんど切り離すことができません。その理由はこれです。祈願は、神がこたえてくださるという確信に促され、賛美と感謝へと開かれています。そして、賛美と感謝は救いが与えられた経験から湧き出ます。救いは、祈願が示すとおり、助けを必要とすることを前提するのです。
 祈る人は、祈願の中で、嘆きながら、自らの不安、危険、苦悩の状況を語ります。また、悔い改めの詩編に見られるように、罪と咎を告白し、ゆるしを願います。祈る人は、自分の祈りが聞き入れられるという信頼のうちに、助けを必要とする状態を主に示します。それはその人がこう認めていることも意味します。神はいつくしみ深く、善を望まれ、「いのちを愛され」(知恵11・26参照)、進んで助け、救い、ゆるすかたです。だから、たとえば詩編31の詩編作者は祈ります。「主よ、みもとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく・・・・隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦」(2、5節)。それゆえ、すでに嘆きのうちに、ある種の賛美がなされます。賛美は、神の働きかけへの希望のうちに前もって告げられ、後に神の救いが現実となったときに表されます。同じように、感謝の詩編と賛美の詩編では、与えられた恵みを思い起こし、神の偉大なあわれみを仰ぎ見ることのうちに、救われる者が取るに足りず、助けを必要としていることも認められます。このことが祈願の元にあるからです。こうして人は自らの被造物としての状態を神に告白します。この状態は避けがたいしかたで死によって特徴づけられながらも、いのちへの根源的な望みを抱きます。だから詩編86の中で詩編作者は大声で叫ぶのです。「主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげ、とこしえにみ名を尊びます。あなたのいつくしみはわたしを超えて大きく、深い陰府(よみ)からわたしの魂を救い出してくださいます」(12-13節)。このようなしかたで、詩編の祈りにおいて祈願と賛美はより合わされ、唯一の歌となります。この歌は、弱いわたしたちに身をかがめてくださる主の永遠の恵みを記念します。
 詩編がイスラエルと教会に与えられたのは、まさに信じる民が一つになってこの歌を歌えるようにするためです。実際、詩編は祈ることを教えます。詩編の中で、神のことばは祈りのことばとなります。霊感を受けた詩編作者のことばとなります。さらにそれが詩編を祈る人のことばにもなります。聖書の詩編のすばらしさと特徴は、詩編に含まれる祈りが、聖書に収められた他の祈りと異なり、意味と役割を特定する物語の筋に組み入れられていないことです。詩編は祈りのテキストとして信じる者に与えられます。この祈りのテキストの唯一の目的は、それが、このテキストを受け入れ、このテキストによって神に向かう人の祈りとなることです。詩編は神のことばなので、詩編を祈る人は神が与えてくださったことばそのものによって神に語りかけます。神ご自身が与えてくださったことばをもって神に向かいます。こうしてわたしたちは、詩編を祈ることによって祈ることを学びます。詩編は祈りの学びやなのです。
 これはある意味で、幼児が話し始めるときと似ています。幼児はことばによって自分の感覚、感情、必要を表現することを学びます。このことばは、幼児に生まれつき備わるのではなく、両親や自分の周りで暮らす人々から習得したものです。幼児が表そうと望むのは自分の体験したことですが、表現手段は他人に由来します。そして幼児は少しずつことばを自分のものとします。両親から与えられたことばを自分のことばとします。そしてこのことばを通じて、ものごとを考え、感じる方法を学び、概念の世界全体に近づきます。そして、ことばによって、現実と人々、また神との関係も深まります。両親の言語はついには自分の言語となります。そしてその人は、他人から受け取りながら、今や自分のものとなったことばで語ります。同じことが詩編の祈りにもいえます。詩編の祈りはわたしたちに与えられるものです。それは、わたしたちが神に向かい、神と会話し、神のことばによって自らのことについて神に語り、神と出会うための言語を見いだすことを学ぶためです。そして、詩編のことばを通じて、神の行動基準を知って受け入れ、神の思いと道の神秘に近づくことが可能になります(イザヤ55・8-9参照)。そこから、信仰と愛はますます深まります。わたしたちのことばは、ことばだけにとどまらず、現実と概念の世界を指示してくれます。それと同じように、詩編の祈りも神のみ心を示してくれます。わたしたちは詩編の祈りによって、単に神と語ることができるだけでなく、神がいかなるかたであるかを学ぶことができます。そしてわたしたちは、神と語る方法を学びながら、人間であること、自分であることとはいかなることかを学びます。
 このことに関連して、ユダヤ教が伝統的に詩編につけた標題は意義深いと思われます。詩編は「テヒリーム(tehillîm)」と呼ばれます。このヘブライ語のことばの意味は、「賛歌」です。このことばの語根は、「ハレルヤ(Halleluyah)」にも見いだされます。「ハレルヤ」は文字どおりには「主を賛美せよ」を意味します。それゆえ、詩編という祈りの書は、たとえそれが多様で複雑な形をとり、さまざまな文学類型をもち、賛歌と祈願に分かれていたとしても、究極的には、賛美の書です。詩編は、感謝し、神の偉大な恵みを記念し、神のすばらしいわざを思い起こし、その聖なるみ名をたたえることを教えるからです。詩編は、ご自身を現してくださり、わたしたちがそのいつくしみを味わった主に対するもっともふさわしいこたえです。詩編はわたしたちに祈りを教えることを通して、すさみと悲しみの中でも神がともにいてくださること、神が驚くべきわざと慰めの源であることを教えてくれます。確かに人は泣いて祈願し、執り成し、嘆き悲しむこともあります。しかしわたしたちは知っています。わたしたちは光に向かって歩んでいることを。そして、この光のもとで、賛美が決定的なものとなることを。詩編36が示してくれるとおりです。「いのちの泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36・10)。
 しかし、ユダヤ教の伝統は、この詩編書全体の標題だけでなく、多くの詩編に特別な標題をつけました。そして、これらの詩編の大部分をダビデ王の作としました。人間的にも神的にも注目すべき人物であるダビデは、複雑な人です。彼は波瀾万丈の生涯を送りました。父の群れの若い羊飼いだったダビデは、ときには劇的な出来事を体験することを通して、イスラエルの王、神の民の牧者となりました。彼は平和の人でありながら、多くの戦争で戦いました。うむことのない力強い神の探求者でしたが、神の愛を裏切りました。ダビデの特徴はこれです。彼は何度も重い罪を犯しましたが、つねに神を探し求め続けました。へりくだって悔い改めた彼は、神のゆるしと罰を受けました。そして、苦しみに満ちた運命を受け入れました。こうしてダビデは、数々の弱点にもかかわらず、王に立てられました。彼が「み心に適う人」(サムエル記上13・14参照)、すなわち、熱心に祈る人、祈願し、賛美することを知っている人だったからです。それゆえ、詩編とこの名高いイスラエルの王とのつながりは重要です。なぜなら、ダビデは主に油注がれたメシア的人物であり、ある意味でキリストの神秘の前表だからです。
 同じく重要で意味深いのは、詩編のことばが新約によって引用されるしかたと頻度です。新約はダビデというメシア的人物と詩編のつながりが示す、詩編の預言的意味を受け入れ、強調します。主イエスは地上の生涯の中で詩編によって祈りました。詩編はこの主イエスのうちに決定的なしかたで実現し、より完全で深い意味を表しました。わたしたちが神に語りかけるために用いる詩編の祈りは、神について、御子について語ってくれます。御子は見えない神の姿(コロサイ1・15)であり、御父のみ顔を完全なしかたで現します。それゆえキリスト信者は、詩編を祈ることによって、新たな観点のもとに詩編の歌を受け入れながら、キリストのうちに、キリストとともに御父に祈ります。詩編は過越の神秘のうちにその究極的な解釈の鍵を見いだすからです。そこから祈る人の展望は予想できなかった現実へと開かれます。あらゆる詩編はキリストのうちに新たな光を与えられます。こうして詩編は限りなく豊かな輝きを放つことができるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。それゆえ、この聖なる書を手にとり、神に向かうことを神から教えていただこうではありませんか。詩編を、日々の祈りの歩みの中でわたしたちを助け、ともに歩いてくれる導き手としようではありませんか。わたしたちもイエスの弟子たちと同じように願おうではありませんか。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)。心を開いて師であるかたの祈りを受け入れようではありませんか。この師の祈りの中で、あらゆる祈りは完成するからです。こうして御子に結ばれて子とされたわたしたちは、「わたしたちの父よ」と呼びながら神に語りかけることができるのです。ご清聴ありがとうございます。

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