教皇ベネディクト十六世の2011年6月26日の「お告げの祈り」のことば キリストの聖体

教皇ベネディクト十六世は、6月26日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 「お告 […]


教皇ベネディクト十六世は、6月26日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日も幾人かの人の列福をお知らせできることをうれしく思います。昨日(6月25日)、1943年にナチスによって彼らが殺害された場所であるハンブルクで、ヨハネス・プラセク(Johannes Prassek 1911-1943年)、エードゥアルト・ミュラー(Eduard Müller 1911-1943年)、ヘルマン・ランゲ(Hermann Lange 1912-1943年)が列福されました。今日、ミラノで次の人々が列福されます。18世紀から19世紀に生きたレッコの模範的な主任司祭のセラフィノ・モラッツォーネ(Serafino Morazzone 1747-1822年)、ビルマ(ミャンマー)で宣教した英雄的なミラノ外国宣教会宣教者のクレメンテ・ヴィスマラ神父(Clemente Vismara 1897-1988年)、そして、ミラノ・サン・ヴィットーレ刑務所の「天使」と呼ばれた、(聖ジョヴァンナ・アンティダ・トゥレットの)愛徳修道女会のエンリケッタ・アルフィエリ修道女(Enrichetta Alfieri 1891-1951年)です。これらの輝かしい福音の証人を与えてくださった主を賛美したいと思います。
 聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日前の今日の主日に、イタリアでは聖ペトロ使徒座への献金の日が行われます。祈りと献金をもってわたしの使徒職と愛のわざを支えてくださるすべてのかたがたに心から感謝申し上げます。ありがとうございます。主が皆様に報いを与えてくださいますように」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日、イタリアとその他の国々ではキリストの聖体の祭日が祝われます。聖体、すなわち主のからだと血の秘跡は、主が二階の広間で制定された、教会のもっとも尊い宝です。聖体は脈打つ心臓のようなものです。この心臓が、教会という神秘体全体にいのちを与えます。教会は、キリストとの霊的で具体的なきずなを基盤とした有機体です。使徒パウロがいうとおりです。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10・17)。聖体がなければ教会はまったく存在しえません。実際、人間共同体を交わりの神秘とし、神を世にもたらし、世を神へともたらしうるものとするのは聖体です。聖霊はパンとぶどう酒をキリストのからだと血に変えます。だから聖霊は、聖体を信仰をもって受ける人を、キリストのからだの部分へと造り変えます。それゆえ教会は本当に、人間と神の一致と、人間どうしの一致の神秘なのです。
 ますます個人主義的となる文化において(個人主義は西洋社会に浸透し、全世界に広まりつつあります)、聖体は一種の「解毒剤」となります。この「解毒剤」は、信じる者の思いと心の中で働いて、彼らのうちに、交わり、奉仕、分かち合いの種をまきます。一言でいえば、福音の考え方をまきます。エルサレムの初代キリスト者は、この新しい生き方をはっきりと示すしるしでした。なぜなら、彼らは兄弟として愛し合い、持ち物を共有し、だれも貧しい人はいなかったからです(使徒言行録2・42-47参照)。これらすべてのことは何からもたらされたのでしょうか。聖体です。すなわち、ご自分の弟子たちのただ中に現実におられ、聖霊の力をもって働かれる、復活したキリストです。その後の世代においても、何世紀にわたって、教会は、たとえ人間的な限界と過ちはあっても、世にあって交わりの力であり続けました。わたしたちはとくにもっとも困難な時代、試練の時代に思いを馳せます。たとえば、全体主義政権に支配された国々にとって、主日のミサに集まれることがどれほど意味深かったことでしょうか。古代のアビティナの殉教者が述べたとおりです。「日曜日の感謝の祭儀なしに生きることはできない(Sine Dominico non possumus)」。しかし、いつわりの自由が作り出した空白も、同じように危険なものといえます。だから、キリストのからだにあずかることは、真理と共通善の味わいを再発見するための、知性と意志の薬なのです。
 親愛なる友人の皆様。わたしの前任者である福者ヨハネ・パウロ二世が「聖体に生かされた女性」(『教会にいのちを与える聖体』53-58)と呼んだ、おとめマリアに願い求めようではありませんか。マリアの学びやで、わたしたちの生活も完全に「聖体に生かされた」ものとなり、神と他の人々に開かれ、愛の力によって悪を善に変えることができ、一致と交わりと兄弟愛を深めることができますように。

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